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シリーズ:これからの美術館を考える(8)
コレクション/キュレーション/鑑賞の関係を再構築しよう【2/2ページ】

展示会場としての美術館

 美術館が日本各地につくられて半世紀近く経つにもかかわらず、なぜ美術館のコレクションは相変わらず十分に理解されないのか。答えは簡単である。美術館でコレクションを見る楽しみが育っていないからだ。美術館へ足を運ぶ人の多くは、いまなお、企画展(だけ)を目当てにしている。もちろんすべての人たちがそうだと言うのではなく、近年変化も見られるものの、混み合った企画展示室に比べ、常設展示室は人がまばらであったり、とりあえず一周するだけであったりと、熱量が違っているのは明らかであろう。

 それを助長するように、テレビの美術番組では企画展が紹介され、大型の展覧会では特番が組まれ、新聞紙面にはその社が主催者として名を連ねる展覧会の記事が大きく紹介される。その結果、入場するのに何時間も待たなければならない展覧会のニュースを見るたびに、1974年に東京国立博物館で開かれた「モナ・リザ展」の写真が思い出されてならない。何重にも重なった人だかりの向こうにある、あの小さな作品が本当に見えたのだろうか。きっと「立ち止まらないでください」と言われ、作品の前を通り過ぎるようなものだったのではなかろうか。筆者自身も昨年のある大型企画展で、会場整理の人(もはや監視員ではない)に「展示作品に順序はありませんから、空いているところからご覧ください!」と強く移動を促された記憶がシンクロする(順序はないと言い切られたことも衝撃であったのだが)。

 「珍しい作品だから」「有名な作品だから」「いましか見られないから」一目見たいというのは、古今東西変わらぬ、美術館に足を運ぶ強い動機だ。それは決して悪いことではないし、筆者も「これは見逃せない」と、会期終わりにあわてて駆け込むのが常である(*4)。しかし美術館のコレクションに対して「いつでも見られるものを見に行く」という動機が、あわせて育っていないことは問題である。それは「作品は一度見ればわかる」という思い込みと、切り離すことができないからだ。結果、美術館が「一目千円」(最近は千六百円か)の見世物小屋として受けとられているのだとすれば、それはとても悲しい。

 住友文彦氏も指摘されたように、問題をややこしくしているのは、日本の美術館が貸会場ともなっている現状である。それは美術館・博物館の歴史的な出発点、つまり博覧会形式の輸入と団体展会場としての公立美術館の設立、そしてメディアとの関係と切り離すことができない、日本の美術館に初めから備え付けられた展示会場としての特殊な役割による。その仕組みは簡単には変わらないが、この現状を棚に上げて美術館がコレクションの必要性を声高に叫んでも、なんら説得力を持たないのは確かだ。

 ならばまずすべきことは、美術館が展示室を「明け渡す」のではなく、もっと自館の活動に鑑みた企画を、厳密に選んでいくことではないか。そして西洋美術のパッケージ展を入館者が見込めるからと有難がるのではなく、横山由季子氏のように準備段階からメディアと協働して、自館のコレクションにとって意味のある展覧会へとつくり変えるくらいであるべきだろう。なんなら人が入らないと敬遠されがちな日本の近代美術で、あえて一発逆転のブロックバスター展を仕立ててやろうという、メディアの気概にも期待したいところだ。

展覧会とキュレーションを見直そう

 こんなにも共催展やパッケージ展が増えているのは、採算を取るために展覧会に人を入れなければならないことと、展覧会の準備に手間をかけられないからだ。人手=お金でもあり、結局のところ、かける元手が少なすぎるのだが、このことは一学芸員にはどうしようもないのでひとまず措くとしよう。とはいえ、展覧会を企画する学芸員の立場からも、展覧会に人が入ってほしいのは当たり前である。自分たちが面白いと感じた視点、いまこの時代に伝え、共有したい考えがあるから、私たちは展覧会を企画する。紹介したい作家や作品と言い換えてもいい。

 しかしその展覧会が成功したのかどうか、入館者数や図録売上以外での判断をどうやって行っているだろうか。ただ数字の上下に一喜一憂するだけであれば、次に活かせるのは、せいぜいどんな広報をしたか、ソーシャルメディアでどれくらい話題になったかぐらいだろう。

 企画者である「キュレーター」が行うべきなのは、そのような誰が見てもわかるような判断ではなく、実際に展示室で来館者が何をしているかを知ることだ。来館者がどの作品に興味を持っているか、自分がもっとも伝えたいことを書いたパネルを読んでくれているか、来館者同士が何を話しているか、作品を見ている時間と比べて作品解説に目を向ける時間が長過ぎないか、額作品の高さは適切であったか、展示室内の移動がスムーズに行われているか、作品の安全は保てているか——これらの情報は、どれひとつとして事後の数字には表れてこないが、来館者の美術館体験と満足度に密接な関わりを持つ。

 これらを観察しなければ、その展覧会の何が良くて何が足りなかったのかを測ることはできないはずであり、次の展覧会も、美術や美術館を本当に好きになってくれる人を増やすことにはつながらないだろう(*5)。

キュレーションと鑑賞

 もしかすると、そんなことはキュレーターの仕事ではないと思う人もいるかもしれない。しかし筆者は、そう考える学芸員は自分の知っている作品についての知識や評価が絶対だと疑わないか、あるいは展覧会のキュレーションとは、展覧会のストーリーをつくって一方的に伝えることであり、来館者はそれを黙ってたどればいいと誤解しているのではないかと感じる。来館者側がそう思っているとすれば、作品の情報は誰かが教えてくれるものであるとか、展覧会とは「何かを教えてもらう」場だと思い込んでいるのではなかろうか。

 前半に触れたが「リーディング・ミュージアム」構想が前提とするように、作品の価値付けをするのが美術館(学芸員)や批評家の役割だとするならば、作品を展示する場としての美術館は必要がなくなる。マーケットとコレクター、そして内々の論理で作品の評価をあれこれ言う人たちだけで回せば良い。わざわざお金と手間をかけて展覧会を準備しなくても、批評家のためだけの発表の場を設ければ良い。いや、むしろ、そんな場も必要なく、美術館に収蔵されたという事実だけで十分か。

 美術館とは、展覧会とは、そういう場ではないだろう。不特定多数に開かれ、それぞれが美術という価値観の中で世界に目を向け、作者の意図や作品の意味について(ときにいまはまだわからないという「現在地」に)自らの観察を通してたどり着き、他の鑑賞者の意見に耳を傾け、自分の考えを常に更新していくための場であるはずだ。これを簡単に言えば「鑑賞」と呼ぶ。わざわざ美術館に足を運ぶ意味があるのは、その鑑賞経験がモニター越しや紙の上で行うよりも刺激的で面白いからである。

 そして直接の鑑賞は、その体験を何度でも塗り替えることができる。すばらしい映画を見た帰り道、世界が違って見えるように、私たちはひとつの作品を鑑賞する前と後では、自分の中にある世界の引き出しを更新している。何度も見た作品のまったく新しいところに気がつく体験は、刺激的なのだ。

 そして美術館でのキュレーションという行為に創造性があるのは、美術史的に新たな視点をつくり出したり、美術史の文脈とは異なる斬新な枠組みを見いだしたりすることだけではない。こうした鑑賞の機会をつくり出し、作品が多くの人の中で多様な価値を獲得することが、「美術の世界」と「美術があるこの世界」をともに広げるクリエイティヴなことだからだ。

 これは書籍やウェブ上の情報ではなく、美術館でなければ叶わない。そして展示室に並んだ作品にどんな意味が新たに生まれているのか、キュレーター自身が来館者の鑑賞にも目を向け、その創造性や意味・価値の生成を認めなければならない。美術が前提とする価値の多様性を否定しては本末転倒であるし、そうでなければこれからも美術館はただの展示会場のままで終わってしまうだろう。鑑賞とは英語で言えばappreciation、つまり批評そのものなのだから。

 そして発信側と受け手側の二項対立ではないこの創造的な営みに、美術館のコレクションはとても役立つ。自分たちが作品の鑑賞経験を重ねているからだけでなく、収蔵庫で出番を待っている作品たちの思いも寄らぬ組み合わせが、自分の固定化した意味付けや枠組みを楽々と超えさせてくれるのであるから。過去、未来の学芸員たちと行う「コレクションというキュレーション」の意味のひとつはここにあり、学芸員こそが自らのために「コレクション活用」をしなければならない。

学芸員に専門性は必要か

 さて先の執筆者からのバトンと受け止め、最後に筆者も学芸員の専門性について触れておきたい。日本の美術館では本当に学芸員がいろいろなことをしなければならない。管理すべきコレクションもなく、その出発時点でどんな仕事があるのかわからないまま、役所の枠組みで設置されたためだ。多くの公立美術館では学芸員は研究職ではなく一般行政職であり、必要な職種を新たにつくるような組織改編も難しい。

 よって事務方が行う以外の美術館特有の仕事はすべて学芸員の仕事になっており、それはたしかに問題である。ただし、パネルやキャプションを学芸員がつくらねばならないのはただ予算がないからであって、専門性の低さと結びつけるのは論点がずれている。できることなら外注したいが、限りある予算をできるだけ輸送や額装、修復といったに作品に関わるものに充てたいと思うため、足りない部分を学芸員自ら手を動かして補っているだけだ。

 しかしコレクションや展覧会、教育普及に関わる仕事はどうだろう。具体的にはキュレーター、レジストラー、エデュケーターの仕事だ。それらは展示室という場で複雑に絡み合っているが、専門分化することで、互いの分野への無関心を助長してしまうこともあるのではないか。現に、教育普及活動は展覧会に付随する「イベント」ととらえられがちであり、教育普及担当者はできあがった展覧会から関連する活動のアイデアを捻り出すことに苦心する。

 上述したキュレーションと鑑賞の関係を考えれば、本来は展覧会こそが最高の教育普及活動であるはずなのに、その「本編」に教育普及担当が関われないことも、キュレーションが持つ教育の力を発揮させないことも、もったいない。少なくとも展覧会が客寄せイベントと思われ、美術という文化がまだまだ定着していないこの国では、欧米型の美術館像をそのまま取り入れるのではなく、いまある問題を解決するために必要な美術館像や学芸員像を探っていかなければならない。

 作品を鑑賞する楽しさや、「(いまの自分には)わからない」、「自分はわからなくても誰かにとって意味があるかもしれない」ということを受け入れるキャパシティ、多様な美術の価値は誰しもが生み出しうるという当たり前の事実と、それを育むコレクションが有する可能性、そしてこれらすべてを結びつけることができる美術館という存在の公共性を、どうこの土地に固めていくのか。それには社会との接点である展覧会という場を総合的に考えて、私たちが仕事をする必要がある。ならば得意分野としての専門性に軸足を置きながらも、それぞれに目を向けつつ、時に分野をまたいで仕事ができる柔軟な学芸員の存在が求められるのではなかろうか。

*1——全国美術館会議による「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」では項目6に、日本博物館協会による「博物館の原則」と「博物館関係者の行動指針」では項目5に、コレクションについての記述がある。ICOM Code of Ethics for Museumsでも2項の表題に、社会のためのコレクションという考えが記されている。
*2——今回の本論に入れるには大きすぎる問題であるため注記にとどめるが、美術館の「ミッション」についても考え直す必要があるのではないか。この10年から15年の間に、各美術館が「ミッション(使命)」をつくることが増えた。早くは静岡県立美術館が2001年から準備に取りかかり、2005年に公表した(年報への初出は同年の「評価活動」項目内であり、各活動の最後に位置する。すべての活動を支えるものと明確に位置づけるよう、年報の冒頭に掲げられるのは2008年からである)。同年度末には一般財団法人地域創造が『これからの公立美術館のあり方についての調査・研究報告書』を出し、その中で現状の課題克服のために「ミッション」を据えることが推奨されたことで、動きは加速する。しかし県民・市民、あるいは所管部署へ存在を認めてもらえるよう「あれをやります」「これをやります」と宣言することがミッション策定の目的となり、美術館の活動を通してこの地域社会がどこへ向かうのかの「ヴィジョン」が定められないまま、走り出したように思われる。結果、日本の美術館の「ミッション」はまるで選挙公約のように見える。あるべきは、学芸員だけでなく美術館で働く全職員が最終目標と心から思え、各自の仕事で迷ったときの判断基準にできる揺るぎない「ヴィジョン」をまずは定めること、そしてそこに向かうステップとして「ミッション」を位置づけることである。そして社会や環境は変化するのであるから、「ミッション」は定期的に見直していくものである。また「ヴィジョン」が据えられた上でこそ、コレクション・マネジメント・ポリシーも意味をなすはずだ。
*3——上のICOM Code of Ethics for Museums、2項内2-12から2-17に、収蔵品の除去についての記述がある。そこにはコレクションが手放す責任、手放す際には記録を取るべきこと、そして関係者の手に入ってはならないことも記されている。
*4——企画展であってもそこに並ぶ作品は、(個人蔵の場合もあるが)どこかの美術館コレクションであることも多く、今後も見られる場所がある。しかしメディアのみならず、美術館も、「いましか見られない」ことを殊更にあおっているのが現状だ。入館者数を増やしたいことはわかるが、過剰な煽動にも見える。展覧会場で学芸員は作品キャプションのタイトル以上に所蔵表記に目が向くものだが、来館者にもその作品が一体どこのコレクションかを知ってほしい。そうすればいろいろな展覧会や美術館のつながりが立体的に見えてくる楽しさもある。
*5——この観点についての名著があるので紹介したい。ジョン・H・フォーク、リン・D・ディアーキング著; 高橋順一訳『博物館体験 : 学芸員のための視点』(雄山閣出版、1996年)。

編集部

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