「写真」が終わるとき、何が始まるか
タイトルが示唆的だ──「写真が始まる」。インディペンデント・キュレーターの長谷川新がゲスト・キュレーターを務める、αMプロジェクト2020–2021「約束の凝集」(英語タイトルは「Halfway Happy」)の第3回目にあたる本展は、写真家の黑田菜月による2つの映像作品を紹介する。いずれの映像作品(どちらも30分程度の長さ)でも、写真が決定的に重要な媒体として登場する。
展覧会タイトルに反して、黑田の作品では、ある意味で「『写真』が終わっている」と筆者は感じた。しかし、この感想は、長谷川が黑田の作品を通して鑑賞者に伝えたかったことと、そう遠く離れてはいないのではないか(もちろん本人ではないので断言はできない)。
展覧会で配布されるハンドアウトの文章で、長谷川はこう述べる。「黑田は、写真のもつ暴力性への自覚の誇示とは異なる方向に自身の技術を使役させ」ている、と。「写真のもつ暴力性」、より一般化すれば、カメラに内在する暴力性を白日のもとにさらす行為は、現代美術文脈では頻繁になされてきた。そうした芸術実践の意義は、異論の余地がない。いっぽう、現代美術のジャンルとしての「写真」は、あまりにそうした政治的賭金の重荷に拘束されている。
それゆえ、長谷川が示唆するように、現代美術の領域において、そうした「暴力性への自覚の誇示とは異なる方向に」舵を進めることもまた求められている。そのような意味で、本展は、ひとつのオルタナティブな方向性を示そうとする野心的なものであると解釈できる。
《友だちの写真》(2018)は、黑田が横浜市立金沢動物園で子供たちを対象に行ったワークショップをもとにつくられた映像作品である。子供たちは2つのグループに分けられ、いっぽうが写真を使った問題をつくり、他方がその問題を解くという仕組みである。「子供」「動物園」「ワークショップ」といったキーワードは──北川民次が1949年に名古屋市東山動物園の夏季休業中に開催した「夏期児童美術学校」など──わかりやすい美術史的比較・検討への誘惑を惹起するが、黑田の作品を考えるうえで、それはあまり適切な方法ではない(これはもうひとつの作品《部屋の写真》にも言える)。
《友だちの写真》のなかで強く印象に残った場面は、けっして顔を合わせることのない互いのグループのメンバーたちにメッセージを発する場面である。ある男の子は、何よりも先に、自分が撮った写真と、(名前も顔も性別も年齢もわからない)別の子供が撮った写真が似ていて嬉しいと述べ、そのあとで付け加えるように「ところで、名前はなんですか? 男の子ですか? ちなみに、僕は○○(名前)です。小学○年生の男の子です」といったセリフを続ける。
ここでは、名前・性別・年齢など、社会的存在としての私たちを縛りつけているカテゴリー的属性よりも、それぞれの子供たちが撮影した写真に表出している固有性が、相互理解のために大切な要素となっている。これは映像ではあまりに自然になされているために気づきにくいことだが、私たちが普段他者と交わるとき、こうした属性にどれほど強烈に拘束されているかを考慮すると驚くべきことである。すなわち、そこでは写真が別様のコミュニケーションの枠組みを生成する媒体となっている。
もうひとつの映像作品《部屋の写真》(2021)は、黑田が2017年から継続してきたという、介護の現場で働く人々へのインタビューから構成されている。この作品も「ケア」という最近よく語られる視点から議論されがちな気がするが、《友だちの写真》同様、表面的なテーマの下にある写真に対する深い洞察こそが重要であると筆者は考える。
《部屋の写真》に登場するのは、かつて自らが介護した人々の部屋の写真を説明する介護者たちである。そこでなされているのは、写真のなかにある事物を列挙するだけだが、「一見すると乱雑に物がおいているようだが、じつは法則性がある」や「よく夜ごはんをごちそうになった」など、介護という営みを通して接した、その人物(もう亡くなっている人も、生きてはいるが完全にそのときの記憶のない人もいる)との思い出が折にふれて露呈する。ここでは、写真が「想起」のための媒体となっている。そもそも、それは人類が写真を発明した動機のひとつではなかったか。
黑田の作品を鑑賞したあとにもっとも強く感じたことは、「写真を撮り、写真を見て、写真について(を通して)語ることは楽しい」というシンプルなメッセージである。そのようなメッセージを抱えた彼女の作品は、コロナ禍のなかで様々な制限を受けている、もっとも広い意味での「アート界」に関わるすべての人々の心にあたたかな火を灯すものではないだろうか。これは「批評」と呼ぶこともはばかられるような「感想」に近いものであるが、案外、本展の核心を突いているのではないかとも思っている。
言い換えれば、それは「写真は可能だ」、「写真の可能性は汲み尽くされていない」という力強い宣言だ。ここで言う写真は、現代美術の領域に組み込まれた(カッコつきの)「写真」ではない。写真という装置が発明されたとき、人類が思い描いていたコミュニケーションや想起のための写真である。「写真」が終わるとき、写真が始まるのだ。