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2021.12.15

今現在の「日常」とは何か。小金沢智 評「土祭2021 アラワレル、未知ノ日常。」

2009年に窯業と農業の里・栃木県益子町で始まり、今年で第5回目の開催を迎えた「土祭(ヒジサイ)」。行政と住民が協働でつくりあげる、益子の風土に根ざしたこの芸術祭のなかで、益子在住の作家・藤原彩人が「感性の土壌」をテーマにキュレーションしたアート部門の展示を、東北芸術工科大学で教鞭をとるキュレーター・小金沢智がレビューする。

文=小金沢智

「陶芸家とすえの森」の会場風景 撮影=柳場大
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日常が内包する未知と出遭う

 12月1日のいま、この原稿を書きながら外では雨が降っている。時刻は朝8時、気温は8度。それほど寒くはないが、明日は雪になるようで、いよいよ本格的な冬が到来しようとしている。どこに? これは筆者の居住する山形県山形市の話だ。ただあくまで市街地のことで、山沿いではまた違う状況がある。昨年12月中旬の大雪ははじめてこの土地で冬を迎えるわたしを困惑させたが、はたして今年はどうなるだろうか。

 唐突に投げかけますが、いまこの記事を読んでいるあなたはどこに住んでいますか? 日本国内であれ、山形をはじめとして雪の降る冬が日常になっている土地に住む人もいるでしょうし、雪とは無縁の土地に住む人もいるでしょう。わたしは東北と呼ばれる土地で暮らしながら、首都圏を中心に各地の展覧会やプロジェクトを見るため数百キロの距離を月に数度移動する生活をしていますが、この日本という列島の風土の違いをまさしく肌身で実感します。土地の違いは居住者の衣服を変え、食事を変え、つまり生活そのものを変える。いくらインフラが整備され、インターネットが発達し、その技術が美術に新しい領域を拓いたとしても、少なくともまだわたしたちはこの代替不可能な体のある場所から完全に自由ではいられず、影響を受けざるを得ないのだということを実感するのです。「New Nomal」(新しい日常)と言うとき、「Nomal」自体がじつにさまざまであることに目を向けなければならないのかもしれません。あるいは個々の「日常」の違いについて。

 (口調を戻しつつ)したがって、栃木県益子町で2009年の初回から数えて5回目となる「土祭2021」が「アラワレル、未知ノ日常。」をテーマとして開催されるとき、その前提となる「日常」とは誰のそれであるかということは重要だろう。開催概要には、「非日常の長引くコロナ禍の時代だからこそ、「日常」を大切に、「日常」を捉え直し、「日常」の中の表現の営みを大切に分かち合いたいと思います。益子の歴史・風土の上に、益子に住む人も訪れる人も、まだ出会えていない「未知の日常」が、様々に表現され可視化され立ち現れます。その風景の中を、共に歩みましょう」(*1)とある。つまり、ここで用いられている「日常」とは、必ずしも益子町住民のそれだけではなく、わたしをはじめとする観光客も含まれるということだ。益子焼をはじめとして陶器の町で知られる益子町は人口2万1519人(2021年11月1日現在)でありながら、いっぽう観光客は年間200万人が訪れるという。その非対称性における「未知の日常」のあらわれの設計こそ、「土祭2021」の目指したものではなかったか。

 さて、「住民プロジェクト・ツーリズム」「陶芸・手仕事」「アート」「食育・食文化」「日本遺産セミナー」「ランドスケープ」「空間・会場づくり」など複数の部門による企画から構成されている「土祭2021」だが、本稿は筆者が観賞した「アート」部門の展示を中心とする。ディレクターをつとめた益子町出身・在住の彫刻家・藤原彩人が掲げたテーマは、「感性の土壌」。「益子の大地や風土から受ける感覚がアートとして立ち現れること」(*2)を目的に、「森を歩く」「大地で遊ぶ」「丘で踊る」「七つの神社を巡る」の4つのプロジェクトが益子町各所で展開された。1日限定(10月31日15時-17時)の「丘で踊る」(茂呂剛伸、石田しろ、石橋俊一、川村怜子、佐藤夕香による小宅古墳群と縄文太鼓の演奏)は実見していないが、そのほかの展示が作家・作品のディレクションだけではなく、前提となる場所・時間の設定が巧みであったことが印象深い。

藤原彩人によるアート部門のテーマ「感性の土壌」コンセプトドローイング

 「大地で遊ぶ」のSIDE COREによる展示は、元ガソリンスタンドを会場として「夜だけオープンする陶器屋」としてつくられた。益子町に居住する作家と、SIDE COREをはじめとするその外に居住する作家が「野焼き」を通して制作の場を共同、会場にはその陶器群と映像が展示されたのである。限られた時間(17時〜22時)のみオープンした会場は、観光客が帰り、静まり返った町の片隅で煌々と光を放つことで夜半の集いの場としての意味を持ち、その場に訪れる鑑賞者は「野焼き」に集った数々の作家たちの姿と重なるようにして自分を見つめ直したのではないか。隣接する建物ではガソリンスタンドを開設したオーナー平野良堅による絵画や木彫作品がSIDE COREのディレクションによって展示され、筆者が訪れた際、既に亡くなっている平野良堅その人を知るご夫妻が藤原にその思い出を語っている姿を見たことが忘れられない。きわめて個人的な思い出の語りは、展覧会の批評とは異なる位相にあるが、しかし、確かにそれはこの場が展覧会場として設定され、SIDE COREによる展示がいわゆる作家だけに留まらず展開されたことで生まれたものだった。この土地に生きる人にとって「日常」であったはずのその場所で、「未知」が顔を覗かせた瞬間である。

SIDE COREによる「night experiment」展示風景全体 撮影=柳場大
SIDE COREのディレクションによって隣接するスペースで公開された故・平野良堅による木彫、絵画の展示 撮影=柳場大

 「七つの神社を巡る」は、益子町の全域にわたって位置している7つの神社・境内を舞台に7名の作家が展示するものだったが(*3)、八幡神社(長堤)で展示されていた仲田智のドア状の形態の作品を、近所に住み参拝に来たと思われる年配男性と子どもふたりの連れあいが不思議そうに見つめていた姿も同様に印象深い。観光客にとって、神社・作品はともに「未知」であるという点で等しいと言えるが、ここに暮らす居住者にとってはそうではないということがこのような瞬間に思いがけず立ち会うとよくわかる。これは神社という土地・住民と密接に結びついた場所を会場にしているからこそ起こることであって、美術館やギャラリーではこういうわけにはいかない。また、7つの神社には川崎義博による作品《七つを結ぶ音》が展示された。これは、「七つの神社を音で結ぶ」と題して広域の神社を「音」でつなげることで「「空間/結界」を創り出す」(*4)試みで、その各神社の音源は、人の声や水の音、空気の振動音などモチーフの違いがあるという。音は空気の振動によって生じるものであるから、天気や温湿度など、作品の設置されている環境の日々の違いからも影響を受けるだろう。個別でありながら全体として一つの作品として発表され、しかし鑑賞の順序は問わず、環境の違いによってもその音が変わる可能性を持つ作品からは、作品という存在もまた、確固としたものではなく未知なる可能性を内包していることがうかがえた。

展示風景より、仲田智《ヒカリの鱗-ヒジサイバージョン-》 撮影=柳場大
綱神社における川崎義博の《七つを結ぶ音》 撮影=柳場大
綱神社における川崎義博の《七つを結ぶ音》より、サウンドインスタレーションの画像。綱神社では鉄板を発音体として人の声からつくった音が流れる。 撮影=柳場大
星宮神社拝殿内における川崎義博の《七つを結ぶ音》。ここではガラス板と石が発音体となり、水音をデジタル加工した音が流れる。 撮影=柳場大

 この点は、「森を歩く」で小田桐奨と中嶋哲矢によるユニットL PACK.が、「彫刻を問う集団」AGAIN- STへの依頼を通して作り上げた「陶芸家とすえの森」でいっそう明瞭に浮かび上がっている。益子向原の杉林を「とある陶芸家の土地」(*5)と見立て、かの陶芸家が「制作の参考にするために集めた、たくさんの陶片や取るに足らない小さなものを、切り株の末口に並べ」ていたという物語を設定し、その杉林の切り株にAGAIN- STメンバー(冨井大裕、深井聡一郎、藤原彩人、保井智貴)が各100点もの陶片を制作、設置したのである。さらに、それらはL PACK.によって「一人一点持ち帰ることができる」という「噂」が流され、会期中、減ったり、そうして持ち帰られたところに別の陶片があらたに置かれたりする(筆者も一点持ち帰っている)。展示のクローズ中はロープで結界をめぐらせているものの、完全な密閉空間にはできない(作品保全ができない)屋外という環境を逆手に取ったのである。

「陶芸家とすえの森」の会場風景 撮影=柳場大
L PACK.による切り株と、そこに置かれたAGAIN_ST制作の陶片 撮影=柳場大

 こうして見るとき、全体テーマである「アラワレル、未知ノ日常。」にある「未知」とは、「日常」が内包しているものではないかと考えさせられる。日常と呼ばれる平時の生活であれ、連日連夜まったく同じことが起こることはなく、わたし(たち)の体調・感情もまた、連日同じにはすまない。「土祭2021」のアート部門「感性の土壌」は、鑑賞体験の質の保証や作品保全上、会期中まったく同じ状態であることが基本的には望まれる美術館やギャラリーにおける展示との差異に対してきわめて意識的に設計され、その結果、個々における「日常」の違いだけではなく、そもそも一様ではありえないこの日常へと視線を投げかける場所として立ち上がっていたのではなかったか。新しい時代の「未知」をともなった「日常」=「New Nomal」の視座として。

*1──土祭ウェブサイトより
*2──土祭ウェブサイトより
*3──仲田智(八幡神社 長堤)、生井 亮司(八幡神社 山本)、KINTA(星宮神社)、古川潤(綱神社)、中﨑透(太平神社)、浅田恵美子(御霊神社)、ダグラス・ブラック(亀岡八幡宮)
*4──土祭ウェブサイトより
*5──土祭ウェブサイトより