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櫛野展正連載23:アウトサイドの隣人たち カラフルおじさん

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載の第23回は、福岡県久留米市で自らペイントした自転車と服で街をめぐる、富松義孝を紹介する。

文=櫛野展正

カラフルおじさん

 「帽子おじさん」や「ナポレオンおじさん」など、世の中には世間一般の人たちから「○○おじさん」と勝手に名付けられたおじさんたちが複数名いる。今回ご紹介するのは、福岡県久留米市で「カラフルおじさん」と呼ばれている富松義孝(とみまつ・よしたか)さんだ。富松さんはその呼称の通り、自らペイントを施した色鮮やかな服を纏い、自転車に乗って街を徘徊している。街の人に尋ねると大多数が彼のことを知っており、久留米では抜群の知名度を誇っていることがわかる。

自らペイントした自転車で街を徘徊する「カラフルおじさん」

 富松さんが暮らす部屋のドアを開けて驚いた。台所には鮮やかに彩色された自転車が停めてあったのだが、ここはエレベーターもない高層階。外出するときは、わざわざ自転車を抱えて階段で降りなければならない。「外に停めておくと、車輪に張った和紙がよく破られるんですよ」と部屋の奥から富松さんの声がする。足元に目をやると、通路には段ボール板が敷かれ、奥の部屋の入り口には黒いビニールシートが垂れ下がっている。すべて防寒対策のようだ。ビニールシートを潜ると、「カラフルおじさん」の衣装が掛けられ、万年床になった布団の上で全身真っ黒な服に身を包んだ富松さんが待ち構えていた。整えられた白い顎髭がとてもダンディだ。

高層階にある「カラフルおじさん」の自室。防犯対策のため、自転車も屋内にある

 昭和20年、福岡県久留米市で7人兄弟の末っ子として生まれた富松さんは、小学校高学年の頃からジーンズに絵具で虎の絵を描くなど人と違った格好をすることが好きな子供だった。「頭悪くて勉強はできなかったけど、いじめられたことは1回しかなくって、相手に叩かれたら『殺すぞ』っていう性格やったですね」と笑う。中学卒業後は、活版印刷で原稿にあわせて箱から活字を拾い集め順番に文選箱に納めていく「文選工」の仕事に就いた。3年ほど働いたあと、「家に負担をかけないように」と陸上自衛隊に入隊し、福岡駐屯地に駐屯する第19普通科連隊へ所属。そのとき、東京オリンピックの聖火ランナーとして福岡の街を走った経験もある。体調を崩し2ヶ月ほど休んだ後、再入隊し2年で満期退職した。

数代目の愛用自転車。フレームには、誰によるものかもわかならい作品が貼り付けてある

 その後は横浜に転居し、中華料理店の厨房やホテルの雑用係など様々な仕事に携わった。ヘッドハンティングを受け鹿児島のクラブで厨房に立っていたとき、家族から「一番遊んでるお前が親父の面倒を見ろ」と連絡が入り久留米に戻ることになった。富松さんによれば「家族仲が悪かったわけではなく他人に干渉しない主義だった」ため、それまでは自分の所在を誰にも知らせなかったそうだ。その後実家に戻り看板屋や中華料理店で働いた。入籍後に実家の土地を売却したら、ちょうどバブル期でたくさんのお金が舞い込んできたため、そうした資金を元手に、久留米市内で中華料理屋「華正楼」、熱帯魚店「富士フイッシュ」、骨董品店「富士古美術」の経営を始めた。

 順風満帆な人生だったが、子供が20歳になったのを機に離婚、土地の権利などもすべて妻に明け渡すことになった。その原因について富松さんは、「戦後すぐ食糧難の日本に、フィリピンが小麦とか送ってきたっちゅうイメージがあった。久留米には当時、フィリピンのクラブが40軒あってね。お金がいっぱいあったから、自分は酒飲まないけど、フィリピンへの恩返しという意味でつぎ込んでいたからね」と話す。

「カラフルおじさん」がペイントした服。過激な言葉も描き込まれ、これまで8回ほど職務質問を受けたという

 それから富松さんはずっと市内のアパートで独居生活を送っている。古着屋で購入した衣類にアクリル絵具で着色を施し、街へ出没するようになって10年以上になる。描くテーマはその時々に感じたことで、「久留米市が『くるっぱ』なんてふざけた“ゆるキャラ”をつくっとるから」と抗議の意味を込めて描いた服もある。服に描かれた過激な言葉の数々に、これまで8回ほど職務質問を受けたこともあるそうだ。それにしてもお会いする前は、かなり奇抜なファッションだろうと想像していたが、いざ目にすると、赤を中心に原色が多用されているものの、色同士が干渉し合うことはなく、かなり計算された配色になっていることがわかる。そのため、どんなに集中しても1着仕上げるのに約7時間はかかるとのこと。

「カラフルおじさん」の自室

 そんな富松さんは催し物などがあれば、自転車を漕いでどこへでも出かけていく。ときには約20キロ先にある「九州芸文館」まで平気で遠出することだってある。その道中では写真撮影はもちろんのこと、希望者がいれば着ていた服だって平気で差し出してしまう。販売するつもりなんて毛頭なく、物々交換することも多いようだ。室内にはそうした交換品も陳列してあるし、愛用する自転車のフレームには知らない誰かの作品まで貼り付けてある。

「数えたらきりがないけど、自転車だけで7台くらいは人にあげました」と苦労してつくった作品を何の躊躇もなく寄進したり、客寄せパンダのように自転車で遠くまでイベントを見に行ったりと、その姿は売買が繰り返されるアートマーケットに対するアンチテーゼのように思えてならない。事実、服に絵を描く理由を「絵を描いて額縁に入れて売っとる人間は絵描きじゃないと思っとる。あれらは表現者じゃなくて絵を売る業者ですよ。だから尊敬してる画家もいない。人間国宝って言われとる人たちでも、『人間に国宝なんかあるか』としか思うとらんですよ」と熱弁を振るう。

 3年ほど前に心臓手術をしたうえに年齢のことを考えれば、あとどれくらい街で元気な姿を拝見できるかわからないが、「辞めるときはくたばるとき」と断言する。きっと富松さんには、まだまだ表現したいものがあるはずだ。そしてこの創作こそが、いろいろなものを一気に喪失してしまった富松さんにとって、自らの精神を正気に保つためのカンフル剤になっているのではないかと僕は推測する。

 出会った人たちに「俺はクレイジーだからさ」と挨拶を交わす富松さんだが、カラフルな装いに身を包み自ら道化を演じることで、失った人生を回復しているようだ。小さな部屋の布団の上で、ひとり制作を続ける富松さんの姿は、方丈の庵に籠って『方丈記』を書き上げた鴨長明を彷彿とさせる。布団に染み付いた絵具の汚れさえも、いまの僕には輝いて見えるのだ。

編集部

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