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2019.11.2

自然災害が人々に語らせてきたこと。中村史子評「治水・震災・伊勢湾台風」展

度重なる地震や台風など、つねに自然災害の脅威にさらされる日本。1959年に発生し、紀伊半島から東海地方を中心に全国的な甚大な被害をもたらした伊勢湾台風から60年の節目を迎える今年、名古屋市博物館で「治水・震災・伊勢湾台風」展が開催中だ。「開発と環境」「被災者支援の担い手」というふたつの要素を軸に、歴史災害と災害に関わる社会の動きにせまる本展を、愛知県美術館学芸員の中村史子がレビューする。

文=中村史子

明治廿四年十月廿八日大地震図 明治24(1891) 梅堂小国政画 名古屋市博物館蔵
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災害の後の物と物語

 今年10月上旬に日本列島を襲った台風19号。すでに台風が日本列島を去ってから2週間以上が経過したいまなお、その記録的な豪雨と暴風、河川の氾濫や決壊がもたらした傷跡は各地に生々しく残っている。

 そのなか、名古屋市博物館で「治水・震災・伊勢湾台風」展が開催中だ(〜11月4日)。今年は伊勢湾台風から60年の節目ということで、本展は、江戸から昭和に至る東海地域の自然災害の歴史を振り返る。

会場風景

 歴史資料が粛々と並び、必ずしも派手とは言い難い展示である。しかしながら本展は、江戸時代の河川の氾濫や治水事業、幕末にあたる安政元年(1854)の安政東海地震、近代化が進んだ1891年の濃尾震災、そして高度経済成長期である1959年の伊勢湾台風をメイントピックとして取り上げ、自然災害が各時代や地域といかに密接に関わっているかを浮かび上がらせる。自然災害は人間の思惑とは関係なく発生するが、同時に人間社会のあり様をも克明に映し出すことが、緻密な調査の結果、明らかになっている。

張州雑志(赤津風景) 江戸時代中期 内藤東甫画 名古屋市蓬左文庫蔵

 例えば、土砂災害や土砂の流出、洪水が人々を襲った江戸時代。焼き物の産地、現在の瀬戸市を描いた当時の地誌を注意深く眺めると、登り窯の周りに木々は生えておらず山肌が露出している。登り窯の薪に使うために木々を切ったようだ。このように、当時の社会生活を支える主な燃料は木であったがゆえ、現代を生きる私から見れば過剰な伐採が行われたことをこれらの資料は証明する。そして、それら伐採こそが土砂災害などを招く要因となったのだ。

 また、展示物のひとつに《サヨリ》がある。これは、1959年、伊勢湾台風の水がひいた後に屋根の ひさしに引っかかっていた海水魚のサヨリだ。家の屋根まで海水が押し寄せた事実を後世に残すべく、このサヨリは現在、樹脂で固められ庇ごと保存されて、市内の小学校に設置されているらしい。なお、『震美術論』(美術出版社、2017)の中で椹木野衣は、伊勢湾台風を経験した後、ラディカルな前衛表現へと舵をきった赤瀬川原平について次のように記している。「大風で身ごと吹き飛ばされ、大木でものが流れて配置が変わり、『いきなり日常的じゃない変な具体物がある』ようになるのが台風という事態」(*1)であり、それゆえ赤瀬川は伊勢湾台風後、「目の前に端的にある『もの』そのものの不条理へ向かっていくようになった」(*2)。60年間、庇に引っかかったままの《サヨリ》を前にすると、椹木の言葉もまた説得力を持って響く。

サヨリ 名古屋市立白水小学校蔵

 さて、東海地域の災害史を丹念に掘り起こす本展をめぐるなかで、強く印象に残る点がいくつかあった。

 ひとつ目は、災害とメディアの関係である。江戸時代の災害は、主に書物や絵図などの文書で記録されているが、明治時代に入ると写真家による写真や洋画家による写生といった新たなメディアが登場する。そして、昭和の伊勢湾台風に関しては、ラジオや雑誌、無数のアマチュアによる写真に加え、被災した児童による記録画や児童・教職員による作文集も残されている。災害の当事者による記録、記憶が増大しているのだ(*3)。

 これらのなかでも私が注目したのは、明治期の新旧のメディアの特性を生かした記録づくりである。濃尾震災に際し、つくり手の創作が可能な錦絵では、いままさに崩れ落ちる煉瓦造りの煙突や、燃えさかる炎、逃げまどう人々の様子が、ドラマチックに描かれている。いっぽう、写真家はあくまで被災後に撮影を行うため、事後の風景といった感が強い。技術的な限界もあったのだろう、あまり動的なイメージは残されておらず、人が写っていても(たとえなんらかの活動中であったとしても)視覚的には停止しているように見える。無論、劇的瞬間をできるかぎり盛り込んだ錦絵と比較すると、客観的記録としてはこれら写真がはるかに機能した点は疑うべくもないが。

 そして、極めて興味深いのは、東海地域の洋画界を牽引した洋画家、野崎兼清(華年)が、まさに錦絵と写真の混成物と言うべき被災地の水彩写生画を残していることだ。素早く正確に実景を写そうという意識ゆえか、彼の写生画は、カメラによって切り取られた写真の構図と相似している。しかしながら、写真と異なり、救助に励む人々など動作の最中の人物がさりげなく描かれている。写真と同様の客観的な記録性を担保しつつ、錦絵とも通じる動きのある人物を加えているのである。こうした彼の被災地の写生画は、江戸から引き継がれた錦絵と、振興メディアである写真の影響を受けつつ、芸術である前にジャーナリズムの次元で求められた黎明期の洋画のあり方をまさに体現しているのではないだろうか。

明治廿四年十月廿八日大地震図 明治24(1891) 梅堂小国政画 名古屋市博物館蔵
濃尾震災写真帖(名古屋郵便電信局破壊) 明治24(1891) 宮下欽編 名古屋市博物館蔵
濃尾震災図(秋琴楼) 明治24(1891) 野崎華年筆 名古屋市博物館蔵

 ふたつ目に私が強く感銘を受けた点は、災害にまつわる物語に対する本展の冷静な眼差しである。例えば、木曽三川を治水した人々の感動的な悲話。私を含め東海地域で育った者の多くが、木曽三川の氾濫を防ぐべく薩摩藩の藩士が多大な自己犠牲を払って治水工事を行ったという逸話を学校等で耳にしたのではないか。けれども本展では、当時の歴史資料を綿密に読み解くなかで、物語の核をなす自己犠牲の根拠がまったく不確かであることをつきとめ、この逸話について「歴史性を欠落させた顕彰譚」(*4)と評する。そして、この物語が明治期以降に創出され、戦前には「滅私奉公などの道徳性を発信するイデオロギー装置」(*5)であったと明らかにするのである。

 自然災害は、多くの人々の暮らしを破壊し、その地域の環境および歴史や文化をも時に根こそぎ変えてしまう。だからこそ、それを経験した人々、その後に残された人々は、それぞれの立場から複数の物語を生み出し、語り継ぐ(*6)。

 しかしながら、なかには、物語の受け手が知らないうちに、一種のイデオロギー装置としてつくり出された逸話も紛れているかもしれない。災害の後に生み出される「美しい物語」の危うさは、多くの自然災害に見舞われ、その状況を統合する心地よい語りが求められがちないま現在、強く意識してもしすぎることはないだろう。

会場風景

*1──『震美術論』、美術出版社、2017、 pp.178
*2──同著、pp.178
*3──なお、本展では言及されていないが、愛知県生まれの写真家、東松照明もまた、伊勢湾台風の被災地を撮影し、そこから代表作「水害と日本人」シリーズを生み出すに至る。それは報道性、記録性にとどまらない高い詩情性も備え、厄災後の生という東松自身のライフワークへとつながるのである。
*4──秋山晶則「木曽三川分流への道」『特別展 治水・震災・伊勢湾台風』、名古屋市博物館、2019、pp.23
*5──秋山晶則「御囲堤論・薩摩義士論」『特別展 治水・震災・伊勢湾台風』、pp.25
*6──実際、本展で提示された物語は、いまなお、その外部へ、新たな世代へと新たに息を吹き込まれ継承されている。それがよく実感できるのが、伊勢湾台風後に開設されたヤジエセツルメント保育所の書籍『レンガの子ども』(ひとなる書房、2009)である。本書に収められた保育の活動史は、現在、アッセンブリッジ・ナゴヤにて展示されている碓井ゆいの共同保育所運動をめぐるプロジェクト(https://bijutsutecho.com/magazine/series/s21/20073を参照)へとつながっている。