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REVIEW - 2019.6.22

関川航平が自身のスタジオを舞台として展示を企画。「以外」が示唆するものとは何か。大岩雄典評「5月」展

「以外スタジオ」を舞台として展開されたグループ展「5月」は、多数のイベント開催や日々公式サイト上で「日報」が更新されるなど、変化に富む展示だった。企画したのは、これまで会期中に風邪をひいてなおすまでを見せるパフォーマンスや、「AではなくBでもありえた」と題した展示を行ってきたアーティスト関川航平。本展についてアーティストの大岩雄典が、関川の作品の「文法」に則りながら、レビューする。

大岩雄典=文

「5月」展示風景 撮影(すべて)=筆者

 

その毎日の「日報」の、

 その毎日の「日報」(*1)のどの日の文章でも、展覧会場となった「以外スタジオ」の家主である関川航平が連載している短編小説「目の泳ぎ」(*2)と同様に、「私」という一文字が周到に避けられていることを思えば、ましてやその文体が慎重に距離を置く〈まとまりある認識の発生〉という主題を考慮すれば、「5月」という展示を真摯に批評するときに、1行目から安易に「私」と書きつけるようなあまりに牧歌的な振る舞いをできるはずもなく、だが同時に、批評が当の展示の言葉づかいに迎合することもあまりに破廉恥なのだから、さておきいまだ日本語文法の正しさに則るこの文が、爾後どのような次第で、風邪をひいて、なおすのか――を貴方が辛抱強く〈看る〉ことで、展示を〈観る〉という営みをいかに記述しようとするのか、という問いがおきることこそ、この2000文字という経済的な短さに「5月」の無辺さを押し込めるときに使命感をもって構想するべきであるのは、上述した関川「目の泳ぎ」の文体が、ひとつの認識の有機性に目眩を起こすために、文法を逸脱する工夫をつくづくこなしていることの重大さに起因するのであって、 例えば「目の泳ぎ vol.1」冒頭の1文、「ここは天井の高い、スーパーマーケットのレジ横を通り抜けて奥に進むと、トイレと喫煙所の手前にイートインコーナーが設けられている、薬局と併設しているので連絡通路でもあって、スーパーから薬局に通り抜けようとするときの右側はガラス窓になっていて駐車場が見える」――を引くだけで、その連打される工夫の効果は明白であり、一々列挙してみれば、「は」という助詞を伴う話題主語をまず「ここ」が簒奪したり、複文のさなかに読点を投入することで修飾の位相構造を撹乱したり、「ある」「いる」という即物的な状態動詞を多用することで「私」を拒みながらも、はてに「見える」という動詞をもって視点だけを導入したり――と、それ以外にも種々見受けられる工夫が徹底して文の有機性を宙吊りにしており、なおかつそのような文が、単語や文節の単位では、スーパーマーケットという空間やそこを突き進む身体にまつわるミメーシスを残してもいるという不穏さは、はたして、〈語り〉が自身の持つ抽象的な形式につねに首根っこをつかまれていながらも、結局その具体的に描かれる情景が足に絡みついて離れてくれない、という〈したたかさ〉の兆しであって、そうした性質を反映するかのように、はたして、この「5月」という展覧会の告知が覗かせる外連味はつまり、「と、それ以外」という冗句が排中律をふいにしているという、〈見出されるもの〉の〈したたかさ〉であり、無粋にも布衍すれば、会場が「以外スタジオ と、それ以外」であること、参加作家が「石田大祐 遠藤薫 小野峰靖 金川晋吾 斎藤玲児 関優花 関川航平 寺本愛 堀内悠希 三島慎矢 三輪恭子 山田大揮 と、それ以外」であることは、もちろん〈Aとそれ以外〉が論理的に〈全体〉と同値である趣旨ではないし、ましてや内外の曖昧さへと〈観ること〉を揚棄しようとする他愛ないレトリック――「その他」――でもなく、むしろ、「と、それ以外」が「それ」という指呼詞に立脚していることによって、「私」は「それ以外」を見初めようとして「それ」という背景を見るしかない存在だ、そしてその挫折にさしずめ閉じ込められているのが〈展示の鑑賞者〉だ――という挫折をうそぶく外連味であって、はたして、2階や台所に掛けられた、裸の男女が互いを撮影している写真の対応関係を掌握しようとしては「足りないような気がするあともう1枚」を発見できなかったり、木板の削られたパターンをルウィットよろしくひとつの規則に還元することに頓挫したり、1階の工房に置かれたモニターに映し出された空に飽きて周りの薄汚れた鏡や壁の落書きを観ながら「これは(空[すなわち空虚]の映像よりも)展示物なのだろうか」と突き合わせてしまったり、柱にあるシールの由緒の所在自体に気をやってしまったり、窓外に置かれた中身を見れないアルバムが「さらぴんである」可能性を思いもさせられなかったり――こう「たり」を繰り返す対象を捜し続けてしまったりする「私」の諦め悪さが、連日開かれているイベントにすべて参加した者など到底いないことこそ鑑賞者なるものの条件であると示しているからこそ、やはり私は、「と、」という並立助詞が、まさに日記なるもののしどけなさ、インスタレーションという〈物を並べて見せる〉形式それ自体の謂い以上でも以下でもないという抽象的な精密さについて指摘しておかねばならず、はたして、一文にひとりだけ過ぎゆくつかのまの私がこの批評から終わりを盗むために引く言葉は「五月が来るであろうことは単に蓋然性しかもっていない。来ないことも可能である。来るか来ないかは一種の賭事にほかならない」(*3)。

*1——「5月」公式サイトの「日報」より。
*2——「目の泳ぎ」ウェブサイト「hinagata」にて連載中。
*3——九鬼周造「青海波」『九鬼周造随筆集』菅野昭正編、岩波書店、pp.64-65

以下すべて「5月」展示風景 撮影=筆者