キュレーターによるリサーチの偏り
——「あいちトリエンナーレ2019」(芸術監督・津田大介)が参加作家のジェンダー平等の方針を発表して以降、美術界のジェンダーにまつわる実態が注目されています。状況をどうご覧になっていますか?
津田さんが今回、データを示しながら行った問題提起には、個別に考えられるいくつかの視点が含まれていたと考えています。
「美術大学の学生は女性が圧倒的に多いにもかかわらず、教授には男性が多い」など、誰もが気づいていながらはっきりと指摘されてこなかった事実をデータ化したことは重要でした。ただ、個々のデータをどう結び付けて読み解くのかは、さらなる分析が必要だと思います。
そのなかで私が注目し、関係性に着目したのは、「全国の学芸員、キュレーターは女性が多い」けれど、「国際芸術祭の出品作家には男性が多い」というデータでした。じつはこの問題は美術館における現代美術展にも当てはまり、女性キュレーター同士でも話題になることが多いんですね。そこで今回の問題提起を受けて私が考えたのは、現代美術展という枠組みで作品をプレゼンテーションするという行為自体に、男性作家の持つ戦略との親和性があるのではないかということでした。
——というのは?
ここには、キュレーターのリサーチの仕方が関わっています。キュレーターというのは展覧会の「公共性」を担保する存在だと考えてみます。現代美術のキュレーターは、単純な自分の好みというより、どの作品や動向が現代の社会をリプレゼントしているのかといった視点で展覧会を構成します。そのリサーチの対象になる活動の現し方に、どちらが長けているのかと言えば、男性作家なのではないか、と。つまり、社会に対する時宜性、アクチュアリティという現代美術展が持っている戦略と、男性作家の興味や戦略に親和性があるのではないかということです。
もちろん男女の二項対立で語ることは乱暴すぎますし、性の多様性が言われるなか、ヘテロセクシャルの男性とそれ以外の性の、あくまで議論の端緒としての傾向分析と考えていただきたいのですが、近年、注目を浴びたアートコレクティブを見ると、担い手のほとんどは男性です。彼らは、「自分たちの活動が、ひとつの動向として社会に現れる方法」として、コレクティブでの活動を選択しています。こうした発想や集団による動きは、社会における性の問題、フェミニズムやLGBTをテーマとする作家を除けば、男性作家以外には比較的少ないという感覚があります。そのなかで、「現在という時代を表象している作家は誰か」といった視点で作家を選ぶと、「自然」と男性作家が多くなっていく。
つまり、これはキュレーターの問題だということです。海外ではそうした傾向があまりないどころか、積極的に性のアイデンティティを問う作品が目立つことを考えれば、日本のキュレーターの問題とも言えるかもしれません。個別の作家は、その性にかかわらず、それぞれの関心を探求しています。しかし、日本のキュレーターのリサーチの仕方が時代や社会の一面的な表象に偏りすぎているため、そこからはみ出す関心を携えた作家の作品をとらえられていないのではないか。そう感じました。
ライフイベントによる負担
——男性と女性のあいだで、社会性への関心の大きさに違いがあるということですか?
子育て論などでも父性と社会性を結び付けて語られたりしますが、ある程度はそう言えるのかなと思います。もちろん女性作家にも、東京藝術大学の榎倉康二門下だった豊嶋康子さんや白井美穂さんら7人の女性作家が2015年に開催した「Reflection: 返礼―榎倉康二へ」や、現在、東京都美術館で展示されている小勝禮子さんたちの「エゴイメ・コレクティヴ」のような、興味深いコレクティブの活動もありますが、数としてはやはり少ない。
ただ、では単純に女性が男性の方法を模倣すればいいのかといえば、それは慎重になるべきなのかなと思います。
先日、「30歳以下」を応募条件にした「群馬青年ビエンナーレ2019」の審査員を務めさせていただいたのですが、入賞者のかなりの割合を女性作家が占めていました。大賞を獲られた赤松加奈さんは、農家に嫁いで家業を手伝いながら作家活動を続けようとしていました。そういう作家さんたちを前にした授賞式のスピーチで、私は、これからの活動へのアドバイスとして、「女性作家も、お互いにもっとネットワークをつくったほうがいい」ということを話したんです。
しかし、今回の津田さんの問題提起を受けて、もう一度振り返ったとき、たとえば、他者と共有できない個別的な感覚を扱う作家にとっては、コレクティブという感覚は受け入れられない場合もあるはずで、ちょっと乱暴だったかもしれないと思い返しました。重要なのは、そのことに作家活動にとっての必然性を感じられるかどうかですよね。
——活動の方法論は一様ではないし、一様であってはいけないと。
いっぽう、女性作家の活動を妨げる別の問題もあります。「群馬青年ビエンナーレ」の応募条件は「30歳以下」とお話しましたが、これが「30歳以上」となると、女性作家のなかには作家活動を辞めてしまう人がとても多い。なぜそうしたことが起きるかといえば、ここには、現在のアーティストに求められているキャリアプランの問題があると思います。
女性には結婚や出産など、いろんなライフイベントがありますが、現状、アーティストはいったんキャリアを中断して、再開することが難しい状況があります。しかし、先ほどの同時代的な動向としての現れ方の話にもつながりますが、キュレーターもギャラリストやメディアと同じように、アーティストを世代と結びつけてリサーチしているところがあって。20〜30代という若手世代の動向のなかでなんらかのプレゼンスを示す機会がないと、そのあとにキャリアをつなげるのが難しいという面があると思うんですね。
——世代で作家を括ってしまうというのは、雑誌づくりのなかでも起こりがちです。しかしそうしたフィルターの設定が、その背後で負担を抱えている作家の姿を見えにくくしている可能性がある。
ずっと作家活動に注力できることを前提にした世代構成への注目を変えないかぎり、この問題は解決しません。それをアーティストの責任とするのではなく、キュレーターをはじめ、場をつくっていく人間の意識を変えていかないといけないと思います。
女性作家の活動を拾うための言葉を
——ところで藪前さんは、大学時代に美術のモダニズムの研究をするなかで、当時隆盛していたジェンダー批評には距離感を感じていたそうですね。
私が美術史を大学から大学院で学んでいた時代は、「ニューアートヒストリー」なんていう言葉とともに、美術作品の内容分析よりも、それが社会から受けている影響や受容のされ方の研究に注目が集まった時期でもありました。その流れのなかで、ジェンダー批評も盛んでしたし、例えば美術史学会で、「新しい歴史教科書をつくる会」とジェンダー批評を専門とする美術史家の方々が議論したりするのを目の当たりにしていました。修士論文の副査が当時、その流れの中心にいらした千野香織先生だったのですが、彼女から、「モダニズムがそもそも男性中心主義の価値観であることに無批判なのでは」という辛口の指摘をいただいたのを覚えています。
私自身は、ジェンダー批評の重要性はもちろん理解していましたが、その言説のあり方には距離を感じていました。というのも、社会構築主義的にのみ語られるジェンダー論は、どれも結論が決まっているというか、男性中心の過去の枠組みでつくられた作品はパズルのようにその批評の構造に当てはまってしまうのではないか、と。それでも指摘し続けることは重要ですが、自分の仕事ではないのかなと感じていました。
いっぽう、私はモダニズムが帰結させていく絵画の視覚中心主義を、身体性や物質に対する感受性といった側面から開く研究をしていました。ただ、改めて千野先生の指摘を思い返してみると、そうした論文のテーマからも、現在の新しい唯物論につながるような、身体的な次元に着目するジェンダー論を招き入れたり、あるいは、モダニズムの男性中心の美術史観を更新するような女性作家たちの活動の紹介へと研究を進めることもできたかもしれないですね。残念なことに、当時は思い至るまでもなかったのですが。
——キュレーターの方たちは、いまの藪前さんのお話のように、美術館に入ったときにはそれぞれ多様な問題意識をお持ちだと思うのですが、その後の業務のなかで、キュレーションの方向性がある種一様になってしまうことには、どのような背景があるのでしょうか?
やはり、リサーチの方法、とくにそれにかけられる時間の足りなさという問題があると思います。目立つ動向だけしかキャッチすることができない。そこからあふれてしまう作家の活動を拾うためには、個別の作家の活動に丁寧に寄り添って、展開を見ていく必要があります。しかしそうした時間が、いまの多忙なキュレーターの業務のなかではなかなかつくりにくい面があると思います。
——そうしたなかで、目の前でできる対応策にはどんなものがあると考えていますか?
自分にできることは、女性作家についての言説とアーカイブを増やしていくことです。残していかないと、ないものとされてしまう。作家とは別に、美術批評にも女性の書き手、言説をつくる人が非常に少ないという現実問題がありますね。
いま準備しているもののひとつに、豊嶋康子論があります。1967年生まれの豊嶋さんは、世代論で区切っていく美術史の動向ではとらえられない作家のひとりだと言えると思います。また、作品のテーマや手法が多岐にわたり、ひとりの作家の作品とは思えない幅があったりします。一貫した「作家性」、ひとつの主体に自分の作品を組織させていくというやり方をするかどうかという問題は、先ほどからお話ししている社会への現れ方の問題にも関わっています。歴史のなかで見えにくい、しかし重要な作家についての言説をつくっていかないといけないと思います。
複数の世界をつなぐ技術としてのアート
——「あいちトリエンナーレ」のデータでは、美術館学芸員と館長の男女比の反転現象も指摘されていました。学芸員は6割以上が女性にもかかわらず、館長になると8割以上が男性であるという問題です。この点については、どのように考えていますか?
キュレーターに女性が多いのは、ある世代以降のキュレーターの、雇用の不安定さが背景にあると思います。端的に言えば、日本の美術館のキュレーターの多くは、非正規や任期付きで、かつ低い給与で雇われているという現実がある。これは海外でも指摘されていますが、従って長く続けられるのは、配偶者など経済的に支えてくれる存在のいる女性が多くなる。
これは、キュレーターに限った話ではありません。アートの領域で仕事をしているマネージメント関係者やコーディネーターには、圧倒的に女性が多いですよね。この背景にも同じ問題が指摘できると思います。
——館長クラスに男性が多いという問題については、いかがでしょうか?
女性学芸員が増えるのは、ある世代以降ですよね。現在の館長の方々の世代は、やはり男性学芸員が圧倒的に多い時代だった。そうした意味では、世代が移り、キュレーター全体における女性のボリュームが変わると、館長の男女比も必然的に変わってくるのではないか、とは思います。ただ、男性学芸員は少ないとはいえ、そもそもの学芸員志望者の男女比に比すれば、高確率で採用されているということは言えると思います。力仕事という側面もあるし、「男性に入ってほしい」という現場の声は、わりにあちこちで聞かれたりします。
——いっぽう、さきほど藪前さんも触れられた、プライベートな領域の問題もあると思います。つまり、女性作家が活躍しようとするときに、私生活の部分である種の負担を強いられることがあるという問題ですが、これについて何か考えられる改善策はあるのでしょうか?
アーティストのほとんどは、男女にかかわらず作家活動とは別に生業を持ちながら制作をしている人ですよね。さらに女性は、仕事と制作に加えて子育ても主体的にしないといけないケースも多く、ほとんど完遂することが不可能な状況だなと思うんです。
ただ、私も子育てをしながら働いていますが、その世界での経験が、仕事に影響を与えたりする。アートというのは異なる複数の世界をつなぎ合わせるひとつの技術ではないか、と思うことがあるんです。なので、これは解決策とは呼べないかもしれませんが、そうした異なる世界、視点を持つということは、作家活動にも必ずフィードバックがあると思います。
——異なる世界をつなぎ合わせる技術としてのアート。たしかに、このアートの価値がより広く認識されるといいのかもしれません。
そうですね。よく定年後のお父さんの現状なんかで言われたりするのが、男性は社会がひとつしかないけれど、女性は複数の社会を渡り歩いてひとつの自分をつくるということ。もちろん男性作家にもそういう人はいるし、一面的には言えませんが、それは先ほどの社会性や作家性に対する作家の関心のあり方の話につながりますね。作品にいろんな側面があって、ひとつに自分を位置付けなくていい。そうした活動に注目していきたいという思いがあります。
美術館と社会の接点を変えていく
——女性だからこそ持てる視点が、ナチュラルに現代美術の文脈とつながるケースが増えるといいですよね。
そう思います。最近、宮永愛子さんとお話ししたのですが、宮永さんは小さなお嬢さんを育てながら作家活動をしていて、そうした作家のモデルが少ないので、近年、よく美大に呼ばれるとおっしゃっていました。彼女は、後学の女性作家に対する責任も感じているようです。私自身も、同じ職場の先輩に子育てをしているキュレーターがいたということが大きかった。そうしたモデルが身近にいるだけで違うと思います。
2012年にArt Center Ongoingの小川希さんが、小金井市にある「小金井アートスポット シャトー2F」で女性作家3名による「MOTHERS」という展示を企画されていて、トークに呼ばれたことがあったんですね。小川さんは当時子育てのさなかでしたが、印象的だったのは、彼が保育園で出会うママたちとの会話を「一人ひとりが表現者、アーティストと話しているみたいな感覚になる」と語っていたことでした。子育てする母親の持っている創造性という、見えにくいものに目を向けさせられました。
——もしかするとそれは、小川さんが地域のコミュニティと緩やかにつながるオルタナティブな場所で表現に関わっているからこそ、持てた視点かもしれません。
そうですね。美術館のなかにいる人間とは、表現に対する見え方が違うのかもしれません。美術館というものが持つ構えの強さが、そこで展示される表現の幅を限られたものにしているという面はある。それはマッチョイズムとも言えますし、展覧会に男性作家のほうが呼ばれやすいという問題とも、直結していると思います。
——美術館と社会の接点が変わることで、美術館で扱われる作品のあり方も変わっていく可能性があります。
2015年に企画した「山口小夜子 未来を着る人」では、ハイブランドのトップモデルだった小夜子さんがファッションを通じて発信したもうひとつのメッセージ、つまり古着のリメイクや、ビールの空き缶でネックレスをつくってしまうようなささやかな表現のあり方も紹介しました。大文字の「芸術」ではなく、メイクやネイルでもなんでもいいのですが、例えば日常生活のなかで何かを表現したい、発信したいという人たちに届けられる何かがあるのではないかと思ったんです。
また、その次に企画した「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展(2015)にも、子供や親子連れが美術館という空間に対して持っている恐怖心をなくし、ここを自分たちの場所なんだと思ってもらいたい、という意図がありました。
同様の視点は、私が勤める東京都現代美術館のリニューアル・オープンのヴィジョンにも見ることができると思います。美術館の隣にある木場公園の続きとして、展覧会ではなく館内のパブリックスペースを目的に、子供からお年寄りまで、さまざまな人が美術館を訪れる。この空間を自分たちのものと感じてもらったとき、展覧会へも自然と足が向くようになるかもしれない。こうした美術館という場のあり方の複数化も、長期的には、そこで扱われる作家のジェンダーの問題の改善につながっていくのではないかと思います。