「それから物たち、物たちを前にして、どんな態度をとるべきか。そもそも物なんて必要か。何という質問だ。しかし物たちのことを予想しておかなくてはならない、ということは隠しようもない。一番いいのは、あらかじめこんな話題を全部無視することだ。何かの理由で物が一つ姿を見せたら、そのことをよく考えること。人がいるところには、物がある、というではないか。つまりそれは、人々を認めたら、物たちも認めてなくてはならないということではないか。考えてみよう。とにかく避けるべきもの、理由はわからないが、避けるべきものは、体系的精神というやつである。物とともにある人々、物とともにはない人々、人間なしの物、どうでもいい。そんなものはあっというまに全部ご破算にして見せる。どうやるかは知らない。一番簡単なのは、始めないことかもしれぬ。しかし始めるしかない。つまり続けるしかない。たぶん最後には、イエスが説教したあの場所で、人々にとりまかれているだろう。たえまない往来、バザールの雰囲気。私は落ち着いている、さて。」(サミュエル・ベケット、「名づけられないもの」より)(*1)
“A friend of mine once told me that there is no greater fortune than being in an institution like this one when the storm comes. Togetherness that weaves itself so tightly that you will never see yourself as a single unit again. “ 「かつて私の友人は、嵐の際にこのようなインスティテューションにいることほど、幸運なことはない、と言いました。自身を再び単一ユニットとして認識することができなくなるほど、緊密で密接な一体感に包まれました。」(本作ブックレットのミリアム・ストーニーによるテキストより)(*2)
一日を通じて流動的にパフォーマーが交代しながら行われるナイル・ケティングの「Remain Calm 保持冷静」は、二つの観点で注目することができる。ひとつは、モノとヒトの新しい関係性、もうひとつは、災害時におけるミュージアムへの問である。本作は「パフォーマティブ・インスタレーション」として説明されているが、これはヒトであるパフォーマーがモノ化していくこと、背景であるはずのモノによって構成された舞台装置(セノグラフィー)が、前景化し自律した関係性を築きあげていくことの双方を含んでいる。「スマートホーム」技術を想定したというセノグラフィーのなかで、パフォーマーたちは擬似的なロボットダンスのジェスチャーや、同じ場所で同一のステップを反復するといったフラットで機械的な動作を見せる。変型自走式のロボットプロジェクターやプログラミング訓練用のボールが動き回るなか、ヒトがゾンビ化し、ロボット化し、段階的にモノへと向かっていくような態度には、グローバリゼーションの均質化作用への馴致が見いだせる。ヒトとモノを問わないアクターたちは、外部環境や世界のシステムへは反発せず、むしろそれらに積極的に飼い慣らされていくようにすら見える。これはヒトとモノによる「内省的なセノグラフィー introspective scenography」なのだ(*3)。
そして、ヒトとモノの境界を決定的に曖昧にするのが「災害 Disaster」のリハーサルである。周期的に起きるディザスターのフェイズでは、パフォーマーたちは嵐の轟音の中で日本式の避難訓練からインスパイアされたという「うずくまり」の姿勢を取る。この「うずくまり」の最中では、彼らは一切身動きを取らない。いっぽう、展示室内のモニターでは擬似的に計測された彼らの「冷静度合」が、数値としてゲーム感覚に提示される。「うずくまり」は、ヒトをヒトとして判別可能にする身体の各部分を覆い隠し、ひとつの物質的な塊として露出させる。これは外的環境の変化に抵抗するための手段というよりはむしろ、ヒトがモノに向かうことによって、「何も感じない」という感覚を得る最も洗練された訓練である。モノになることさえできれば、どんな緊急的な状況でも常に、冷静でいられるはずだからだ。これは周囲の物理的環境、しいては「とりまくものたち surroundings」に対する「降伏 surrender」のジェスチャーでさえある。
「災害」のフェイズを持ちこたえると、パフォーマーたちはもとの動作へと戻っていく。こうした動作のなかには、ガラスを拭く、人工的な花を生ける、壁面の平面作品を掛けかえる等、美術館にまつわるジェスチャーが含まれており、モノを扱うインスティチューションにも揺さぶりをかける。昨年の台風による水害が、国内の美術館にも大きな損害を与えたことは記憶に新しい。あるいはコロナウィルスという「見えない」モノたちが、伝統的に視覚芸術を扱ってきた美術館を休館に追い込む今日の状況のなかで(*4)、本作は「災害」という極限の観点から、ほとんどラディカルなまでにエモーショナルな態度を排除することで、美術館という制度におけるモノとヒトの関係性を「冷静」に問い直している。冒頭にあげたストーニーのテキストのように、建築的強度を持つインスティチューション(ミュージアム)が、災害時に身体的・精神的な「避難場所」として機能し、そこではモノである作品とヒトである鑑賞者のそれぞれが「単一のユニット」であることをやめ、存在論的なレベルでの新しい連帯を生み出す場となる可能性をはらんでいることを本作は提示する。
同時に、パフォーマーがセノグラフィーのなかで「展示替え」を行うこと自体が、原則的にモノを中心に扱うミュージアムにおける、パフォーマンス・アートやダンスの立ち位置へのパフォーマティブな言及である。この点において、上海屈指のアート地区である西岸にて、ポンピドゥー・センターというメガ・ミュージアムが、この「パフォーマティブ・インスタレーション」というジャンルを展示(上演)したことにも注目すべきである。例えば、今後ポンピドゥーは本作を収蔵し、美術館コレクションの一部として提示することができるのか。しばしば、映像によるドキュメンテーション等によってしか提示することのできないパフォーマンス・アートの立ち位置の難しさ(*5)を暗示するかのように、本作でパフォーマーは、似非学芸的な身振りをみせつつ、半ばシニカルにモノへの憧憬を示す。モノになることさえできれば、きっと美術館のコレクションに仲間入りできるはずだ、と(*6)。
そんな最中、松本望睦が生み出す心地よいサウンド・トラックの中でボーカロイドによる人工的なアナウンスはこう告げる。
“Attention, visitors. The artworks in the museum are turning to dust. Tremors in the building must be mitigated with slow decisive movements. Please be sure to walk slowly, anchoring each foot securely on the ground before taking a next step. Visitors should note that all movements displace vast quantities of air. Commotion cause destructive shifts in the museum atmosphere, which can cause irreparable damage to the artworks on display – therefore, it is essential that you remain calm” 「鑑賞者のみなさま、ご注意ください。美術館内の作品は塵へと変化しています。建物内の揺れは、ゆっくりと安定した動きで和らげることができます。次の一歩を踏み出す前に必ず片方の足を床にしっかりと下ろし、ゆっくり歩いてください。また、みなさまのあらゆる動きが多量の空気を揺らすことにもご留意ください。困惑は、館内の空間を破壊し、展示作品に修復不能なダメージを与える可能性があります。したがって一番重要なのは、あなたが冷静さを保つことです」(*7)。
まるで美術館のマスターピースを保護するためであるかのような説明、塵となりゆく作品への注意喚起は、いっぽうで災害時の美術館における作品・資料たちの状況を想像させ、他方でモノとして残ることが難しいパフォーマンス・アートにまつわる制度へのアイロニカルな言及となる。いずれにせよ、こうした場面で一番冷静でいることを要求されるのは、パフォーマーでもモノたちでもなく、わたしたち鑑賞者だ。
繰り返すが、本作はあくまで均質化・画一化していくグローバリゼーションの作用に従順である。現にパフォーマーは、その日のコリオグラフィを、スマートフォンのアプリによって指示され、パフォーマンス中もしばしばスマートフォンで振り付けの流れを確認する。当日になるまで、パフォーマーはその日、どの振り付けを行うかは分からない。しかし同時に、パフォーマーはアルゴリズムによって指示された振り付けが気に入らない、あるいは疲れてやりたくない場合、それを「無視」することができる(*8)。
これはグローバリゼーションの力学に「従ってもいいが、従わなくてもいい」という「冷静」なオルタナティブの選択である。このひとつの「or」を選択するとき、パフォーマーは、モノという物理的対象とある種の同盟関係を築いている。ブルーノ・ラトゥールの言葉を借りれば、本作はグローバルを希求するのでも、ローカルに閉じこもろうとするのでもなく、数多くのディザスターを生み出す「新気候体制」(*9)において、「テレストリアル」(*10)という第三の「or」の場に立とうとしている。ヒトとモノたちとの調和を安易に示そうとするのではなく、「地上的存在」としてのモノたちが生み出す物理的環境に、ヒトが強く依存しているというリアルを淡々と提示する。そこで重要なのは、かれら(モノたち)に「どのように依存するのか」という、「依存」の領域の地図作成法である(*11)。
また、マクロスケールの環境変化が指摘されるなかで、ディザスターにまつわる問題は、より根本的な「世界の終わり」の問題として、現実味を帯びて多くの分野で世界的に議論されるようになってきている。そうした状況のなか、無意味で、ときとして馬鹿げてさえ見える本作の「避難訓練」の度重なるリハーサルは、役に立たない単なる儀式などではなく、「世界の終わり」と対峙した際のブリコラージュ的な「緊急対策 emergency solution」の方法論へと転換しうる可能性を持っている。この訓練によって、「世界の終わり」的な状況を「ひとつのイベント」へと変容させ、数多くの危機が生む不可避な結果とそのショックに緊急対処するのだ(*12)。
ケティングは、ミュージアムというインスティチューションを通して、現行の世界を新しい世界へと取り替えていくという進歩主義的なやり方ではなく、人工的な環境世界の持続可能性、生存可能性のオルタナティブな選択肢を、モノと連帯することで模索している。同時に、仮にその世界が持続不可能であり、生存不可能であった場合の「内省的な緊急対策」の方法も本作で提案されている。ケティングがパフォーマティブに示すのは、人間による世界が終わっても、この世界にはたくさんの世界があるということ(There are many worlds in the World[*13])の「リアル」なのだ。
*1──サミュエル・ベケット著、宇野邦一訳、『名づけられないもの』、河出書房新社、2019年、p.7
*2──邦訳は、筆者及び作家による。
*3──本展のキュレーターである、マルセラ・リスタはケティングとのトークのなかで、本作を「内省的なセノグラフィー introspective scenography」と形容した。
*4──本作が展示されたのは、昨年の12月6日から今年1月8日であり、コロナウィルスが武漢市で最初に確認された時期と偶然にも重なっている。筆者が12月末に本作のため上海を訪問したときは、まだコロナウィルスについて認識していなかった。
*5──この観点は、クレア・ビショップ著、大森俊克訳、「美術館におけるダンスの危機と可能性: テート、ニューヨーク近代美術館、ホイットニー美術館 (抄訳)」、『美術手帖』2018年8月号、pp.124-135に詳しい。
*6──本作のキュレーターであるマルセラ・リスタは、ポンピドゥー屈指のコレクションを見せる「THE SHAPE OF TIME」展、ニューメディアのコレクションに特化した「OBSERVATIONS」展のキュレーションも手掛けている。上海ポンピドゥーは5年間で3度のコレクションの長期展示を行う予定ということだが、この観点からしても、本作がミュージアムについて入れ子構造的に言及している点はより浮き彫りになる。
*7──邦訳は、筆者及び作家による。
*8──作家との会話から。この仕組みがパフォーマンス中に観客に明示されることはない。
*9──「New Climate Regime」を指す。人類が地球環境に与えてきた影響により、近代人が自明のものとした自然の物理的枠組みが不安定となり、人間と自然が新たな関係性によって定義される時代を示すブルーノ・ラトゥールの造語。(ブルーノ・ラトゥール著、川村久美子訳、『地球に降り立つ ─ 新気候体制を生き抜くための政治』、新評論、2019年、p.2、訳者による用語解説を参照)
*10──「Terrestrial 」を指す。大地に根ざすあらゆる地上の存在、およびその総称としての地球を意味するラトゥールの表現。プラネット・アースやグローブ、ワールドの対比語として用いられ、大文字で始めることで、地球上のあらゆる「地上的存在」が新しい「政治的アクター(政治的な作用を及ぼしうる存在)」であることを強調している(同前、pp.66-67を参照)。
*11──同前、pp.234-235、訳者解題を参照。
*12──ヴィヴェイロス・デ・カストロとデボラ・ダノウスキーは、この「緊急対策」の作用を、ラース・フォン・トリアーによる《メランコリア》(2012)のラストシーン、惑星衝突による「世界の終わり」を目前に控える主人公たちが最後を過ごす、疑似先住民的な木製のシェルター「魔術的な洞窟 magic cave」の中に見出している。(Danowski, Déborah and Eduardo Viveiros de Castro. (2017). The Ends of the World. trans. Rodrigo Nunes. Polity Press. pp.120-121)
*13──同前、p.120