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鑑賞者、出荷準備完了。田村正資評「ナイル・ケティング Blossoms-fulfilment」展【2/2ページ】

 リスボンの現代美術センターでBlossomsたちが放たれたときは、そこら中に鑑賞すべき作品があった。彼らはそこが企画展の展示室なのか常設展の展示室なのか、ホワイエなのかを気にすることなく、館内を鑑賞して回っていた。なんなら彼らは、私たちよりも先に美術館に入場していた観客として私たちの視線を作品へと導いてくれてもいただろう。彼らの存在が来場者たちに喚起したのは、まったく同じ姿勢で作品を鑑賞している私とこのBlossomsたちの違いはなんだろうか、という問いだったかもしれない。外部から捉えられた鑑賞行為からは推し量ることのできない内面の動き、美術鑑賞のクオリアの存在論が立ち上がり、Blossomsたちは人間のマネをしているだけの美学的ゾンビなのではないか、という疑いが喚起されることもあっただろう。当然ながら、そのような疑いはすぐさま「本当の鑑賞者」であったはずの自分に跳ね返ってくる。むしろ自分たちこそ、作品から受け取るべきものを何も受け取れていないまま、鑑賞者のような姿勢を取っているだけの美学的ゾンビなのではないか?

 天王洲で行われた “fulfilment” は、リスボンの前史、エピソード・ゼロだ。鑑賞すべき作品も置かれていないフルフィルメントセンターで訓練されているBlossomsたちは、やがてリスボンのグルベンキアン現代美術センターに、そして世界各地のアート空間に出荷される時を待っている。ケティングはこれまでの活動のなかで、倉庫を再活用したリハーサルスタジオやトレーニングスペースを利用した経験から、表現者の身体が訓練・編集される場として倉庫空間を捉えている。しかし、本来であればそこで訓練される表現者の身体は、鑑賞するための身体ではなく鑑賞されるための身体であったはずだ。表現が磨かれるはずの場所を、ケティングは鑑賞の訓練が行われる場所として捉え直した。

 この捉え直しが意味するのは、通俗的な美術鑑賞の図式の逆転である。ふつうは、作品のなかに何か鑑賞されるべき美的な価値があり、それを適切に享受するために鑑賞という態度で作品に臨む、と思われている。ところが、Blossomsたちが鑑賞する主体として訓練され出荷されていった世界で生じているのは、鑑賞する主体のほうが先に存在し、その視線の先にあるものが、事後的に鑑賞されるべき作品になるという転倒した事態にほかならない。天王洲に現れたのは、鑑賞行為だけがそこにあり、作品が不在でもまったく問題のないアート空間だ。これは現実離れした問題提起だろうか? あらかじめ作家の権威を信じ、見所を把握して、フォトスポットにスマートフォンを持って人々が押し寄せるアート空間では、鑑賞する主体──Blossomsたち──こそが、そこにたまたま置かれた作品の価値を担保しているのではないか。

 だとすれば、作品が不在で鑑賞者しか存在しない天王洲の倉庫こそが、美的価値を生産し世界中に出荷する物流拠点ということになる。瞑想して集中力を高め、様々な鑑賞の姿勢をマスターしていくBlossomsの育成プロセスは、作品の制作の外部にありながらそれらの価値を生みだす投機的な仕組みになっている。鑑賞の訓練によって私たちは、まだ存在しない作品の幻影に没頭する。そうやって美術鑑賞の「期待値」を高め、先物取引の最終決済のように実際の作品を「鑑賞」する。ケティングが天王洲に創り出したフルフィルメントセンターとは、美術館でもアトリエでもなく、それら美術的な実践の外部にあって「名作」や「話題のアーティスト」、「正しい鑑賞の在り方」や「アート界ゴシップ」を云々している私たちのコミュニケーション空間そのものなのだ。そんな穿った目線で見るならば、実際の鑑賞とはそれらのコミュニケーション空間にあらかじめ投機しておいた期待値を回収していく営みに過ぎない。「趣味はなんですか?」と尋ねられて「美術鑑賞です」と回答するときに感じるあの落ち着かなさは、私たちが美的な価値を享受しているのではなく投機していることに由来する、金融的な不安なのかもしれない。

編集部