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2020.10.26

ヒロシマが掲げた平和を探り直す。 檜山真有評「夏の所蔵作品展 サマーミュージアム 戦後75周年特集」「日常の光−写し出された広島」

現在、広島は「ヒロシマ」が掲げた平和を探り直すように街全体が生まれ変わろうとしている。広島県立美術館では、「夏の所蔵作品展 サマーミュージアム 戦後75周年特集」と「日常の光−写し出された広島」を同時開催。前者では1945年8月6日をめぐる表象を紹介し、後者では戦後から現代へ移り変わるなかでの同県出身の写真家たちの視線をたどった。両展を、キュレーターの檜山真有がレビューする。

文=檜山真有

「夏の所蔵作品展 サマーミュージアム 戦後75周年特集」より、芥川永の展示室
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This heat

 通勤風景。昼下がりの公園。買い物に行く主婦。遊ぶ子供たち。たんなる生活スケッチが連続的に映し出され、プツンとホワイトアウトで映画が終わる。そのオチの唐突さ、ストーリーに伏線もなければ、説得力もない。これに対して監督の男・佐久間はこのように熱弁を振るう。

あんた達だってしってるはずだ。世界を何度も焼き尽くすに充分な核ミサイル網が、今、この瞬間に発射可能な状態で世界中に配置されているのを!!

「ある日」は「唐突に」やってくる。「伏線」など張るひまもなく、「説得力」のある破壊なんてあるものか。「ある日」がいつくるか……今日にも……

 監督・佐久間の映画と同様に、次のコマで「プツン…」という文字とともにホワイトアウトしてマンガは終わる。藤子・F・不二雄の短編マンガ『ある日…』(1982)に想定されるラストシーンのホワイトアウトは、核ミサイルの炸裂の瞬間であろう。

 ピカッと周りが白く光り、そのあとにドンという衝撃がやってきたから、広島での原子爆弾は当初市民の間で「ピカドン」と呼ばれていた。マンガ『ある日…』で描かれなかったドンの衝撃は、その後多くのアーティストが表現し、8月6日をめぐる表象として残されている。

 「夏の所蔵作品展 サマーミュージアム 戦後75周年特集」は、「原爆投下後の広島では戦後75年(70年)は草木も生えない」という言葉をひとつの標として発展してきた広島の街が、その言葉から解放される2020年に、改めてあの日が遺したものとは何かを問い直した。​

​ 平和記念公園の原爆モニュメントとして設置されている芥川永(1915〜98)の《教師と子どもの碑(石膏原型)》(1970)が出迎える本展は、第1室では退廃芸術展の記録映像とその作家たちの作品を展示。続く第2室では、小林千古(1870〜1911)や南薫造(1883〜1950)の作品をはじめ、広島の平和だった時代を代表する洋画から、徐々に戦争に突入する暗い時代の作品を見る。戦後の作品群でもやはり、名井萬亀(1896〜1976)《地獄の港》(1958)、入野忠芳(1939〜2013)《浮遊》(1970)のように原子爆弾の名を指さず、原子爆弾を描く作品が並ぶ。この部屋で太平洋戦争を知らずに亡くなっているのは小林千古のみだ。 ​

​ 第3室は、広島出身の日本画家・平山郁夫(1930〜2009)の小特集である。中学3年生時に広島市内で被爆し、原子爆弾による後遺症として28歳頃から白血球の数が激減し始めたとき、平山は自らの死生観に向き合い仏教という画題を見出し、それがシルクロードシリーズにもつながっている。平山が唯一原爆を描いた図《広島生変図》は1979年に描かれた。数十年以上、広島市内に足を踏み入れることを避けていた平山が、燃え盛る広島の街と不動明王というシンプルな要素で8月6日を描こうとしたことは、芸術家としての人生がこの出来事によって決定づけられており、逃れることができなかったことの証左である。

 本展を開催した広島県立美術館は、日本の美術館でも有数の工芸コレクションを持つ。第4室では、工芸のなかでも民藝にフォーカスを当てる。だが、広島県立美術館の目玉は、あまりにも有名になりすぎた民藝運動の先導者たちの作品よりも、17世紀後半頃に制作されたという作者不詳の伊万里柿右衛門様式色絵馬である。現在、同作は世界で5体しか確認されておらず(そのうち2体が広島県立美術館にある!)、オランダ東インド会社と伊万里焼の陶工を直接結びつける作品の発注・流通のあり方は、民藝運動に近しいともいえようか。

 例えば、東京工業高等学校出身の河井寛次郎(1890〜1966)や濱田庄司(1894〜1978)、東京美術学校出身の富本憲吉(1886〜1963)、イギリス人であるバーナード・リーチ(1887〜1979)らによる地方で育まれてきた技術・工芸の再発見は、それまでの師弟制とは異なる外部からの眼差しが運動をドライブさせる。式場隆三郎(1898〜1965、[*1])や大原孫三郎(1880〜1943)などの支援・協力を受けて大成した民藝運動を貫く運動理念は、農村/地方の職人たちの指導者たれという、とまごうことなきエリーティシズムであり、理想主義だった。

 反対に、48年に結成された走泥社は伝統的な陶芸のあり方を一蹴しようとした。同館で同時開催である「前衛陶芸集団「走泥社」の時代」では、工芸を美術と分かつひとつの要因ともされる「用の美」を否定し、オブジェ焼を展開する走泥社の作品が展示されている。もの派やミニマル・アートと時代の精神を共有する緊張感のある造形でありながらも、焼き物特有の質感が表れる。そこにあるのは芸術の自律性と前衛の精神である。作品は作品以外の何物でもない、というトートロジーのもとに唱えられる強引な芸術の自律性は、「これは芸術である」というメッセージ以外を排除する。また、前衛がその時代のアトモスフィアを含めて一人では成立しないのは、その集団の中で自治をつくることこそが前衛の目的だからだ。彼らは大きな時代の流れには乗りつつも、歴史や政治を拒否しようとする。その態度として芸術の自律性はあるのだ。

 しかしながら、広島の戦後美術の位相はやや異なる。ジョルジュ・バタイユ(1897〜1962)の『ヒロシマの人々の物語』(1947)では、被爆してもなお生きながらえた人が自分たちの不幸を効果的に、正しく表現することができなくなったことを指摘し、このように述べる。

 こうした不幸が再来することを我々は恐れているが、その不幸を知的に表現すると、そこには、感性的な表現がもたらす情緒的な要素が欠けてしまうのであり、この要素がないと思慮は効果のないものになってしまう(必要不可欠な生き生きした反応が後に続かなくなる)。(*2)

 この言葉は、被爆したすべての表現者が抱えていたであろう自分がつくり出すものが周りや自分さえも傷つけてしまう可能性、しかしながら、未曾有の出来事を記さなければならないという表現者の使命と欲望の葛藤を言い得たものである。

「日常の光−写し出された広島」より、松重美人の展示風景
「日常の光−写し出された広島」より、藤岡亜弥の展示風景

 新型コロナウイルスの影響により、開催延期となった「藤子不二雄Ⓐ展 -Ⓐの変コレクション-」の代わりに急遽開催された「日常の光−写し出された広島」は、原子爆弾が投下された1945年8月6日の街の様子をとらえた松重美人(1913〜2005)の5枚の写真から始まる。写真を通じ、現在に至るまでの広島の復興と都市としての発展見せる展覧会だ。戦争を経験した4人の写真家と、70年代に生まれた2人の写真家が伝える写真はいずれも平和に見える。とくに、松重の8月6日の写真などは伝え聞く原子爆弾の威力を感じさせないし、明田弘司(1922〜2015)の戦後の写真は平和で暖かな質感すら感じるし、それは作者自身の狙っている効果でもあろう。しかし、それも被曝時に広島にいなかったために伝えることのできなかったあらゆる風景と、筆舌尽くしがたいたくさんの感情の先にようやく表現できたものである。

 未曾有の出来事が纏う空気感まで忘れてしまわないように「ヒロシマ」という言葉は「広島」とは区別して使われてきた。ヒロシマと広島の間にある揺らぎは、現代まで続くことを藤岡亜弥(1972〜)と笹岡啓子(1978〜)の写真が示す。藤岡は、原爆ドームを観光する外国人の子供の視線とその周辺で生活する人々を写した写真集『川はゆく』(2017)をもとに作品を出展。ヒロシマと広島を背負い続ける生活者と、ヒロシマにやってくる観光客の眼差しをとらえる。笹岡は写真集『PARK CITY』(2009)をもとに出品しており、広島平和記念資料館に掲示されている松重の写真を眺める観光客を写した写真と、慰霊祭での川流しや原爆ドームをネガポジ反転したような作品は、まるで原子爆弾が炸裂した瞬間を確かめるかのようである。このなぞり返す彼女の態度は、ヒロシマを知らないのに広島でヒロシマを生きる意味の考察でもある。

 同展が重要だったのは、8月6日の表象がヒロシマをつくり、さらに広島へとそれらの言葉をなじませていく奮闘を見るからである。そこに浮かび上がる広島の街の特殊さとは、時代の反動として切り替わるべきであった理想主義とモダニズムがひとつのイデオロギーのもとに共存していた期間がきわめて長かったことである。ただとにかく平和でありたいという理想主義と、それに固執したまま8月6日を中心とした時代観をモダニスティックに持っていたのは、広島平和記念公園や焼け残りであった産業奨励館、原爆ドームと呼ぶモニュメントを中心に据えた都市計画による影響が大きい。

 戦後75年経ったいまでは、原爆ドームを見下ろす観光施設「おりづるタワー」ができ、野球チームの広島東洋カープは拠点を中区から南区のMAZDA Zoom-Zoomスタジオ広島に移した。そして現在、JR広島駅は再開発を進めており、モニュメントを観光するだけではもはや伝えきることができない「『ヒロシマ』とは何だったのか」というコンテクストを説明してゆくように街が生まれ変わろうとしている。それはもちろん、広島が75年という長い時間を賭した復興・平和のひとつの成果である。ただヒロシマが掲げた「平和」とは、街の再開発で事足るようなものではなく、戦争を起こすよりも複雑で難解なものである。平和という状態が達成されるのが先か、平和が何を指し示すかが説明できるようになるのが先か。そのときまでミュージアムは答えを保留する場所なのだ。少なくとも、広島のミュージアムはその答えをあの日からずっと待っている。​

「日常の光−写し出された広島」より、笹岡啓子の展示風景
「日常の光−写し出された広島」より、髙田静雄《仲良し》(1938年頃)

*1ーー奇しくも広島市現代美術館では式場隆三郎の展覧会が行われており(現在は終了)、彼もまた山下清や草間彌生をいち早く見出した人物である。いわゆるアウトサイダーアートと民藝は近しい構造にあるかもしれない。
*2ーージョルジュ・バタイユ『ヒロシマの人々の物語』(酒井健訳、景文館書店、2015)