シリーズ:これからの美術館を考える(8)
コレクション/キュレーション/鑑賞の関係を再構築しよう

5月下旬に政府案として報道された「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」構想を発端に、いま、美術館のあり方をめぐる議論が活発化している。そこで美術手帖では、「これからの日本の美術館はどうあるべきか?」をテーマに、様々な視点から美術館の可能性を探る。第8回は、和歌山県立近代美術館教育普及課学芸員・青木加苗が美術館におけるコレクション、キューレション、そして鑑賞の関係を再考する。

文=青木加苗

和歌山県立近代美術館 出典=ウィキメディア・コモンズ

和歌山県立近代美術館 出典=ウィキメディア・コモンズ

「これからの美術館」は制度によってつくられるのではない

 筆者はこのシリーズ「これからの美術館を考える」を、一読者として眺めていた。「眺めて」と思わず書いてしまったところには、筆者と各執筆者の主張との心の距離が表れている。それぞれの議論が美術館と学芸員の制度的な面への問題提起で、心の中で首肯・反論するところはあるものの、自分には何をどうできるわけでもなく、人口減少が加速し予算逼迫に悩む地方の美術館に勤める名もない、一学芸員の耳にはどうにも遠い雲の上の話に聞こえてならなかったからだ。

 いや、他人事だと言いたいわけではない。筆者は昨年5月に全国美術館会議が公表した「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」の策定に末席ながら携わっていたし、日本の美術館がどうあるべきか、少ない経験のなかでも真摯に考え続けてきたつもりである。ただそれは、ひとりの学芸員としていま何をすべきか、明日自分に何ができるか、というささやかなもので、誰かに影響を及ぼすような大それたものではない。しかしこういった現場の学芸員たちの日々の仕事こそが、いや、学芸員だけでなく総務部門や受付・監視職員、設備担当も含めたあらゆる美術館人たちの仕事が、「これからの美術館」の姿をかたちづくっていくのではなかろうか。そうでなければならないし、私たち一人ひとりがその責任を負っているという自覚を持つべきでもある。さもなければ、制度がどう変わろうとも、この国の美術館の本質は変わらない。

 おそらく「これからの美術館」をより良いものにするために必要なのは、現状を一気に打開する「スペシャルなアイデア」を誰かが出してくれるのを待つことではない。規模の大きな一握りの「主導的な(リーディング)」美術館をモデルに議論がなされるのを、遠巻きに見ていることでもない。館の規模や仕事の大小にかかわらず、美術館に携わる私たち一人ひとりが、日々の仕事に直接関わるところから考え、改善策を試行錯誤し、気付きと知恵を共有して、議論を深めていくことから始めるしかないのだ。そのための試みとして筆者は、展覧会も教育普及も担当する学芸員として、常に思いを巡らせてきたコレクション、キュレーション、そして鑑賞という三つのキーワードに基づいて本稿を記すことにした。

コレクションと公共性

 「リーディング・ミュージアム(先進美術館)」の問題から話を始めよう。この構想が多くの反発を引き起こしたのは、美術館活動の根幹のひとつである作品収集(収蔵)を、その価値付けのために意図的に行わせようという魂胆が見えるからだ。そして一度収蔵された作品を動かすことで市場価値を高めることができ、それが美術市場の「活性化」であると考えているところにも、異論が噴出した。この構想の危うさについては筆者が繰り返すまでもないが、その根底にあるのは、美術館のコレクションについての無理解ではないか。

 では美術館のコレクションとはなにか、作品収蔵がどのようなプロセスをたどって行われるのか、関係者には釈迦に説法だが、一般にはあまり知られていないだろうから、簡単に振り返っておきたい。

 国公立館の場合、まずは各館が収集方針を定めている。地域性や軸となる作家、事象が記されたもので、それにそぐわないものは原則、収集対象とならない。この収集方針は近年ウェブサイトで公開している館も増えており、そうでなければ毎年の事業を報告する年報等に載せられているので、比較的容易にアクセスできるだろう。学芸員は自館のコレクションを豊かにするために情報収集をする。そして「これは」というものを館内協議に上げ、選定委員会や収集委員会といった名称の有識者による第三者委員会に諮ることを決める。これは年に1、2回しか開かれない。審議にかけるためには作品現物を持ってこなければならないが、場合によってはその輸送費を自前で捻出する必要があるため、すぐに作品を動かせるとは限らない。

 そしてこれらの段階を経て、無事に委員会にかけられるとなれば、担当学芸員はその作品が自館にとってどのような意味を持つものか説明するための資料を作成する。そこには評価額や他館での収蔵実績なども含まれる。こうして委員会による審議・了承を経て、公立の場合はさらにその後、役所の決裁・支払いが行われて、ようやく晴れて収蔵となる。収集の方法は購入に限らず、受贈、管理替え等があるが、いずれにしても同じプロセスを経なければ収蔵できない。つまり、いくつものハードルがあるのだ。

 収集活動がこういった細かな手順を必要とするのは、美術館が所蔵する作品が公共の財産となるからである。ここで言う「公共」という語の指すところは、一般には税金で買うことによって生じる属性だと考えられているかもしれないが、本来もっと広い意味でとらえる必要がある。つまり、収蔵によって作品や資料を未来へつないでいく活動自体が社会から美術館に託された責務なのであり、その仕事が有する公共性、あるいは公益性によって美術館という存在が担保されているということだ。よって、収蔵作品が公共の財産であることは、国立、公立、私立といった設置者の区別とは関係がない。こういった考え方は、ICOMの倫理規定をはじめ、ミュージアム論の前提であるが(*1)、残念ながら日本には未だ根付いていないために、「リーディング・ミュージアム」という構想が出てきたのであろう。しかしたとえ時間がかかろうとも、ミュージアムについての共通理解となるよう広めていくほかはない。

ICOMウェブサイトより

コレクションというキュレーション

 このような収蔵のプロセスは、ときに長い時間と手間、そして所蔵者・関係者との深い信頼関係を必要とする。しかし多くの学芸員はその苦労を厭わず、むしろ喜びと感じて励んでいるだろう。限られた予算と時間、人手ではあるが、自館の未来にとって有益な作品をひとつでも多く集めることに、仕事の意味を見いだしているからだ。ただし最近ではほとんどの公立館で購入予算が削減され、ゼロになっているところも少なくないため、収集の仕事が引き継がれにくくなっていることは大きな問題でもある。

 しかし良い収集とは、ただ高値がついている作品を買い集めることではない。地道な美術館活動に理解を示すコレクターから貴重な作品が寄贈されることもあるし、全国的にはあまり知られていない作家であっても、各地域の美術の動きを示すためには貴重な資料となることもある。必要なのは、自館のコレクションに何を付け加えるべきか考え、常にアンテナを張っていることだ。

 このように多面的に行われる収集は、日々の活動と密接に関わり、美術館を成長させることにつながっていく。そしてもっとも大きなファクターとなるのは、やはり展覧会という社会との直接的な接点である。例えば近代以前の美術を扱っていると、展覧会を見た来館者から作品の情報が寄せられることもあるし、展覧会のための調査を通して、ある作家の遺品の中から思いがけない関連作家の作品が見つかることもある。現代作家の作品であれば、自館で開催した展覧会での新作を収集することが、もっとも直接的な意味を持つはずだ。展覧会の歴史が美術館の歴史となり、それがコレクションの蓄積となっていく。このサイクルが、コレクションを持たずに出発した日本の美術館の目指すべきかたちではなかろうか。

 そしてコレクションにどんな作品を加えるかを考えそれを実現することは、ひとつのキュレーション行為である。だから私たち学芸員は、展覧会をキュレーションする前に、コレクションというキュレーションを行っていることに、いま一度意識を向ける必要がある。このことに目を向ければ常設展示、さらにはコレクションを用いた企画展の意味は変わってくるはずだ。それは過去、現在、未来の学芸員たちが協働して行う、最大規模のキュレーションと呼べるのであるから。そして収集予算がないことが、学芸員の能力向上に停滞を招いていることは確かだろう。予算のある国立館や一部の館と収集に目を向けられない館との間には、コレクション形成に対する大きな意識の差が生まれている。

コレクションの価値は理解されているか

 しかしこうした収集活動が、美術館の外部にどう受け止められているかは別の話である。公立美術館の場合、作品収集の財源は直接的な税金となるため、「血税の無駄遣いではないか」という声がたびたび聞こえてくる。それは議会での質疑であったり、来館者からの直接の意見であったりとさまざまであるが、公立館の学芸員なら皆、一度は経験があるだろう。国立館の作品収集ももちろん税金によってなされるが、個人と国の距離感は、県民、市民と公立館のそれとはまったく異なっている。筆者の経験から言うと、日本の公立美術館が数多く所有している戦後アメリカの大型美術作品は、美術館の設立時に高額で購入されていることもあり、槍玉に挙げられがちである。そして必ずと言っていいほど、「よくわからない作品に◯億円」「子供でも描ける」といった、作品が理解できない不満と結びついた批判が聞こえてくるのである。

 このような意見を持つ相手に対し、それがいかにその館にとって意味のある作品かを理解してもらうことは容易ではない。価値判断は、価格によってしか行われないからだ。それはいくらまでなら妥当で、いくら以上なら無駄遣いなのか、という議論ではない。自分たちの理解できないものを、税金を使って購入すること自体が無駄と受け止められているのだから。あるいは「高価だからありがたがる」という逆転現象も起こるのだが、根っこは同じである。

 「リーディング・ミュージアム」構想で想定されている作品の価値も、同じく作品の値段を指す。美術館活動が作品の市場価格に少なからず影響を与えることは当然で、作家の個展が美術館で開かれれば、近くの画廊で関連する展示が行われ、作品が市場に出てくる。このこと自体は問題ではないし、古い時代を扱っていれば新たな資料の発見が促されるメリットさえある。しかし「作品の価値=作品の値段」として疑わないことは収集活動において大いに問題であり、加えてその価値付けをするのが美術館(学芸員)と批評家の専売特許であると考えていることもまた、大きな誤解ではなかろうか。これについては後述したい。

作品を手放す方法を日本の美術館は持ちうるか

 ただ、この「構想」のおかげで、これまであまり意識されていなかった問題が露わにもなった。それは日本の美術館には、コレクションを手放す術がおよそないという事実である。国公立館が作品や資料を収蔵するにあたっては、この先もそれらをずっと守り続けていくという認識に立っている。これは先述の「コレクションは公共財産である」という考え方と齟齬を来さない。

 いっぽうで公益財団法人格を有する私立美術館の場合は、コレクションの売却は理事会の承認を必要とする旨が定款に記されている。そして公益財団法人格を持たない私立(私設)美術館の場合は、私有財産であるために売却される可能性を大いに孕んでいる。記憶に新しいところでは、DIC川村記念美術館が所蔵していたバーネット・ニューマンの作品や日本画コレクションの放出が、この例に当てはまるはずだ。ともに公共性に依って立つ仕事をしているはずの美術館でありながら、設置者の区別によってコレクションの扱いが異なっている。

 結論から言えば、問題は国公私立を問わず美術館が、作品を手放す場合についてほぼ想定していないことにある。日本の美術館の歴史を考えればわかることだが、戦後、とくに70年代以降、各自治体が美術館という箱をこぞってつくった。ほとんどの場合、欧米の美術館のようにまとまったコレクションがもとになって設立されたわけではなかったため、空っぽの収蔵庫を埋めることが先決であった。集めることには躍起になったが、手放すことを考える機会はなかったというわけだ。

 諸外国はどうだろうか。じつは欧米の多くの美術館では、どのように作品を扱うかの方針を明文化しており、これはコレクション・マネジメント・ポリシーと呼ばれる。収集した作品をどう管理するか、つまり収蔵品のデータベース管理と収蔵庫内にある作品へのアクセスを含めた実体あるモノの管理方法、つまりレジストレーションが第一の課題となる。そこには、昨今日本でもようやく目を向けられ始めたアーカイヴの方法論や、作品貸出しの方針、保存環境、安全対策といったトータルの視点も盛り込まれる。先に保坂健二朗氏が雑芸員とも揶揄される日本の学芸職を解体し、キュレーターとレジストラーの仕事を区別する案を説かれたが、それを本気で実現するためには、まず前提となるコレクション・マネジメント・ポリシーをつくる議論が必要だろう。方針なき管理はただの倉庫番であるし、担当者変更による問題も生じかねない。(*2)

 そしてこのポリシーの中には、コレクションをどう処分するかについても記されている。膨大なコレクションを持つ欧米の美術館では、コレクションの大半が展示されないからだ(ちなみに日本で開催される海外の美術館コレクション展は、自館ではあまり日の目を見ることのない作品を集め、そこに名の知れた作家によるいくつかの目玉作品を組み合わせたもの、というのが少なくない。これを揶揄して「虫干し展覧会」という表現もある)。

 その結果、限られた収蔵スペースを喰い、管理にもお金はかかるため、公開できないコレクションに意味はあるのかという議論が、最近盛んに行われているのである。昨年、ICOMにある美術の国際委員会ICFAの年次大会でも、「常設展示とその収蔵」が会合のテーマに据えられたが、そこでの基調講演は、オランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館館長による同館の新たな収蔵庫の話題であった。これは来館者が中に入ってガラス越しに作品を見られるもので、展示室では見せられないコレクションを公開する新たな術として、昨今目立ってきたアイデアである。リニューアル準備中の宮城県美術館も、同様のコンセプトに基づく新たな収蔵庫を計画中であると聞く。今後、美術館の収蔵庫についての考え方は、世界的にもこの方向で進んでいくだろう。

宮城県美術館「ヴィジブル・ストレージ」のイメージ図

 それでも収蔵スペースには限界があり、将来にわたって継続したコレクションの成長を考えるなら、私たちもコレクションの処分について検討を始めることが必要だ。コレクション・マネジメント・ポリシーを支える考え方としてはICOMの倫理規定に「収蔵品の除去」という項目があるが、ここには、ミュージアムがコレクションを処分するのは別の作品・資料を購入の場合にのみ許されることが明記されている(*3)。運営資金を補填するためにコレクションを放出することは、あってはならないのである。

 実際に今年、アメリカの美術館が運営資金調達のためにコレクションを手放したことが報じられたが、AAMD(美術館長協会:Association of Art Museum Directors)はこれらの美術館に作品の貸借を禁じる制裁を科した。このニュースを見て、アメリカの美術館の自律性と、コレクションの公共性、公益性が十分に理解された社会の成熟に、筆者は感心し、うらやましさを覚えた。今の日本の美術館が作品を処分する方法を安易に設ければ、間違いなく管理運営費の補填に高額な作品を売却せよという意見が出てくるだろう。ICOMの倫理規定や全国美術館会議の「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」があっても、「リーディング・ミュージアム」構想が出てくる現実を思えば、それが守られる素地はこの国にまだ育っていない。

AAMDに制裁を科されたバークシャー美術館 出典=ウィキメディア・コモンズ

展示会場としての美術館

 美術館が日本各地につくられて半世紀近く経つにもかかわらず、なぜ美術館のコレクションは相変わらず十分に理解されないのか。答えは簡単である。美術館でコレクションを見る楽しみが育っていないからだ。美術館へ足を運ぶ人の多くは、いまなお、企画展(だけ)を目当てにしている。もちろんすべての人たちがそうだと言うのではなく、近年変化も見られるものの、混み合った企画展示室に比べ、常設展示室は人がまばらであったり、とりあえず一周するだけであったりと、熱量が違っているのは明らかであろう。

 それを助長するように、テレビの美術番組では企画展が紹介され、大型の展覧会では特番が組まれ、新聞紙面にはその社が主催者として名を連ねる展覧会の記事が大きく紹介される。その結果、入場するのに何時間も待たなければならない展覧会のニュースを見るたびに、1974年に東京国立博物館で開かれた「モナ・リザ展」の写真が思い出されてならない。何重にも重なった人だかりの向こうにある、あの小さな作品が本当に見えたのだろうか。きっと「立ち止まらないでください」と言われ、作品の前を通り過ぎるようなものだったのではなかろうか。筆者自身も昨年のある大型企画展で、会場整理の人(もはや監視員ではない)に「展示作品に順序はありませんから、空いているところからご覧ください!」と強く移動を促された記憶がシンクロする(順序はないと言い切られたことも衝撃であったのだが)。

 「珍しい作品だから」「有名な作品だから」「いましか見られないから」一目見たいというのは、古今東西変わらぬ、美術館に足を運ぶ強い動機だ。それは決して悪いことではないし、筆者も「これは見逃せない」と、会期終わりにあわてて駆け込むのが常である(*4)。しかし美術館のコレクションに対して「いつでも見られるものを見に行く」という動機が、あわせて育っていないことは問題である。それは「作品は一度見ればわかる」という思い込みと、切り離すことができないからだ。結果、美術館が「一目千円」(最近は千六百円か)の見世物小屋として受けとられているのだとすれば、それはとても悲しい。

 住友文彦氏も指摘されたように、問題をややこしくしているのは、日本の美術館が貸会場ともなっている現状である。それは美術館・博物館の歴史的な出発点、つまり博覧会形式の輸入と団体展会場としての公立美術館の設立、そしてメディアとの関係と切り離すことができない、日本の美術館に初めから備え付けられた展示会場としての特殊な役割による。その仕組みは簡単には変わらないが、この現状を棚に上げて美術館がコレクションの必要性を声高に叫んでも、なんら説得力を持たないのは確かだ。

 ならばまずすべきことは、美術館が展示室を「明け渡す」のではなく、もっと自館の活動に鑑みた企画を、厳密に選んでいくことではないか。そして西洋美術のパッケージ展を入館者が見込めるからと有難がるのではなく、横山由季子氏のように準備段階からメディアと協働して、自館のコレクションにとって意味のある展覧会へとつくり変えるくらいであるべきだろう。なんなら人が入らないと敬遠されがちな日本の近代美術で、あえて一発逆転のブロックバスター展を仕立ててやろうという、メディアの気概にも期待したいところだ。

展覧会とキュレーションを見直そう

 こんなにも共催展やパッケージ展が増えているのは、採算を取るために展覧会に人を入れなければならないことと、展覧会の準備に手間をかけられないからだ。人手=お金でもあり、結局のところ、かける元手が少なすぎるのだが、このことは一学芸員にはどうしようもないのでひとまず措くとしよう。とはいえ、展覧会を企画する学芸員の立場からも、展覧会に人が入ってほしいのは当たり前である。自分たちが面白いと感じた視点、いまこの時代に伝え、共有したい考えがあるから、私たちは展覧会を企画する。紹介したい作家や作品と言い換えてもいい。

 しかしその展覧会が成功したのかどうか、入館者数や図録売上以外での判断をどうやって行っているだろうか。ただ数字の上下に一喜一憂するだけであれば、次に活かせるのは、せいぜいどんな広報をしたか、ソーシャルメディアでどれくらい話題になったかぐらいだろう。

 企画者である「キュレーター」が行うべきなのは、そのような誰が見てもわかるような判断ではなく、実際に展示室で来館者が何をしているかを知ることだ。来館者がどの作品に興味を持っているか、自分がもっとも伝えたいことを書いたパネルを読んでくれているか、来館者同士が何を話しているか、作品を見ている時間と比べて作品解説に目を向ける時間が長過ぎないか、額作品の高さは適切であったか、展示室内の移動がスムーズに行われているか、作品の安全は保てているか——これらの情報は、どれひとつとして事後の数字には表れてこないが、来館者の美術館体験と満足度に密接な関わりを持つ。

 これらを観察しなければ、その展覧会の何が良くて何が足りなかったのかを測ることはできないはずであり、次の展覧会も、美術や美術館を本当に好きになってくれる人を増やすことにはつながらないだろう(*5)。

キュレーションと鑑賞

 もしかすると、そんなことはキュレーターの仕事ではないと思う人もいるかもしれない。しかし筆者は、そう考える学芸員は自分の知っている作品についての知識や評価が絶対だと疑わないか、あるいは展覧会のキュレーションとは、展覧会のストーリーをつくって一方的に伝えることであり、来館者はそれを黙ってたどればいいと誤解しているのではないかと感じる。来館者側がそう思っているとすれば、作品の情報は誰かが教えてくれるものであるとか、展覧会とは「何かを教えてもらう」場だと思い込んでいるのではなかろうか。

 前半に触れたが「リーディング・ミュージアム」構想が前提とするように、作品の価値付けをするのが美術館(学芸員)や批評家の役割だとするならば、作品を展示する場としての美術館は必要がなくなる。マーケットとコレクター、そして内々の論理で作品の評価をあれこれ言う人たちだけで回せば良い。わざわざお金と手間をかけて展覧会を準備しなくても、批評家のためだけの発表の場を設ければ良い。いや、むしろ、そんな場も必要なく、美術館に収蔵されたという事実だけで十分か。

 美術館とは、展覧会とは、そういう場ではないだろう。不特定多数に開かれ、それぞれが美術という価値観の中で世界に目を向け、作者の意図や作品の意味について(ときにいまはまだわからないという「現在地」に)自らの観察を通してたどり着き、他の鑑賞者の意見に耳を傾け、自分の考えを常に更新していくための場であるはずだ。これを簡単に言えば「鑑賞」と呼ぶ。わざわざ美術館に足を運ぶ意味があるのは、その鑑賞経験がモニター越しや紙の上で行うよりも刺激的で面白いからである。

 そして直接の鑑賞は、その体験を何度でも塗り替えることができる。すばらしい映画を見た帰り道、世界が違って見えるように、私たちはひとつの作品を鑑賞する前と後では、自分の中にある世界の引き出しを更新している。何度も見た作品のまったく新しいところに気がつく体験は、刺激的なのだ。

 そして美術館でのキュレーションという行為に創造性があるのは、美術史的に新たな視点をつくり出したり、美術史の文脈とは異なる斬新な枠組みを見いだしたりすることだけではない。こうした鑑賞の機会をつくり出し、作品が多くの人の中で多様な価値を獲得することが、「美術の世界」と「美術があるこの世界」をともに広げるクリエイティヴなことだからだ。

 これは書籍やウェブ上の情報ではなく、美術館でなければ叶わない。そして展示室に並んだ作品にどんな意味が新たに生まれているのか、キュレーター自身が来館者の鑑賞にも目を向け、その創造性や意味・価値の生成を認めなければならない。美術が前提とする価値の多様性を否定しては本末転倒であるし、そうでなければこれからも美術館はただの展示会場のままで終わってしまうだろう。鑑賞とは英語で言えばappreciation、つまり批評そのものなのだから。

 そして発信側と受け手側の二項対立ではないこの創造的な営みに、美術館のコレクションはとても役立つ。自分たちが作品の鑑賞経験を重ねているからだけでなく、収蔵庫で出番を待っている作品たちの思いも寄らぬ組み合わせが、自分の固定化した意味付けや枠組みを楽々と超えさせてくれるのであるから。過去、未来の学芸員たちと行う「コレクションというキュレーション」の意味のひとつはここにあり、学芸員こそが自らのために「コレクション活用」をしなければならない。

学芸員に専門性は必要か

 さて先の執筆者からのバトンと受け止め、最後に筆者も学芸員の専門性について触れておきたい。日本の美術館では本当に学芸員がいろいろなことをしなければならない。管理すべきコレクションもなく、その出発時点でどんな仕事があるのかわからないまま、役所の枠組みで設置されたためだ。多くの公立美術館では学芸員は研究職ではなく一般行政職であり、必要な職種を新たにつくるような組織改編も難しい。

 よって事務方が行う以外の美術館特有の仕事はすべて学芸員の仕事になっており、それはたしかに問題である。ただし、パネルやキャプションを学芸員がつくらねばならないのはただ予算がないからであって、専門性の低さと結びつけるのは論点がずれている。できることなら外注したいが、限りある予算をできるだけ輸送や額装、修復といったに作品に関わるものに充てたいと思うため、足りない部分を学芸員自ら手を動かして補っているだけだ。

 しかしコレクションや展覧会、教育普及に関わる仕事はどうだろう。具体的にはキュレーター、レジストラー、エデュケーターの仕事だ。それらは展示室という場で複雑に絡み合っているが、専門分化することで、互いの分野への無関心を助長してしまうこともあるのではないか。現に、教育普及活動は展覧会に付随する「イベント」ととらえられがちであり、教育普及担当者はできあがった展覧会から関連する活動のアイデアを捻り出すことに苦心する。

 上述したキュレーションと鑑賞の関係を考えれば、本来は展覧会こそが最高の教育普及活動であるはずなのに、その「本編」に教育普及担当が関われないことも、キュレーションが持つ教育の力を発揮させないことも、もったいない。少なくとも展覧会が客寄せイベントと思われ、美術という文化がまだまだ定着していないこの国では、欧米型の美術館像をそのまま取り入れるのではなく、いまある問題を解決するために必要な美術館像や学芸員像を探っていかなければならない。

 作品を鑑賞する楽しさや、「(いまの自分には)わからない」、「自分はわからなくても誰かにとって意味があるかもしれない」ということを受け入れるキャパシティ、多様な美術の価値は誰しもが生み出しうるという当たり前の事実と、それを育むコレクションが有する可能性、そしてこれらすべてを結びつけることができる美術館という存在の公共性を、どうこの土地に固めていくのか。それには社会との接点である展覧会という場を総合的に考えて、私たちが仕事をする必要がある。ならば得意分野としての専門性に軸足を置きながらも、それぞれに目を向けつつ、時に分野をまたいで仕事ができる柔軟な学芸員の存在が求められるのではなかろうか。

*1——全国美術館会議による「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」では項目6に、日本博物館協会による「博物館の原則」と「博物館関係者の行動指針」では項目5に、コレクションについての記述がある。ICOM Code of Ethics for Museumsでも2項の表題に、社会のためのコレクションという考えが記されている。
*2——今回の本論に入れるには大きすぎる問題であるため注記にとどめるが、美術館の「ミッション」についても考え直す必要があるのではないか。この10年から15年の間に、各美術館が「ミッション(使命)」をつくることが増えた。早くは静岡県立美術館が2001年から準備に取りかかり、2005年に公表した(年報への初出は同年の「評価活動」項目内であり、各活動の最後に位置する。すべての活動を支えるものと明確に位置づけるよう、年報の冒頭に掲げられるのは2008年からである)。同年度末には一般財団法人地域創造が『これからの公立美術館のあり方についての調査・研究報告書』を出し、その中で現状の課題克服のために「ミッション」を据えることが推奨されたことで、動きは加速する。しかし県民・市民、あるいは所管部署へ存在を認めてもらえるよう「あれをやります」「これをやります」と宣言することがミッション策定の目的となり、美術館の活動を通してこの地域社会がどこへ向かうのかの「ヴィジョン」が定められないまま、走り出したように思われる。結果、日本の美術館の「ミッション」はまるで選挙公約のように見える。あるべきは、学芸員だけでなく美術館で働く全職員が最終目標と心から思え、各自の仕事で迷ったときの判断基準にできる揺るぎない「ヴィジョン」をまずは定めること、そしてそこに向かうステップとして「ミッション」を位置づけることである。そして社会や環境は変化するのであるから、「ミッション」は定期的に見直していくものである。また「ヴィジョン」が据えられた上でこそ、コレクション・マネジメント・ポリシーも意味をなすはずだ。
*3——上のICOM Code of Ethics for Museums、2項内2-12から2-17に、収蔵品の除去についての記述がある。そこにはコレクションが手放す責任、手放す際には記録を取るべきこと、そして関係者の手に入ってはならないことも記されている。
*4——企画展であってもそこに並ぶ作品は、(個人蔵の場合もあるが)どこかの美術館コレクションであることも多く、今後も見られる場所がある。しかしメディアのみならず、美術館も、「いましか見られない」ことを殊更にあおっているのが現状だ。入館者数を増やしたいことはわかるが、過剰な煽動にも見える。展覧会場で学芸員は作品キャプションのタイトル以上に所蔵表記に目が向くものだが、来館者にもその作品が一体どこのコレクションかを知ってほしい。そうすればいろいろな展覧会や美術館のつながりが立体的に見えてくる楽しさもある。
*5——この観点についての名著があるので紹介したい。ジョン・H・フォーク、リン・D・ディアーキング著; 高橋順一訳『博物館体験 : 学芸員のための視点』(雄山閣出版、1996年)。