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REVIEW - 2018.11.2

「美術館」で「美術館」を考える。 松岡剛評「〈正・誤・表〉 美術館とそのコレクションをめぐるプログラム」展

9月に新潟市美術館で開催された「〈正・誤・表〉 美術館とそのコレクションをめぐるプログラム」展は、コレクションを中心に紹介しながら、作品を所蔵し、貸し出し、展示するといった美術館の機能それ自体に批評的に切り込む試みであった。美術と美術館をとりまく状況や、その不安定性を主題とした本展を、広島市現代美術館学芸員の松岡剛がレビューする。

文=松岡剛

展示風景より 撮影=加登智子

展示風景より 撮影=加登智子

魅惑の展示、半分は信頼でできています。

 正誤表。美術館に勤務する身としては、不穏なタイトルとしか言いようがない。印刷物において時に(しばしば?)誤りは発見され、その作成を余儀なくされる。しかも一度で済むとはかぎらない。さらに、受け取る側にとっても厄介なことに、予告なく発行・更新されていく。正と誤を線引きするものでありながら、いとも簡単に覆され、また、原本から取り紛れると、もとに戻せないこともある。本展の企画者は、そうした正誤表の特質にふれつつ、書籍に対する正誤表のありように、美術に対する美術館のそれを重ね合わせようとする。

 本展は美術館という場や制度そのものを主題としており、新潟市美術館のコレクションをはじめ、多彩な出自を持つ品々が展示されている。同時期に開催されたシリーズ・レクチャーや実験公演といったイベントと合わせて「〈正・誤・表〉美術館とそのコレクションをめぐるプログラム」(以下、〈正・誤・表〉)は構成されている。

展示風景より 撮影=加登智子

 展示の中心は2つの連続した空間からなる。いっぽうでは、美術館らしくない(あるいは代表的とは言いがたい)品々が美術館然とした手法で展示されている。例えば、近年閉店を迎えた市内の老舗喫茶店に飾られていたという絵画と、店内の記録写真や使用されていた照明器具など。あるいは、ワークショップ参加者が持ち寄った、他人から借り受けた「たからもの」としての日用品や調度品が壁面のガラスケースに収められる。加えて、美術館の収集が手薄になっている時代(1945年以前)の作品、家具などの備品を展示したコーナーも設けられている。

 もういっぽうでは、これまでの展示回数の比較から選び出された、「人気」の作品、「不人気」の作品が、一見脈絡なく(実際は収集した年代順に従って)並んでいる。「人気」作品が並ぶ壁面は建築空間に対し斜に構えるようにして立っており、他方、周囲の壁には「不人気」作が掛けられるのではなく、立てかけられた状態で固定されている。展示前の仮置きや、作業の際に目にする状態で、確かに画面はよく見えるものの、それが「展示」ということになると違和感が湧き起こる。こちらでは、所蔵作品が通常とは異なる手続きで選定され、通常とは異なる方法で展示されている。

展示風景より 撮影=加登智子

 ほかにも、周囲を巡っての鑑賞ができないほどに彫刻作品を接近させる、といった一般的なルールに反した作品の取り扱いが見られたり、鑑賞者へのメッセージが記された貼紙は整然と、とは言いがたく、柄付きマスキングテープで乱雑に貼り込まれていたりなど、通常ならざる箇所が無数に用意されている。これらの逸脱が浮かび上がらせるのは、美術館という場が通常生じさせている「美術という現象」のありようであり、そうしたなかで重要なキーワードとなっているのが「展示」である。本プログラムのチラシには、次のようなコピーが記されている。

「美術」を展示することを展示する。
「美術館」を展示する。
たぶん、それは不可能。

 本展で私たちが目にする諸々の試みや見慣れない状況は、「展示されている事象」として束ねていくことができる。自身の依拠する慣習のズレや機能不全さえも、意味あるものとして提示してしまう「展示」とは、なんとも魅惑的な言葉と言える。そのいっぽうで、改めて考えてみると奇妙な言葉であることにも気付かされる。例えば、『新編 博物館学』(東京堂出版、1997)の「展示論」と題された章の冒頭では、次のようにその重要性が説かれている。

「展示」と同様な言葉として「陳列」と言う用語があるが、これは、ただ単に「列をなして陳べる」ということで、モノ(資料)がそのまま放置され、モノ(資料)に問いかけ、その意味や内容を知るといった、資料と結びついていくことが、全く見る者に委ねられている形のものである。
倉田公裕、矢島國雄『新編 博物館学』(東京堂出版、1997)

 つまり、「展示」は「陳列」とは異なり、対象に対する意味づけや、見ることへの意義づけを伴う、極めて能動的(あるいは、作為的)な働きかけであり、博物館活動の根幹をなすものとさえ言える。にもかかわらず、この語がいつごろ、どのように生み出され、いかにして定着したのかについて語られることは意外にもあまりない。あるいは、競艇において、レース本番前に行われるリハーサル的な航走が「スタート展示」と呼ばれるように、博物館や作品、資料の取り扱いとは離れたところで用いられることもあれば、それとは対照的に、自分では「展覧会」のつもりで携わってきたものが、しばしば報道機関で「展示会」と呼ばれると、得体の知れぬ居心地の悪さを感じてしまうことがある。

展示風景より 撮影=加登智子

 ともあれ、「展示」の魅惑を伝えるユニークな展覧会として、その先例を探そうとするも、あっけなく見つかる、というよりも当人によって知らされることとなった。〈正・誤・表〉の企画者、藤井素彦学芸員が高岡市美術館在職中に企画した「問いのうつわ」展(2003)である。残念ながら、私自身は本展を見逃しているが、学芸員が展示のルールをことごとく忘れてしまう、という仮想に基づく展示は今回の〈正・誤・表〉に通じる痛快なものであったようだ。その様子は『ミュージアム・マガジン・ドーム(DOME)』第69号(日本文教出版、2003)のレポートで知ることができる。当記事では、企画者が語った展覧会の狙いとして、「『モノ』だけでなく、『コト』を見せる」という言葉が紹介されている。

 はたして展示とは、こうした「コト」を生じさせる諸作業、諸手続きの謂いであり、15年後に手段を兼ねた主題として再来したのだった。それは、さながら藤井自身の手によって改訂された正誤表のようでもある。ちなみに、本展の最終章は、新潟市美術館が作成してきた、実際の正誤表(のみ)が年代順に並び、最後に「つづく」とのメモ書きで締めくくられている。

展示風景より 撮影=加登智子

 こうした一連の試みは、美術館が無批判に繰り返してしまいがちな慣習に対する、ある種の懐疑と鋭い洞察に基づきつつも、半分は美術館や、展示というものへの信頼でできている。展覧会を見た者の心に生じたざわめきも、そうであるに違いない。