映像、パフォーマンス、インスタレーション、サウンド・アートなど、多様な表現形態の作品を発表してきたナイル・ケティング。エネルギーをテーマにした「六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声」や、ドイツ・ゲッティンゲンのクンストファーラインで初演され、その後パリのパレ・ド・トーキョーで再演された、日本で経験した避難訓練から着想したパフォーマティヴ・インスタレーション《Remain Calm》などで知られている。
新型コロナウイルスのパンデミック以降、これまでケティングが取り扱ってきた、身体や危機への対応といったテーマがより重要性を増している。パンデミックの時代に作家は何を考え、作品を通じていかに問いを投げかけてきたのか、話を聞いた。
──作品のお話の前に、新型コロナウイルスが猛威をふるった2020年という1年間をどのようにとらえているのかお聞きしたいです。
パンデミックにおいて制限が余儀なくされ、それまでの日常とは異なる状況が訪れました。ただ、自分をとりまく環境の変化にどう対応していくかという点に関しては、1年の月日では劇的に変わらないものだと感じています。そう考えると、そこで浮き沈みしてる自分というのも、意外と以前とは変わりません。コロナ禍にあっても、悲しみや喜びの瞬間もあるように、人間の根本にある感受性といったソフトな部分の変わらなさを実感したのは発見でした。
パンデミック以前と比べ、根本にある構造が変わっていないという点は、様々な領域でいえることかもしれません。経済にしても、富裕層はどんどん富を蓄えている状況ですし、貧困層がさらに苦しくなるという格差は変わっていません。コロナによって、本当にサポートされるべき場所に、サポートが行き渡っていない現実や、世界のあらゆるシステムの歪みがハイライトされています。
コロナは私たちの世界を評価する赤ペン先生のような存在ともとらえられるかもしれません。コロナそのものに惑わされるのでなく、顕在化してきた事態を今後、どのようにトラブルシュートしていくかが重要ではないでしょうか。
──近年展開している作品《Remain Calm》では、まさに災害などの予期せぬ緊急事態における対処法が扱われていました。この作品の概要を教えていただけますか。
《Remain Calm》という作品は、もともと日本で幼少期に体験した小学校の避難訓練から着想を得ています。避難訓練というものは、そこで起こっていない自然現象を想像しながら、自分がどう対応するのか、他者やモノとの距離などを冷静に考えて行うものです。いま考えると、その構造は一種の振り付けみたいなものに思えます。自分たちが置かれている状況がどんどん変化するなかで、どのような指針のもと自分が動いたり、他の存在と関係しあうのか、その相関関係に興味をもちました。
この作品のなかでは、周期的に地震などの災害が光や音でシミュレートされる瞬間があり、パフォーマーが災害に応じてプログラムされた動作を展開していきます。鑑賞者は、災害時の仮想性を傍観するのですが、パフォーマーと観客、それを包み込むセノグラフィー(舞台美術)の相互関係が、作品をよりリアルなものへ転換させていきます。各関係性のあいだには、つねに何か揺らいでしまうものがあり、作品自体も予測や制御ができません。その揺らぎによって、鑑賞者は異なる感覚にアクセスすることができ、結果として作品がひらき続けるという状態が生まれています。
──結果として作品がつねにひらき続けるというのは、おもしろいですね。《Remain Calm》を体験するたびに、作品自体が生き物のようにどんどん変容し、そのなかに包み込まれていくような感覚に陥ります。仮想的な設定はあらかじめ組まれていると思うのですが、揺らぎが生まれる有機的な構造はどのように設計されているのでしょうか?