美術批評を担うべきは「専業批評家」のみなのか?
最近、「専業批評家」でない書き手が増えている。そして、ここに取り上げる『美術手帖』1957年10月号と翌年1月号では、「日本の美術批評を検討する」という特集が組まれ、明治から50年代までの日本の美術批評が文字通り「検討」されている。本稿では、その中でもとりわけ「美術家の批評と批評家の批評」という項目に着目したい。
この特集によれば、明治期から昭和10年代までのあいだ、いわゆる「専業批評家」の不在を嘆いてこの両者の優劣が議論されていた時期があった。とりわけ、河野桐谷という人物は「美術家の批評」を批判し、画家・批評家の石井柏亭とのあいだで激しい「炎上」を巻き起こしている(*1)。その河野が、明治42年に「批評なき画壇」というテキストを発表し、批評の不在による洋画界の停滞を強く批判した。事実、その後の画壇は帝展改組を経て戦争画の道へと進み、現代の公募団体展の座に落ち着くことによって、現代美術であることをやめてしまった。
明治43年に国内で発行されていた美術雑誌の数は11あったと言われる。それに対し、大正15年には50誌、およそ5倍にまで膨れ上がった。戦後、『美術批評』誌の創刊が美術批評家の「御三家」を育んだことを思えば、いまや明治末期レベルにまでその数を縮小している平成末期の雑誌環境が、専業批評家の生き残りにどのような影響を与えているかは容易に想像できるだろう。
しかしぼくは、かつて「批評」と呼ばれていた営みは、いま違う形で生き残っていると考える。例えば、現在「作品」として評価されるものの核にある思考や、それそのものが「読み物」として受容されているキュレーションなどである。つまり、職能の脱分化が起きているということだ。職業としての美術批評家が後退した代わりに、決まった職能を持たないアーティストやキュレーターにその役割が吸収されつつあるのではないか。
『日本近代美術論争史』の著者・中村義一はこのように書いていた。「美術史家であるようで美術家でもあるようで、そのどちらでもないといった、どこか不確定な非専門性が、実は美術批評家の貴重な属性のように思われる(*2)」。具体的に挙げられる名前は、洋画・日本画・版画を描きながら旺盛な批評活動を行った石井柏亭、彫刻家・詩人・批評家であった高村光太郎、詩人・劇作家・小説家・医者・批評家と多彩な顔を持ち合わせていた木下杢太郎などだ。
この状況を現代に置き換えるとどうなるだろうか? ぼくは、もはや「批評」とも呼べないほど危うく(クリティカルに)つかみ損ないそうな「非専門性」にこそ、現代の批評性(クリティーク)のありかを読み取っていきたい。
(脚注)
*1――中村義一『日本近代美術論争史』(求龍堂、1981)、240〜243頁。
*2――同書、238頁。
(『美術手帖』2018年8月号より)