正当な美術の外に撒かれた革命の種
思想や党派の分断が進んでいく現在、政治と美術の関係を問うことは喫緊の課題である。例えば1920年代に興隆したプロレタリア美術運動を再検証すること。それは、政治/美術をめぐる問題を歴史的パースペクティブのもとでとらえ直すための重要な機会となるはずだ。
近年、プロレタリア美術を対象とする実証研究や意欲的な展覧会は着実に増えている。2012年に処女作『前衛の遺伝子』で近代から戦後までのアナキズムの系譜を論じた著者もまた、この流れを先導する日本近代美術の研究者であるが、2作目の単著となる本書では研究の裾野をさらに広げて未開拓の領野に挑んだ。 そこではいっときのみ政治運動に身を投じた美術家の「転向」や、漫画やアニメといったいわゆるサブカルチャー的な表現に光が当てられている。「美術史家」から「視覚社会史研究者」へと肩書を変えた著者自身の「転向」が端的にあらわすように、権威としての「美術」から積極的に逸脱していく態度が認められるのである。
本書では、プロレタリア美術は教条的に左翼思想に殉じた運動の中心人物よりも、組織に巻き込まれなかった周縁の共感者、同伴者によってこそ独自の展開を遂げたのだと主張される。各章にはプロレタリア美術運動の思わぬ側面を引き出す多様な切り口が並ぶ。戦中の渡米が祖国に対する「裏切り」と非難されつつも運動にまつわる重要な記録を残した八島太郎、運動が主に都市部で展開したという定説を覆す地方での「移動展」、観客をデモへと駆り立てる扇動力を備えたプロキシ映画、藤田嗣治が手掛けていた漫画作品。童画家として知られるいわさきちひろが前衛美術会と関わっていた時期を検証するなど、非政治的とされる作家の一時的な前衛への傾きを見出すアプローチも挑戦的である。 芸術が社会を改革すると無条件に信じる態度がいまや素朴でしかないとしても、高尚な「美術」を嘲笑う猥雑な領域で束の間のきらめきを見せた前衛の試みは、革命の種は思わぬところに蒔かれているのかもしれない、と熱い思いを抱かせてくれる。加えて戦後の動向にまで射程を広げている本書は、挫折を宿命づけられたかのような前衛が脈々と受け継がれている様子をも描き出している。
遠心的に拡張していく関心の在り処は、今後どのように結びつけられていくのか。「美術」を裏切って無法地帯に踏み出していく研究のさらなる深化を楽しみに待ちたい。
(『美術手帖』2019年10月号「BOOK」より)