Rose tint my world
靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、部屋の中に足を踏み入れる。カップヌードルや観葉植物、文庫本が乱雑に周囲に置かれたマットレスが目に入る。およそ彼はその周辺で生活が事足るように周到にそれらを配置しているのだろう。その「周到」とは、意図的に一回きりの知識として披露したものではなく、長年の経験によって裏付けられた自らの身体に馴染みよいように、自然と手がそこへ並べてしまうようなものである。
武田雄介「眺望力」で私たちが観るものは、考察が新たな考察を産むような分裂的な性質を持つものの、ただの妄想や物語には至らないようなインスタレーション・アートである。
まず、そこで起こっている状況をざっくりと説明する。L字型の部屋、入って右手に透明樹脂でつくられた山のかたちのようなオブジェ、壁面には作者が窓に息を吹きかけ掃除をするループの映像、部屋の角に大量のマーガリン。その奥には冒頭で述べたような、寝そべり手を伸ばすだけでなんとか生活が行えるようなマットレスと生活雑貨。壁にはドローイングがかけられている。マットレスの上には、およそ成人男性ぐらいあるであろう人形がいる。L字型の部屋を曲がると人工芝が敷かれており、亀の映像と子どもとそれよりやや大きいくらいのサイズの人形がいる。壁にはまたドローイングがかけられている。
上に記した何倍も物量があり、部屋に対しての物量が多いために乱雑とすら思えるし、個々のオブジェクトはファウンドオブジェクトやレディメイドと呼ぶこともできる既製品である。しかしながら本展は、このようなものの配置から生まれるアトモスフィアを特質としてきたインスタレーション・アートの形式を素朴に守り抜く。さらに、私たちのあらゆる考察を無意味に化すような不思議なアトモスフィアを用意するが、そのすべての考察を拒否しているわけではなさそうだ。
インスタレーション・アートの形式をクレア・ビショップは、『Installation Art』(2005)のなかで「演劇的」「没入的」「実験的」という言葉で端的に特徴を挙げようとした。以上の3つの言葉は、鑑賞者に空間そのものへの意識を向けさせるための効果の表れとして語られる。
いっぽうでレフ・マノヴィッチは、Instagramのなかに写る身体をこのように述べる。「現代のインスタグラマーは、ゲームの世界を操作するプレイヤーのように、この経験、瞬間、状況に没入する」(*1)。
有限の空間を仮説的なものとしてインストールし、身体を没入させる鑑賞体験をつくるインスタレーション・アートと、ある状況や経験をフレーミングし、そのなかに自らの身体を配置するインスタグラマーは構造が似ている。しかしながら、インスタグラマーは作者がその場所にいないインスタレーション・アートをハッキングして投稿することができ、むしろ、それがInstagramにとって都合がいいため、ちぐはぐなまま不気味な関係性を結んでしまっている。
このような鑑賞状況とInstagramの影響力においてインスタレーション・アートはますますひとつの方向性へと収斂していく。コンテクストや物語のフレーミングが強調され、読み解かれてゆくような方向性だ。自らがすべてを把握している物語を、物の配置により隠したりぼやかしたりしていく方向性だとも言える。このようにすれば、どのように鑑賞者がリフレーミングしても、そこにおよばぬ場所に物語はあり続けることができる。
このような潮流と武田の手つきは真逆で、コンテクストや物語が読み解かれる前提を手放そうとするが、世界をつくりあげているフレーム自体は手放さない。例えるならば、ある言語を話していることは分かるが、何の言語を話しているかの意味はまったくわからないような状況である。彼の作品のアトモスフィアから発する意味については私たちにも読み取れないものであるし、「周到に」配置されているため配置した本人でさえそのオブジェクトにコンテクストを用意しておらず、読み取れない偶然の産物もあるだろう。それとなく物を置くようなことさえもアートピースとして成立してしまうのは、アーティストがまさしく自分を切り売りして生まれる凄みと説得力のゆえである。どうしてそのようなものにハッキングできようか。名前がないものを指し示すことができるのは群衆の役目ではなく、たった一人によってのみ可能なものである。こういった彼らのパラノイアこそがこれまでこの世界になかったものを産み出すし、私たち群衆もわがままながらに、結局流行りのデジャヴに乗りたいわけではなく、本当に新しいものを見たいのだ。
*1 ──『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』(久保田晃弘・きりとりめでる[共訳・編著]、ビー・エヌ・エヌ新社、2018)、143頁