建築家の字は100年前から丸かった
これまで多くの建築展が世界中で行われてきているが、本物そのものが移築され、展示室内に搬入されたことはほとんどない。建築や都市は不動産であるがゆえに、展覧会を行うときは必ず何かしらの代理表象でもってそれらを表さなければならない。では、私たちは建築展の何を見るのか、図面か、模型か、資料か。私たちが本当に見たいものは、それらの複合によって立ち現れるアトモスフィアなのではないだろうか。運動のうねり、技術の転換点、構造の緻密さ、ビルディングの美しさや機能によって変わる風景や暮らしなどを、私たちは展示室内で想像するよりほかない。しかし、それだけではあまりに専門的かつ抽象的であるため、説明する言葉というものも展覧会には用意されており、なるべく正しい建築のイメージを想像させるように、立ち現るアトモスフィアがいかなるものかを誘導してゆくために必要なのだ。さらに興味深いのは、「建築」の幅広さと展覧会というメディアの相性の良さだ。
ビルディングとしての建築だけではなく、実際に建てることを目的としないアンビルドの展覧会や、建築家が建築としてインスタレーションを作成するなどのユニークな展覧会が日本でも行われた。その先駆けであり、世界の美術館でもっとも早い段階で建築を展覧会で取り扱いはじめ、同時に収集を始めたのはニューヨーク近代美術館で、いまからおよそ90年前の1930年代のことだ。それより10年前の日本では、東京帝国大学で建築を学ぶ若者たちにより「分離派」という一派がつくられていた。複数人で一つのプロジェクトや作品を完成させていくコレクティブというよりも、「一人一様式」と言われるような個々人の集まり(Assemble)である彼らの分離派としての発表の機会は専ら展覧会であった。彼らが生み出そうとしたアトモスフィアとはなんなのか。
分離派のもっとも有名な作品が「我々は起つ」から始まるマニフェストであることは否定できないことだと思われるし、往々にしてマニフェストばかりが目立つ運動は多い。それほど私たちはマニフェストの言葉に魅惑されてきた。しかしながら、マニフェストは彼らの理念であるとともに、アジテーションの文章であるからきわめて政治的な領分であり、それに気づいていない無邪気な引用の仕方が随所で表れる。
そもそも分離派のマニフェスト自体、矛盾に満ちており、その矛盾にこそ一人一様式であるのに集合することの意味が示唆されているのにもかかわらず、「過去建築圏より分離し、」「新建築圏を創造せんがために」という部分ばかりが強調され、そのあとに続く「過去建築圏内に眠って居る總のものを目覚さんために、溺れつつある總のものを救はんがために。」といったフレーズとの衝突がどのような意味を含むのかの見解は、展覧会では窺い知ることはできない。
しかし一次資料だけでなく、多くの二次資料により成り立っているこの展覧会は、分離派の歴史を振り返るというよりも、総合芸術の受け皿になりやすい「展覧会」というメディアを通して新たなる「一派」の構築を試みていることに気づく。たしかに建築展は二次資料の出展が多く、本物であることに価値を置く美術館では珍しいことのように思われる。しかし同展は、萩原朔美らによるヴィデオ、上村洋一による音楽などのアーティストによる仕事も見ることができるし、展覧会に付随したコンテンツでは、「建築が芸術としてある道を模索した分離派建築会。いまの芸術家たちの目にどう写るか」というテーマのもとに中村裕太(美術家)、小田原のどか(彫刻家)、大室祐介(建築家)らによるネット記事が挙げられる予定だ。
ところで、なぜニューヨーク近代美術館は建築をコレクションに含めているのか。一つには、バウハウスに感銘を受けた初代館長アルフレッド・バーJr.の意向があるが、もうひとつには、ヨーロッパほど名作を持つことができなかったアメリカという国の歴史の新しさゆえに、ヨーロッパではコレクションが進んでいなかった建築に目が向いたと考えることもできる。野田俊彦「建築非芸術論」(1915)において、彼は建築が芸術かどうかを実用的か否かで判断しようとするが、残念ながら、実用的なデザインも含めてニューヨーク近代美術館はコレクションにしている。コレクションという美術館の政治に建築が絡められるとき、建築は芸術に登録されてしまう。「建築は芸術か?」、この問いは建築家が発するか、美術館が発するかで答えは大きく異なる。では、分離派が求めた芸術とは何を指すのか。それは表現することが自分たちの思想に直結するロマン主義の持つ自由さであることがこの展覧会の全体を通じて語られるものの、「建築は芸術か?」の答えは分離派と美術館では呼応せずにすれ違うのであった。