2019.7.15

【シリーズ:BOOK】あなたは三上晴子というアーティストを知っているか。『SEIKO MIKAMI ─ 三上晴子 記録と記憶』

雑誌『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート&カルチャー本から注目の図録やエッセイ、写真集など、様々な書籍を紹介。2019年8月号の「BOOK」2冊目は2015年に逝去したアーティスト・三上晴子の作品と論考、同時代を伴走した主要な人物による回想、関連資料などを網羅した『SEIKO MIKAMI ─ 三上晴子 記録と記憶』を取り上げる。

評=中島水緒(美術批評)

『SEIKO MIKAMI ─ 三上晴子 記録と記憶』の表紙

作家なき後の作品を未来へ

 ひとりの作家の死後、言説が担うべき役割とはなんだろうか。その作家の全作品を俯瞰して適切な文脈に位置づけることか。それとも活動を貫くコンセプトを汲み取り整合的に記述することだろうか。

 本書は2015年に53歳で逝去した三上晴子についての論考、批評、研究を集めた記録集である。三上は80年代の半ば、一種のジャンク・アートで美術家としてのキャリアをスタートさせた。その後、観客に知覚や意識を再認識させるインタラクティブ・アートで注目を集め、多摩美術大学情報デザイン学科で後進の指導にもあたった。とりわけ90年代以降の活動に注目するならば、三上をメディア・アーティストと位置づける向きが強くなるのも当然の流れと言えるだろう。

 だが本書では、そのような一枚岩のイメージに作家を押し込めず、複数の論者の様々な距離からの切り口で彼女の多面性を引き出してみせた。80年代のいくつかの作品は作家自身が廃棄しており、技術環境の変化によってデータしか残っていない作品もあるため、検証作業は決して容易ではなかったと想像される。再検証の素材として「記録」は完全ではない。代わりにともに時代を生きた者たちの「記憶」がドキュメントの一部を成す。

 四方幸子は三上がキヤノン・アートラボで発表した代表作を構想から実現までの段階も含めながら子細に振り返り、久保田晃弘は多摩美でスタジオ運営をともにした立場から彼女の教育実践を紹介する。一時期三上作品に批判を差し向けていた椹木野衣は、ジャンク・アートからメディア・アートへの「転向」という定式を批判的に読み直す。かつてのパートナーである飴屋法水へのインタビューは、私的な記憶も含む貴重な証言であり、三上をポスト・ヒューマン世界のフェミニストと見なす新しい視点――生前の三上なら否定したかもしれない作家像――を示唆する。個人の意向を超えた多層的な解釈こそが、作品をもっと先へ、遠い未来へと赴かせる。

 本書には、客観性をできるだけ維持した中立的な論考も冷たい愛としての批評も、かすかな感傷をにじませる回顧も詰まっている。ここで果たされているのは、作家も統御しえなかった作品観・作家像を死後に蘇生させて新たな生を授けるという、言説のひとつの使命なのだ。

『美術手帖』2019年8月号「BOOK」より)