「私」と「君」が「世界」で交差するとき
「君はいつだって世界の入り口を探していた」──というこのタイトルが、まずよい。フライヤーではそのタイトルのよさを、後藤哲也のグラフィックデザインが増幅させている。「君」と「口」という漢字を形づくっている矩形が、窓/ドアかのように見立てられ、いや、その形態はモニター/プロジェクターを模していると考えた方が適切だろうか。ともあれ、窓/ドア/モニター/プロジェクターが本展での「入り口」なのではないか、ということが、グラフィックから想像させられる。実際に、3つのフロアからなる本展では、主に3つのドアから展示室内外を出入りし、最上階の4階では開け放たれた窓から光が差し込み、屋外が見下ろせ、眼下に流れる川を見ることができる。映像の展覧会であるから、暗室然として作品に集中させてもいいところを、林勇気はあえて、会場の外もまた私たちの世界であるとでも言うかのように、最後のフロアで来場者の意識を外に向けさせる。
いま、つい「世界」という言葉を使ってしまったが、本展における「君」とは「誰」で、「世界」とは「どこ」なのだろう? これについては、即座には明らかにされない。2階、3階、4階と、フロアを上がっていくごと、作品が展開していくごとに、次第に明るさをおびていく。
順路上最初のフロアである2階の《Our shadows》(2022)は、「『私』の経験した出来事を演者が演じ直し、それを撮影した。双子のBと過ごした1日を描いている」(本展ハンドアウトより)と解説されているシングル・チャンネル・ヴィデオ作品である。「私」=作家本人であると明言されているわけではなく、作中では「映像による往復書簡」という言葉が使われ、ある「出来事」を「私」がその「双子のB」と共有するために映像を撮り、コミュニケーションの一環として映像を介したやりとりが日常的に行われているらしいことがわかる。その「出来事」自体は、「私」がどこかの街を歩き、ときにレストランで食事をし、ホテルで休むといったもので、取り立てて特別なことのようには思われない。だが、説明されているように、この映像作品は、そのある「私」の「出来事」を、別の人物が演じ直したものだ。林本人を知っている私からすると、作中の演者による「私」のいでたちや雰囲気が林と非常に似ていることに驚かされるのだが、知らない鑑賞者にとっては、これがフィクションであるのか、ノンフィクションであるのか、何がなんだかわからないかもしれない。いずれにせよ、この作品で言われるところの「私」が、演者を通して別の「私」へとさながら分岐していることが重要だろう。
このフロアには、《世界をノックする》(2022)という林が2015年から制作している作品の新作があり、《Our shadows》がモニターで流れているあいだ、別の壁面で、突然、(プロジェクターで)手がにゅっとあらわれ、「コンコン」と「世界をノック」している。《Our shadows》に集中していると、その数秒の映像にもノックの音にも気がつきにくいのだが、そうして意識の外で「世界」が振動している(ノックされている)ということが、ここでは大事なのではなかったか。そしてさらにこのフロアには、双子と思しきふたりの子供を写した写真が1枚、別の壁面にさりげなく貼られている。それが誰なのかは明らかにされていないが、作品上の「私」とその「双子のB」、その関係性が映像上で演じられるという行為が加わって、「私」は次第に最初の「私」を離れ、複数性を獲得していく。それは、鑑賞者に対して、「君」もまた誰なのか?と問うているということなのだと私は思う。鑑賞者もまた、鑑賞者にとっての「私」とは誰かと、その実存を問われているのだ。
3階へ上がると、「《Our shadows》の一部を更に別の演者が演じなおし」(前掲書)、本展で出品している別の作品の映像素材も重ねられた、7チャンネル・ヴィデオ・インスタレーションの《Their shadows》(2022)がある。「私」を演じる演者を、別の演者がさらに演じ直す。ただ、撮影場所は似ているようで異なるらしい。こうして、いっそう「私」の分岐/複数化は進んでいく。そしてこのフロアでいっそう存在感を示すのは、ヴィデオ・インスタレーションとして複数のプロジェクターによって複数の壁面に照射されている《another world-vanishing point》(2022)で、公募によって提供された多数の写真を素材に制作されたこの作品は、林によっていくつもの個別のモチーフに切り取られ、宇宙然とした暗がりを、速度を変えてゆっくりと/スピーディーに浮遊する。他者による写真群を用いた作品に対して「another world」と名づけられていることから、林にとっての「world」=「世界」とはまず自身が見つめるものであると考えられるが、そこに「もうひとつの世界」が差し込まれることによって生まれるのは、「誰」の「世界」であるだろうか? 林自身が撮影した写真をプリントし、それを淡々と文字通り積み重ねていくシングル・チャンネル・ヴィデオの《生きるということ》(2022)は、さりげない作品であるが、ほかの他者をベースとする作品を同じフロアにともなうことで、その境界とは何か/どこかを問う優れた作品である。
「私」と「君」が溶け合うかのようなフロアを経て、鑑賞者は自然光が方々から差し込む4階へと降り立つ。面白いのは、ここで、2階と3階を経て広がるだけ広げられた「私」が、むしろすぼむように閉じられていくことだろうか。そう、ここでは、「私」と広義の「他者」ではなく、「私」と「祖父」という近しい関係から制作された作品が展示されている。3チャンネル・ヴィデオ・インスタレーションによる《15グラムの記憶》(2021)は、「祖父が撮影した近隣の川の写真」(本展ハンドアウトより)から、川を辿るようにして制作した作品だという。作品は、「祖父」が写真とともに残していたという手記の言葉とともに展開していく。そのさまは、「私」がその演者の存在によって複数性を獲得しながら、他方で、家族という近親者の存在によって存在している/せざるをえないという唯一性を示しているようでもある。ただ、こうも想像させる。モニターに映る「祖父」が見たらしい川は、名村造船所跡地に位置するクリエイティブセンター大阪と隣接する木津川と、どこかで交差するかもしれない。その想像力は、鑑賞者としての「君」も展覧会上の「私」と交差するかもしれない、という連想を呼び起こす。さらに言えば、その「私」は「君」かもしれない。(林の場合)現実の複製物としての画像・映像の集積や変容を用いる林の作品が見せるのは、「私」という存在の曖昧さである。このことをさらに複雑化させるようにして、林は、展示を流動化・不安定化・複数化させる意図から、開館時間中にプロジェクターやモニタの位置の変更・再構成している。最終的にはもとの状態・印象に近い状態になるものの、まったく同じ状態には戻らない。「私」はそうしてズレ続けていくのである。
さて、本展では、これら作品の映像機器が、12時の開館後に林勇気本人によって順次立ち上げられ、18時の閉館30分前から同じく作家によって2階、3階、4階と徐々に電源を落とされていく。そして最後は、3階を会場として蝋燭の灯りが各所に付けられるという演出があった。そのとき、モニター/プロジェクターから放たれた「私」も含めた「誰か」の「世界」の映像=光は消え去って、そこに広がっているのは、来場者としての「君」が見る「世界」だ。私(たち)が探している「世界の入り口」は、「どこ」ともなく「ここ」にあったのではないか? 「そこ」に気づき、見つめてはどうかと、林勇気はそのヒントをずっと「君」に語りかけていたのかもしれない。「私」という存在を留保しつつ、その不明瞭さ、わからなさ、ズレを伴わせながらも、そっと、あるいは強く、ノックするようにして。