しばらくのあいだ(ほかの仕事との兼ね合いもあり)ウェブ版「美術手帖」のレビューを執筆することからは遠ざかっていたが、先日東京でアナイス・カレニン個展「Things named [things]」をたまたま鑑賞して、ぜひ短いレビューを執筆してみたいと思った。同展の会場は根津にあるオルタナティブ・スペース「The 5th Floor」、キュレーションは同スペースの代表を務める岩田智哉が担当した。なぜそのレビューを執筆したいと思ったかというと、この展覧会およびアナイスの仕事について考えることが筆者のこれからの研究に対して重要な示唆を与えてくれる、あるいは今後の活動の新しい方向性の起点となるように感じたからだ。そのための備忘録のようなものとして、本稿を執筆してみたい。それゆえここでの議論にはさらなるブラッシュアップが必要な箇所が散見されると思われるが、まずは本展を鑑賞したあとに残存する思考がなるべく新鮮な状態のときに、とりあえず言語化することを優先させた。その点、ご寛恕願いたい。
ブラジル出身のアナイス・カレニンは、アーティスト、ライター、リサーチャーなど複数の顔を備える。アナイスは現地のサン・パウロ大学で博士研究員として博士論文を執筆中であると同時に、現在は早稲田大学客員研究員およびティーチングアシスタントとして日本に滞在している。また、彼女は日本のmetaPhorestのメンバーでもある。metaPhorestはバイオ・アートやメディア・アートを含む「生命」に関する(広い意味での)芸術の研究や制作のための領域横断的なプラットフォームで、2007年から早稲田大学先端生命医科学研究施設の生命科学の研究室内に設置されている。余談だが、筆者も先日の東京滞在中にmetaPhorestのセミナーで講演を行った。そのときにメンバーらと交わした対話は本稿の議論にも様々な仕方で影響している。metaPhorestの性質からもわかる通り、アナイスの芸術実践も優れて領域横断的である。彼女はとりわけ(私たちがそのように「分類」するところの)「植物」にフォーカスし、伝統的な知識体系、神話、アニミズムなどの観点を巧みに取り入れながら、作品を通して植物をめぐる歴史や知識の隠された(抑圧された)様相にアプローチしてきた。
イギリスでの博士課程と香港でのポスドクを終えて日本に帰国してからの筆者は、(様々な経緯もあり)人新世やエコロジーといった概念と現代アートの関係性を自分なりに、あるいは多彩なバックグラウンドを有するアーティストやキュレーターや研究者らとともに探ってきた。その背景には、地球温暖化などを含む環境危機(その深刻さはすでに四半世紀以上前から一部の研究者や著述家によって警告されてきた)、さらには2020年前後から深刻な問題となってきたコロナ禍といった事情がある。こうしたトピックに関して、アカデミックな考察も活発に展開されている。例えば、現代アートにも造詣の深い社会哲学者の篠原雅武は『複数性のエコロジー』(2016)などの著作で、地球環境の変容に伴う「人間の条件」の変化について重要な思考を提示している。同時に、篠原は哲学者ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』(2007)を日本語に翻訳するなど、海外での思想動向の紹介にも努めてきた。篠原やモートンは、人間活動が地球環境に不可避的影響を及ぼす時代=人新世において、私たちが被る存在論的変容について熟考している。
他方、経済思想家の斎藤幸平による『人新世の「資本論」』(2020)はマルクス思想、とくにその代表作『資本論』を読み直すことで、現行の環境問題を解決へと導く手がかりを発見しようと試みている。斎藤も日本語版に推薦文を寄せたセルジュ・ラトゥーシュの『脱成長』(2019)は、長年にわたり資本主義の論理に駆動された経済成長の概念に対するオルタナティブを構想してきた、このフランス人経済学者の集大成と言える著作である。斎藤やラトゥーシュの思考は、長期的な視点でエコロジカルな破局を回避するための最適解として構想されている。ちなみに、筆者の見方では、現在、人新世やエコロジーに関する議論は大まかに言って二極化している。その一端には篠原やモートンに代表される動向があり、もう一端には斎藤やラトゥーシュに象徴されるものがある。一方を人新世における人間存在の変容を思弁的に考察する哲学的議論、他方をエコロジーの危機に対処するための現実的な解決策を模索する経済学的議論と図式化することができるかもしれない。目下、両者のあいだには連携よりもギャップのほうが目立つように思われる。そして、それらに生産的な対話を促す可能性を、筆者はアートやキュレーションという営みのなかに見ているのだが、そのことはまた別の稿で論じたい。
いっぽう、ロンドン芸術大学に提出した筆者の博士論文のタイトルは、「脱植民地化の芸術=技法──東アジアのポストコロニアルな文脈におけるソーシャリー・エンゲージド・アートの可能性(The Art of Decolonisation: On the Possibility of Socially Engaged Art in the Postcolonial Context of East Asia)」というものであった。同論文では、マンガやサブカルチャーといった、日本の現代アートの支配的イメージの陰に隠れていた、戦時中の帝国日本の植民地支配が残した様々な問題にアプローチする1990年代以降の日本の現代アートにおける政治・社会的実践をたどり直し、周縁化された領域を掘り起こすことでオルタナティブなナラティブの創出を試みた。同時に、それは西洋中心的な現代アートの語りを再構成するという、二重の意味での脱中心化の試みでもあった。その関心は、日本語で書かれた最初の単著である『現代美術史──欧米、日本、トランスナショナル』(中央公論新社、2019)にも明確に引き継がれている。「芸術の脱植民地化」というテーマは、筆者自身のライフワークとしてこれからも探究していきたいと考えている。
アートとエコロジーに関する研究を進めるなかで難しいと痛感したのは、こうした議論と(筆者が博士課程以降、その方法論と蓄積に大きな影響を受けてきた)ポストコロニアリズムとの接続だ。昨年刊行した2冊目の単著である『ポスト人新世の芸術』(美術出版社、2022)では両者に目配せすることを試みたが、満足のいく結果であったとは言えないと自分では考えている。具体的な例を挙げると、アートの文脈でエコロジカルな問題を考えるとき、その思考の射程をかなり広く設定する必要がある。なぜなら、ひとりの人間の有限な生の領域では気候変動などの問題を適切に考察することが難しいからだ。人新世やエコロジーのトピックがいわゆる「人間以後の哲学」(モートン、メイヤスーなど)との親和性が強いのは、そのような理由だ。いっぽう、ポストコロニアリズムの理論が照射する問題系は、過去から引き継がれていままさにここで発生している問題だ。そのため、思考の射程をある意味では狭く局所的に設定することが要求される。私たちは、すぐ隣にいる人、学校や職場、レストランやコンビニで出くわす人とのミクロな権力関係のなかに絡めとられている。歴史的に構築されてきたそうした微細な権力関係に対して繊細であることを、そしてそうであるべき理由をポストコロニアリズムの理論は私たちに教示する。
やや比喩的な表現を使えば、エコロジーの問題を考えているとき、筆者はマクロな事象を観察するための道具、例えば、天体望遠鏡を使って社会を眺めているように感じる。反対に、ポストコロニアルな現象を読み解くためには、まるで顕微鏡やルーペのごとく細かな対象を観察するための道具が要請される。筆者は、ひとつの議論のなかでこうした両極端とも言える概念装置を用いることに困難を感じていた(筆者だけかもしれないが)。そうした行き詰まりを突破するためのアイデアとして、筆者は現在の現象だけではなく、その起源となるイデオロギーを遡求的に精査することを考え始めていた。
ここでようやく話がアナイス・カレニン個展「Things named [things]」に戻る。アナイスの作品はそのヒントを具現化しているように筆者には思われた。とくに3つ並んだ部屋の真ん中に展示されていた《Forest (coffee, sugarcane, tobacco) 》(2023)は示唆的だ。アナイスは植民地支配を通した自然支配(ここでは先住民たちが用いていた薬草の資本主義的利用)と、そこで同時に発生していた人間の支配(タイトルに含まれるコーヒー、サトウキビ、タバコは、被支配者たちを「便利な」労働力として非人間的に搾取したプランテーションで生産されていた品々である)をリサーチ・ベースのインスタレーションのなかでパラレルに描き出す。
アナイスがそのインスタレーションのなかで描き出す自然の支配(抑圧)と人間の支配(抑圧)という両者に共通するのは、科学的な合理性という神話(もちろん、科学が人間にもたらした恩恵にも目を向けることは重要だ)による分類や類型化、そしてそれに基づいた排除と選別の様相である。あくまで(一部の、植民者としての)人間の目から見た「有用性」や「合理性」をベースにした自然と人間の支配、抑圧、搾取……。そしてそれらを束ねる大元には、まさに「帝国のロジック」が屹立しているように筆者には感じられた。この「帝国のロジック」なるもののアートを通じた可視化と前景化、そしてそうした作業を通した解体と脱構築により、エコロジカルな問題とポストコロニアルな問題を同時並行的に思考していくこと。アナイスの芸術実践の根幹には、そうした意義があると思われた。そして、エコロジカルな問題とポストコロニアルな問題の蝶番としての「帝国のロジック」はまた、筆者自身がこれからの研究・制作活動を通じて挑戦していくべきものでもある。今後のアナイスの活動にも着目しながら、筆者自身の探究を進めていきたい。