あの日から7年間の記録
『あわいゆくころ』を開く。映像作家の小森はるかとのユニットでも知られる画家・作家の瀬尾夏美の単著だ。瀬尾は2012年から15年まで岩手に住まいを移し、以来東北に住んでいる。彼女の11年から18年までのツイートを編集・再構成したもの(歩行録)と、書き下ろしの文章、絵と写真でこの本はできている。12年頃までの歩行録は感傷的に過ぎ、単調だなと思う。それが13年頃から瀬尾が出会う人々の声と瀬尾の声がない交ぜになって、どの声がだれの声かわからなくなってくる。心地よい。真剣に何かと相対するとき、自他の区別など融解してしまう。そうしてこの本の声はより磨かれた声になっていく。「表現の技術を持たない人たちの/表現の切実さと丁寧さに、いつも驚」き、「詩や歌がとても必要なのではないか」と考え抜いてきた瀬尾を場として生まれた柔らかい声だ。
すると、この本が一種のビルドゥングスロマン(成長の物語)であることに気づく。タイトルの『あわいゆくころ』を『あわい「を」ゆくころ』と読んだとき、「ゆく」のは陸前高田という土地であり、そこで暮らす人々であり、瀬尾だ。陸前高田が破壊と復興の「あわい」をゆくとして、瀬尾はそれ以外になんの「あわい」を「ゆく」のだろう。「大学という狭い世界」から「自分の外に、絶対的に描かれるべきもの」へ。それは瀬尾と瀬尾が出会ったものたちの足元から世界が立ち上がるということだろう。生まれるということ。だとしたらそれ以上のビルドゥングス(自己形成)はないはずだ。翻って、それ以前に瀬尾にあった声を「感傷的」「単調」と断じた自分を疑う。そうした声にも、そうした声のナマっぽさにこそ現わせられるものがあったのではないか。「あわいをゆく」のは陸前高田やそこにいた人だけでなく、ページをゆく私=読者も同様である。本というフォーマットにおいては、作家の完成された声にばかり耳を澄ますことが多い。「あわい」について語るのではなく、変化していく声をなるべくそのまま載せることで「あわい」を提示した本書はまれな記録であり、作品だ。
書評にしては少し異質な言葉と距離感でつくられたこの文章が「何かを象徴しないように弱い言葉で話す」瀬尾に触発されてのことだということを打ち明けて、終えよう。もし少しでも、強くない言葉で書評することに成功していたとしたら、それはこの本のおかげだ。
(『美術手帖』2019年6月号「BOOK」より)