日本で最初の建築運動とされる「分離派建築会」。その結成から100年の節目を記念し、再検証する展覧会「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」がパナソニック汐留美術館で始まった。会期は12月15日まで。
分離派建築会とは、1920(大正9)年に東京帝国大学(現・東京大学)建築学科の卒業をひかえた同期の6名、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守によって結成されたもの。
明治以降に日本に移入された西洋の様式建築の学習は明治末期にほぼ達成され、最新の建設技術にふさわしい新しい建築のあり方が模索されていた当時、分離派建築会は建築の芸術性を主張した。本展は、この分離派建築会の足跡を時系列にたどるもので、会場は「迷える日本の建築様式」「大正9年『我々は起つ』」「彫刻へ向かう『手』」「田園へ向かう『足』」「構造と意匠のはざまで」「都市から家具 社会を貫く『構成』」「散会、それぞれのモダニズム建築」の7章で構成されている。
分離派建築会は、結成同年の1920年に学内の第二学生控所で習作展を、続いて東京の白木屋デパートで第一回作品展を開催。さらに大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加わり、1928年の第七回まで作品展を重ね、出版活動を展開していった。また1922年には東京・上野公園を会場に開催された平和記念東京博覧会での展示館を設計。次第に住宅、公共的建築、商業建築などの実作を通し、建築の芸術を世に問いかけた。会場に並ぶのは、数多くの図面をはじめ、模型や美術作品だ。
調査・研究に8年もの時間を費やしたという本展。担当したパナソニック汐留美術館学芸員・大村理恵子は「アクチュアルな展覧会だ」と語る。「当時、彼らは明治時代に西洋の様式建築=レンガ造りの建築が成熟し、新しい日本の建築様式はどうあるべきかが模索されていたなかで立ち上がった。こうした動きはいまの建築の世界にも通じるし、建築がどうあるべきかという根本的なテーマを掲げた人たちだと言える」。
分離派建築会は、「派」と称しつつも「一人一様式」を建前としていた。そのため分離派建築会としてのまとまった活動は作品展の開催が中心であり、建築設計などはそれぞれが「個」として活躍していく。本展では、1928年に最後となる第7回作品展までの分離派建築会の歴史を壁面で通覧できるいっぽう、個々の作例も同時に把握できる。この「派」と「個」の対比も本展の大きな特徴だ。
また分離派建築会を語るうえで欠かせないのが、本展タイトルにもある「建築は芸術か?」という問い。大村は「彼らは新しい時代の建築技術にマッチした、新しい建築の美学を追求した人たち」だと話す。「しかし分離派建築会の建築家たちの作品が機能や構造と乖離しているわけではなく、とくに活動後半では関東大震災もあったことで、鉄筋コンクリートならではの新しい芸術性を考える必要性に迫られていった」。
この新しい芸術性が、現在の日本の建築にまで影響を及ぼしていると大村は指摘する。
「モダニズム建築はヨーロッパから発信され、世界に広がるなかで、その土地ごとに独自の発展を見せた。分離派建築会は日本の独自のモダニズム建築形成に一役買っているという点が重要。彼らが行った鉄筋コンクリートならではの自由な設計は、現代の建築家たちにも影響していると考えられる」。
明治時代の様式建築と1930年代以降のモダニズム建築をつなぐミッシング・リンクである分離派建築会。その活動を振り返ることで、現在の建築を考える機会にもなるだろう。