東アジアにおける満州国の遺産とその未来
ASAKUSAで開催されているロイス・アンの個展「満州の死…それは戦後アジア誕生の基盤である」では、2つの映像──《Kishi the Vampire》(2016)と《錬金術国家I:器官なき身体》(2021)──が展示されている。前者はレクチャー・パフォーマンスの一部にもなったCGアニメーション映像、後者はASAKUSAのコミッションによる新作である。香港を拠点に活動するメディア・アーティストのアンは、これらの作品において(展覧会タイトルにも示唆されるように)「満州国」を共通のテーマとして扱う。
満州国は1932年に中国東北部に建設された帝国日本の傀儡国家。理想国家として構想されたが、「民族協和、安居楽業、王道楽土を謳った満洲国は、民族差別、強制収奪、兵営国家という色彩を抜き難く持っていた」(*1)ことは比較的よく知られる。満州国は1945年に姿を消したが、「満洲国が消滅しても、その地に生き続けている人々にとって、満洲国がつけた傷は、うずきつづけて消え去りは」(*2)せず、東アジアの人々の記憶に暗い影を落とす。
いっぽう、満州国は経済と政治の近代化のための「巨大な実験室」(*3)であったという認識はさほど一般的ではない。この壮大な実験場でドイツ式の合理化産業に範をとった統制経済の実験を推進した人物こそ、《Kishi the Vampire》の主役・岸信介である。「戦後政治最大のフィクサー」「日本の妖怪」などのあだ名をもつ岸は「事実上、満州国経営の実権を握って」(*4)おり、この作品では──そのタイトル通り──満州の労働力や資源を搾取する吸血鬼として批判的に描かれる。アンの制作した不気味なアニメーションには、岸の満州国での暗躍を綴るナレーションが重なる。
アンの映像作品の特徴は史実に関する綿密なリサーチに基づくストーリー・テリングに見出すことができるが、それは《錬金術国家I》についても同様だ。同作の主人公「メスを持った哲学者」のモチーフには、2人の実在人物がいる。1人は「731部隊」の創設者で、長く部隊長を務めた微生物学者・石井四郎。もう1人は「京都学派」の一翼を担う哲学者・西谷啓治。満州国に存在した731部隊には約3000人の隊員が所属し、病気の原因の解明や生物兵器の開発のために「十年間に二千とも三千とも言われる人を人体実験によって殺害」(*5)した。
西谷啓治は西田幾多郎の高弟で、「京都学派」を代表する哲学者である。文芸誌上の座談会「近代の超克」の悪評で知られる京都学派の面々は、戦後から現在に至るまで日本のアジアに対する帝国主義的侵略に理論的根拠を与えたとして厳しい批判を受ける。現代美術の作品のなかで京都学派に言及される機会はこれまでほとんどなかったが、近年ではアジアの作家を中心に京都学派に対する関心の高まりが見られる。《旅館アポリア》(2019)を制作したホー・ツーニェン(シンガポール出身の映像作家)は、その好例だ。
西谷哲学の核は、しばしば「ニヒリズムを通じてのニヒリズムの超克」というテーゼで定式化される。西谷は、西洋的なキリスト教との対決からニーチェらが選びとった虚無を、東洋的な禅や仏教に特徴的な「空」を通じて克服しようとした(「虚無は過渡的なもので、そこにとどまることは許されない」[*6])。それは西洋(キリスト教)を中心に語られる「普遍史」としての世界史の内部に日本(禅や仏教)やアジアを挿入しようとする試みとも解釈されうるし、「富国強兵」をスローガンに西欧列強の仲間入りを果たそうとした帝国日本の挑戦と並行関係をなすともみなせる。その意味で、西谷と石井──帝国日本の医学的中枢──のキメラ的人物という造形の妙には、近代日本の本質を見抜く本作における透徹した洞察力が看取できる。
「満州の死…それは戦後アジア誕生の基盤である」というタイトルは、岸信介研究を行うアンドリュー・レヴィデスの講演から借用された。コロンビア大学でなされたレヴィデスの発言の含意は、岸が実験的に満州国で運用していた権威主義的・トップダウン型計画経済が、戦後にアジアの新興経済国家が採用した発展モデルと類似していたということだ。《Kishi the Vampire》では、韓国の開発独裁を率いた朴正煕(パク・チョンヒ)の名が挙げられる。最後に、この洞察に、アーティストとのインタビューのなかで、共同脚本家ニコライ・スミノフが《錬金術国家I:器官なき身体》に関連して言及したニック・ランドの思想を重ねてみる。
「暗黒啓蒙」などと自称する、優生思想に立脚した人種主義を素朴に肯定しているように見える(「人種間の平等な待遇を正式なかたちで要求していくことは、文明的な相互関係の前提条件なのだと[…]誰が信じているというのだろうか」[*7])ランドら「右派」加速主義者たち──ピーター・ティールやパトリ・フリードマンなども含まれる──は、どこの国にも属さない公海に人工的な島を建造し、そこに市場原理による経済活動を絶対的に是とするリバタリアン(自由原理主義者)の理想国家を創出することを企てているとされる。この「国」は、第2の満州国を予示しているか。だとしたら、仮にその企てが失敗したあとに人類を待ち受けているのは、人種、宗教、格差による分断の果てに生まれるゲーテッド・コミュニティの群れという暗い未来であるのか。
*1──山室信一『キメラ 満洲国の肖像 増補版』中央公論新社、2004(初版1993)年、298頁。
*2──同書、5頁。
*3──鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』平凡社、2021年、15頁。
*4──原彬久『岸信介 権勢の政治家』岩波書店、1995年、59頁。
*5──常石敬一『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』講談社、1995年、9頁。
*6──佐々木徹『西谷啓治 思索の扉』東洋出版、2020年、101頁。
*7──ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』五井健太郎訳、講談社、2020年、163頁。