「魂を自覚する」ための芸術はいかにして習得可能か?
岡﨑乾二郎の監修による特集「現代アート基礎演習」は、「スーパーマン=芸術家」になることを目指して、4つの演習を「ミジンコくん」とともに受講していくストーリーで構成されている。とはいえ、穏当なタイトルとは打って変わってその内容は激しい。演習の項目が「色彩」「彫刻」「イメージ」「無重力」といういささか風変わりな構成になっていることからもその一端はうかがえる。試しに「イメージ」の項目を開いてみると、「究極の似顔絵づくり」から始まり、俳句、詩、小説、スポーツ、漢字、心霊写真へと、次々に繰り出されていく「レクチャー」に読者は圧倒されてしまうこととなる(さらに、この勢いは全体にわたって継続している)。
じつに様々なモチーフが登場する本特集であるが、ここではとりわけ、ブラシュカ父子の手によるガラス製の植物標本についてふれてみたい。ハーバード大学自然史博物館が所蔵するこの標本を、筆者も一度だけ実見したことがある。恐ろしく精緻な技術でつくられたそれは、不思議なことに本物の植物以上に植物らしく感じられ、そのことについて岡﨑も「植物に付随した資料なのではなく[…]オリジナルな技術体系たりえている」と語る。ゆえにこのガラス製の植物標本は、ほとんど人の手によるものだということを信じられない領域にまで達していた(この感覚は「本物の[とみなされる]心霊写真」を見るときのそれに似ている)。つまりそこには、つくり物であることを超えた人間不在の感覚があったのだ。そしてこの感覚が、それにもかかわらず何かの理由で「人間」と結びついたとき、「芸術作品」という概念が呼び出されることになるのではないだろうか。
ところで、特集全体に一貫して流れているのは「魂の存在を疑え」というメッセージだ。それによると、人間の魂はあらかじめ存在するものではなく、その存在を自覚することによって初めて生まれるものであり、芸術はそれを自覚するための方法であると定義される。そしてこの考え方を軸にすれば、次のように、表現に対するスタンスも大きく変わってくることだろう。
まずここで「魂」と言われているものは、ある程度「私」という言葉にも置き換えられるものだ。であるならば、「自己表現」という言葉が自己(=私)を先天的に存在するものとしてとらえているのに対して、自己とは表現によって後天的につくられるものであると考えられるようになる。ゆえに、表現によって事後的につくられる「私」はなんにでも変身することができるのだ。まるでスーパーマンのように。それが、本特集が「芸術家」と呼ぶものなのである。
(『美術手帖』2019年2月号より)