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2020.12.25

アート業界のジェンダーアンバランスに対する応答。檜山真有評「カナリアがさえずりを止めるとき」

男性優位構造のアート界に横行するジェンダーアンバランスや相次ぐハラスメント。この状況に対し、岩崎貴宏企画のもと16組のアーティストが展覧会というかたちで声を上げた。「カナリアがさえずりを止めるとき」と題された本展を、キュレーターの檜山真有がレビューする。

文=檜山真有

宮内彩帆 forbidden fruit 2020
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Owner of a lonely heart

 「カナリアがさえずりを止めるとき」は、広島市立大学芸術学部内で昨年度起こったハラスメント問題に呼応するかたちで、同学のデザイン工芸学科現代表現領域研究室が有するギャラリー兼研究室のCA+Tラボラトリーと、広島を拠点に活動し、同展の出展作家でもある久保寛子が中心となり運営するAlternative Space COREの2会場で、それぞれ「拘束される身体」「証言者」というサブタイトルの二部構成で行われた。

 企画代表は、広島在住で同学出身のアーティスト・岩崎貴宏であり、現在同学に在籍する学生を含めた同窓生が中心に参加したこの展覧会は、学内向けのシンポジウムやディスカッションも重ねられていたようで、何か問題が起きたときに展覧会や作品を通じて声を上げるというアーティストとしての姿勢と議論を交えたり、当事者の言葉に耳を傾けるかたちで知見を広げる大学の機能の双方を正しく導いていた。

 同学のエントランスで久保寛子の《ハイヌウェレの彫像》が出迎える。一人の女神・ハイヌウェレの頭部、胸部、脚の彫像が、3つの運送用パレットにそれぞれバラバラに載せられている。インドネシアの神話の女神と出産・育児を経験する自らを重ね合わせ、自らが命がけで行っていることから新たに生まれるものを模索する作品だ。

  CA+Tラボラトリーでは10人の展示が行われており、手法も媒体もおそらく年代もバラバラであろう10人のアーティストは、けれども、「わたし」というフレームを自らの手によってのみ拡張させようとする作品を展開し、権力や自意識などの不可視で不確かなものにより引き起こされるハラスメントのような構造的な問題に嵌らないように、自らの身体や自意識の所在を慎重にたしかめている繊細さをうかがわせる。

 例えば、岸かおるが2013年より展開する《spare-part》や小森宥羽《Portrait》(2020)の刺繍作品は、手縫いとミシンによりつくり方こそ違えど、人間の身体の微妙な差異とそれを判断する私たちの価値や社会的背景に「その尺度って本当にあなたの気持ちに沿うもの?」と投げかけると同時に、多様性を重視することは個の何によって判断されうることなのかをそれぞれの価値観で示す。

 より直接的に多様性のかたちを見せるのは、友枝望の《Polymorphism》(2020)である。友人らから譲り受けた彼らの髪の毛を一本ずつ結び、一つの長いスレッドにしてゆく。天井から床まで一直線に張り巡らせた幾本ものそれは、個々人の持つそれぞれの髪色で少しずつ色が異なる。タイトルである「Polymorphism」は多態性と訳され、化学の世界では、同質異像という同じ化学組成でありながらも異なる結晶となるものを指し、プログラミング言語では要素の中身を入れ替えても通じる構造を指す。「バラバラの方向へと転換する」という語源を持つdiversityと異なり、多くが変化するという語源を持つpolymorphismという言葉は、一本ずつ作家によって結ばれた髪の毛がどのようなメッセージを発しているかと強く結びつくはずだ。

 バラバラの方向へと移動されたのは、安村日菜子《untitled》(2020)で使われる同大学に自生するセイタカアワダチソウでもある。山の麓にある同大学の広大な敷地に自生した植物を広島市街地に位置する基町のオルタナティブスペースで一つひとつ小さな鉢植えに移し替える。一つひとつがバラバラの個性を持とうとも、まとまってしまえばすべてが同じ群れに見える。学校にいる学生みたいだ。これらの植物は作家が大切に水や栄養剤を与えてケアをしても、遮蔽された空間や、鉢植えの窮屈さで根腐れし、枯れてしまうだろう。親や教師が語るような未来やキャリア形成がまったく想像できない社会に生きる私たちの「大人」は分かってくれないだろう閉塞感がそこにあるのだ。

展示風景より、手前中央から岸かおる《spare-part》、奥が《His life》 撮影=古堅太郎
展示風景より、小森宥羽《Portrait》(2020) 撮影=古堅太郎
展示風景より、友枝望《Polymorphism》(2020) 撮影=古堅太郎
展示風景より、安村日菜子《untitled》(2020) 撮影=古堅太郎

 Alternative space coreでは、安村を含めて5人のアーティストが出展しており、オルタナティブスペース特有のレイジーな雰囲気と異なるストイックさが漂う。それは金山友美《食卓》(2020)の不気味かつ作家の個人的なことと関わるであろうアニメーションと、ミニマルな表現を展開する桺谷悠花《A kind of temporary death》(2020)、山下栞《visible or not》(2020)、小松原裕輔《ボイスメッセージ》(2020)といった作品群がいきなり接続するからだ。

 一様に彼らはハラスメントという構造を丁寧に分析するあまり、極度に高度なミニマルな形態として展開してゆく。山下のデカルコマニーの技法を用いた絵画と絵画の隙間からしか覗き込めない作品や、小松原のICレコーダーのみを展示台に設置し、スペース内の会話をすべて録音するもののそのすべてを聴かずに消去するという作品は、作品が置かれた瞬間から始まる時間の流れのなかに見え隠れする「他者」の存在を思い起こさせる。その「他者」に何ひとつ介入しないことを約束する作家の姿勢は、時間そのもののありかをむき出しにする。

 たしかに、このほかにもCA+Tラボラトリーでの隅田うらら《All eyes on me》(2020)のジェスモナイトと車の塗装に用いる塗料を材料とし、自らの身体をかたどった彫刻作品や、宮内彩帆の《天国の工場で生産されたストリッパーたち》(2019)、《forbidden fruit》(2020)の3Dプリンタでつくられたたくさんの女性のフィギュアとそれを載せる台座を含めた作品などは、それぞれ男性の視線とその視線を内在化させた女性の眼差しという二重の抑圧がをテーマにしているが、やはり形態的にも、材料の選び方を取っても、手仕事の跡を消そうとする手業においてもコンセプチュアルアートの影響を感じさせ、それは展示室内においても彼女らの作品は緊張感を漂わすのに効果的だった。

 美術教育の男性優位な歴史は、現代表現領域の研究室でもあるCA+Tラボラトリーでもうかがうことができ、壁一面に並ぶ数々のアーティストの画集や作品集や展覧会図録の背表紙は半分以上が男性の名前なのである。それと対峙する程釬の観客参加型の作品《the words between us》(2020)は、私たちの声により浮かび上がるメッセージはこれまで守られてきた存在であった彼らや、彼らを盲目的にあるいは事なかれ的に支持する人々を挑発する。

展示風景より、金山友美《食卓》(2020) 撮影=古堅太郎
展示風景より、桺谷悠花《A kind of temporary death》(2020) 撮影=古堅太郎
展示風景より、山下栞《visible or not》(2020) 撮影=古堅太郎
展示風景より、小松原裕輔《ボイスメッセージ》(2020) 撮影=古堅太郎

  コンセプチュアルアートというムーブメントはニューヨークでどのようにクレメント・グリーンバーグやマイケル・フリードら批評家へカウンターできるかという面で作品からも批評からも戦おうとするアーティストが多く、そのようなマッチョな応酬が支えたムーブメントのなかにいたルーシー・リパードは1980年代に自らの活動をこのように振り返る。

 また、私はアート・ワーカーズ・コアリション(AWC[*1])の活動の中でウィメン・アーティスツ・イン・レボリューション(WAR[*2])と出会い、初めてフェミニズムと向き合うこととなる。私は恥ずかしく感じ、自分は女でなく一人の人間だ、と宣言してフェミニズムと向き合うことに抵抗もした。自分自身の中にあった抑圧を認めたくなかったけれど、他の「弱者」のために立ち上がりたいと思った。(中略)初めて小説を書き、「個人的な政治」という言葉を女の人生の中で考えざるを得ないときに抵抗は払拭された。自分に欠けていたものを見つけ、私は、1970年の夏にフェミニズムに傾倒していった。(*3)

 一人の人間がどのように人と出会い、感情を揺さぶられることで、人生の角を曲がり、自分の道を決定づけてゆくのか、その転機のひとつにあらゆる運動がある。リパードにとってのAWCがそうだったように、展覧会だってそのような立派な運動になりうることを本展は証明しているはずだ。

*1──1969年にニューヨークで巻き起こった芸術に従事する労働者が美術館に対して、黒人や移民の芸術家の地位向上や反ベトナム戦争を要求した運動。多くのコンセプチュアルアートのムーブメントにいた作家たちが参加していた。
*2── 1969年のホイットニー美術館での展覧会(のちのホイットニー・ビエンナーレ)の女性の少なさ(143人中8人)に異議を唱え、男性優位のAWCから脱退するかたちで結成された。女性アーティストの地位向上のために運動した。
*3──In the AWC I was also first confronted with feminism, via Women Artists In Revolution (WAR). I was embarrassed by it and resisted it, declaring I was a person. not a woman. I was unwilling to admit my own oppression, willing as I was to stand up for other "underdogs." Looking back, I wonder why I heard about the Women's Movement so late and how I managed to keep my head under the sand for so long. Resistance was dispelled when I wrote my first novel and was forced to examine a woman's life in terms of personal politics. I found my own lacking, and fell into the arms of feminism in the summer of 1970.(Lucy Lippard, “Get the message? : a decade of art for social change”[1984], 筆者による拙訳)​

隅田うらら All eyes on me 2020 撮影=古堅太郎
展示風景より、宮内彩帆《天国の工場で生産されたストリッパーたち》(2019) 撮影=古堅太郎
展示風景より、程釺《the words between us》(2020) 撮影=古堅太郎