(もっと)知らない人と仲良くなる方法
移動型地方展覧会「ストレンジャーによろしく」(以下、「ストよろ」)は、2020年8月から9月にかけ、まだコロナ禍の影響下にあった石川県金沢市にて、感染症対策を講じながら実現された。この催しは、2014年の群馬県太田市、15年の愛知県名古屋市での開催に次いで、第3回目となる。本展は、市内各所の使われなくなった施設や現役の文化施設などを広く活用して行われた。その意味では、廃線となった路線の駅舎や廃校となった学校の校舎などの再利用が目立つ、「里山型国際芸術祭」と比較することもできる。筆者も2日間をかけて自転車で全会場を訪れたが、街中に点在する未知のスポットを自らの身体を通して探索していく経験は、自然豊かな里山型国際芸術祭に足を運ぶ魅力とも通じる部分があった。
とはいえ、基本的には会場を変えずに一定期間開催される芸術祭とは異なり、開催地を固定せず、つねに新たな土地へと巡回しながら実施していく可変性に「ストよろ」の特徴がある。また、前回が2015年、前々回が14年の開催であることからもわかるように、定期的に開催されるビエンナーレやトリエンナーレとも様子が違う。そうした流動的要素は、各開催地や開催時期の相違が生み出す偶然性を取り込み、それぞれの「ストよろ」展を互いに異なるものへと変貌させる。
なにより本展最大の特色は、キュレーターやディレクターを立てず、若手を中心とした作家たちが独自に企画運営していることだ。そのため、プロジェクト全体を包括するテーマや展覧会をまとめるコンセプトは(ゆるやかなものでさえ)存在しない。必然的に、出品作品のラインナップは、山内祥太のシュルレアリスティックな映像から内田望美の参加型パフォーマンス、谷口洸のコンセプチュアルなインスタレーションから北原明峰の独特のタッチで日常を切り取った絵画に至るまで、バラエティーに富んでいた。その多彩さは、これらの作品が「セマティックな(テーマに沿った)」展覧会で一堂に会する機会はほとんどないであろうと思えるほどであった。その点では、筆者の目から見ると、「ストよろ」は、1993年にアーティストの中村政人が発起人となって実現された、東京・銀座広域の路上空間を活用した展覧会「ザ・ギンブラート」を彷彿とさせる。
しかし、中村の同時代人であるアーティスト・研究者の中ザワヒデキが証言しているように(*1)、同展覧会には、閉鎖的な日本のアートワールドに対して「攻勢をかけ[る]」という明確な目的意識が存在した。日本現代美術史上の位置付けとして、「ザ・ギンブラート」展がしばしばインスティテューショナル・クリティーク(制度批判)の文脈で記憶される理由である。いっぽう、「ストよろ」展に関して言えば、一見したところ、そのような明瞭な批評性を欠いているように思われる。だが、筆者はそうした見方に異を唱えたい。
「ストよろ」の一義的な意図は、若い作家のネットワークを編成することにある。実際、同展のウェブサイトでも、「日本各地の作家同士が […] コミュニティを築き上げ」、「沢山の作家同士が交流し互いに刺激を与え合うこと」の重要性が強調される。すなわち、ここでは展覧会を企画し、開催すること自体が、地方を拠点とする作家や各地から足を運んでくる鑑賞者など、たくさんの「知らない人と仲良くなる方法」としてとらえられる。異なる地方を巡り、その土地をベースにする作家を交えながら、移動型の展覧会をつくり上げること、そして、そのプロセスのなかで作家同士のつながりを醸成していくこと──それ自体が、現在のアートワールドにおいては、きわめてインスティテューショナル・クリティーク的な側面を帯びる。なぜならば、企画者自身が述べるように、「地理的にも構造的にも中央集権的な今日の美術 […] の中ではこれを達成することは至難の業」であるからだ。
それゆえ、「ストよろ」を一連の展覧会から構成されるアートプロジェクトととらえたとき、その試みは、日本における「今日の美術」界で優勢な「中央集権的」性質──言い換えれば、東京や京都を中心とする「大都市中心的な」構造や意識──に対する批評性を備えた、転覆的チャレンジとして現れてくる。つまり、「ストよろ」が構築しつつあるネットワークは、既存の日本の美術界に対してカウンター攻勢を仕掛けていくためのオルタナティブなインフラストラクチャーとなりうるのだ。
いっぽう、さらなる発展のための課題も見受けられた。例えば、国外作家の招待や国外での開催を含む、トランスナショナル化である。そのことは、このプロジェクトを「もっと」知らない人と仲良くなる方法に変えることにつながるだろう。現在のコロナ禍では難しいかもしれないが、今後の展開として期待を寄せたい。
最後に、筆者が感じた疑問を率直に開示して本稿を閉じたい。それは、「ストよろ」がキュレーターやディレクターを置かず、統一されたコンセプトや全体のテーマが存在しないことに由来する。最初、筆者はこの展覧会に──ゆるやかなものであれ──ひとつの共有されたテーマが設けられているほうが「良かった」と感じた。そのほうが、展覧会にまとまりが生まれると考えたからだ。そして、そのように書こうと思っていた。しかし、巨視的な目で眺めれば、セマティックな展覧会自体、キュレーターという職業が確立された戦後以降の比較的新しい現象にすぎない。ゆえに、展覧会に決まったテーマがあるべきだという考えは、歴史的に構築されたものと言える。そのため、この古くて、かつ新しい手法が次の時代のスタンダードになっていく可能性も否定できない。その点についての是非も含め、「ストよろ」はいま、重要な論点を数多く提起していたように思われる。そのため、コロナ禍のために金沢まで足を運ぶことができない人が多かったのが悔やまれる。次回以降の「ストよろ」の展開を引き続き注視したい。
*1──中ザワヒデキ『現代美術史 日本篇 1945–2014』(アートダイバー、2014)、93頁。