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2019.5.10

第16回芸術評論募集
【佳作】大岩雄典「別の筆触としてのソフトウェア——絵画のうえで癒着/剥離する複数の意味論」

『美術手帖』創刊70周年を記念して開催された「第16回芸術評論募集」。椹木野衣、清水穣、星野太の三氏による選考の結果、次席にウールズィー・ジェレミー、北澤周也、佳作に大岩雄典、沖啓介、はがみちこ、布施琳太郎が選出された(第一席は該当なし)。ここでは、佳作に選ばれた大岩雄典「別の筆触としてのソフトウェア——絵画のうえで癒着/剥離する複数の意味論」をお届けする。

山本直輝 実体のない風景としての人物 2018
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山本直輝の〈歯〉

 1982年生まれの画家・山本直輝の絵画《実体のない風景としての人物》(2018)[図1]は、山本の主な制作環境であるAdobe Illustrator特有の挙動を画面上に残している。中央下には左端が画面上で垂直に削られたテーブル、そのうえに、およそ人体のようなもの(とさしあたり呼んでおこう)が描かれている。脚や手先などの断片、またそれらを塗るベタ塗りの、白色か黄色人種の肌を思わせる色、おおまかな配置やシルエットが、少なくともそれは人体を参照していることを明らかにする。もちろん山本のほかの作品と同様、それらの輪郭は切断され、それに伴うように肉の色さえ垣間見える。あるいは空間のどこに定位できるのか判断しがたい穴や、フェンスなどの線が画面上に横溢しているが、本稿が取り上げたいのは、中央付近に描かれた〈歯〉である。

 「歯」もまた山本作品では頻出するモチーフであり、線や色面の分断と、それに伴う表象された人体そのものの断面によって提示される、人体そのもののレイヤー性の表現の一環である。人間の口とは、唇につながるその側の皮膚、そのなかに肉を経て、また口腔があり、歯茎と歯があり、さらに中に歯の内側の空間、舌……という多重構造になっている。この歯というモチーフや、部屋内の人物という状況、テーブルの形状や人物を囲う図形などからフランシス・ベーコンも連想されるが、とりわけ見逃せないのは、《実体のない風景としての人物》の歯が、上方から下方へ引っ張られたように見える点だ[図1-2]。

 「引っ張られたように見える」と表現するときの「引っ張られた」とはまず、画面上で歯の表象を可能にしている、複数の線と白色によって構成された図形が、画面上の向きで上から下へ引っ張られているように見える、ということだ。つまりこの「見える」とはさしあたり、表象された歯という人体構造それ自体が空間内で引っ張られているのを指しているのではない。第一にそこで際立って見えるのは、図形が「引っ張られたように見える」という、あくまで画面上の水準であり、表象はその印象に引きずられて持ち出されるものの、しかしこの直線じみた移動の奇妙さを解消するわけではない。後述するように、これはたんなる図形ではなく、ある演算された図形なのである。

[図1]山本直輝《実体のない風景としての人物》(2018)
[図2]山本直輝《実体のない風景としての人物》(2018)より 〈歯〉の部分

 さて、「引っ張られた」「演算された」の「た」とは過去をあらわす助動詞だが、ある絵画に定着された図形に過去を見出すとはいかなることか。山本の「歯」を例にとって記述してみよう。

 いまは画面中央付近にある(歯を表象する)図形が、もともとはより上方にあって、それがいまの位置まで移動されたように思われる。それはなぜかと言えば、とくに上歯茎の前歯2本にあたる2つの図形の形状に因る。まず、件の図形が全体的に歯を表象しているように見えるのは、それが端的に歯のかたちに類似しているからだ。下に5つ並んでいる白い小閉域は、下歯のように見える。だが上に並んだ図形では事情が異なる。たしかにそれは下歯と同じ色で複数個並んでいるが、とくに中央の2つ3つの図形は、通常の歯のプロポーションから大いにくずれ、上端がはるか上方まで至っている。この上端の位置が、〈移動前〉の位置のように思われるのだ。歯の図形を構成する上半分だけ、そこに取り残されたかのように。

 例えばアニメーションの作画で、そうした表現が用いられることがある。物の激しい移動を示すために、輪郭を崩して移動前と移動後の形を混ぜ合わせるように描き、人間の通常の視覚に似た印象を持たせるのだ。それが動的な空間的な表象を実現するためのシミュレーションであるように、山本の描いた〈歯〉の図形の移動もまた、(部屋の輪郭やテーブルの立体感から見出すことのできる)空間に定位させて、〈歯が移動した〉状況の表象として把握することができるし、速度を感じ取ることもできる。だがわたしが取り上げたいのは、この形状が、Adobe Illustratorというソフトウェアの挙動に由来する、という点である。

 Adobe Illustratorとは、主にベジェ曲線を扱ってグラフィックを制作するソフトウェアだ。1987年にAdobe社が発表し、同シリーズは現在はAdobe Creative Cloudというサブスクリプションサービスで提供されている。Illustratorに限らず、Adobe社のソフトウェアは画像・映像制作の現場に浸透しており、広告商業だけでなく、一般企業、また芸術制作にも一般的に用いられる。事実、美術大学でもAdobe社のソフトウェアの使用法を学ぶ講義を持っているところも少なくない。さて、Illustratorにおいて画像制作の単位となるベジェ曲線とは、複数の点(アンカーポイント)をつないだひとつながりの線データである。それぞれのアンカーポイントからは曲率制御点(ハンドル)が伸びており、これを操作することで、点どうしをつなぐ線は、数学的に演算された自由な曲線となる。ビットマップ画像との違いは、ビットマップが、複数の色彩データと、それを条理上での配置するための情報からなるのに対し、ベジェ曲線によって構成されるグラフィック画像は、個々の点の座標とそれから演算した線からのみ構成されて提示され、ゆえに条理のような「解像度」を持たない点だ。

 1本のベジェ曲線をIllustrator上では「オブジェクト」と言う。複数本のベジェ曲線をまとめてひとつのオブジェクトとして扱うこともできるが、ここでは説明の便宜のため無視する。さて、Illustrator上で図形を編集するというのは、このアンカーポイントの集合を編集するということだ。表示されているベジェ曲線=オブジェクトをクリックすると、それを構成している個々の点が線上に重ねて表示される。この線全体を移動させるというのは、点どうしの相対的な位置関係・距離関係を保ったまま、絶対的な位置を変えるということだ。たいして、図形の一部を編集することもできる。アンカーポイントをひとつ移動すればそれに結びついた線が変化するし、あるいは消去すると、それに紐付いていた両隣のアンカーポイントどうしが改めて結びつく。もしくは、そこだけ線が途切れて図形は閉域ではなくなる。

 Illustratorにはそうした操作をGUI上で行う直感的なツールが用意されている。「選択ツール」とは主にオブジェクト単位で選択するツールで、それでクリック、ドラッグすることでオブジェクトを移動することができる。かたちは変わらない。たいして「ダイレクト選択ツール」とは、アンカーポイント単位で選択するツールだ。例えば正三角形のひとつの頂点だけを動かして、二等辺三角形や不等辺三角形にできる。もしくはハート型ならば、上部の2つの山だけを選択して上方に延ばすことができる。図形は不格好なウサギの耳のようになるだろう。

 さて、件の〈歯〉はこのダイレクト選択ツールによる編集が加えられたかたち、もしくはそれを模倣したように見えるのだ。元々歯の形をしていたベジェ曲線を上方から下方に、あるいは下方から上方に移動させることで、この長く伸びている、ほぼ平行の、ほぼ直線のような三次曲線が得られる。ダイレクト選択ツールであるオブジェクトを移動させようとその全体をドラッグで選ぶとき、それが大雑把だと、端の一部のアンカーポイントだけ選択しそびれて、移動から「取り残して」しまう(下方向の移動に見えるのはそのためだ)。そうした経験は、Illustratorのユーザに共有される経験だ。

 むろん、そうした印象は画面全体の複数の要素からコノテーションされたものだ。人体を囲う図形が画面枠に平行な矩形に限定されていることは、Illustratorのデフォルトかつ代表的ツールである「矩形ツール」を思わせる(これは立体感を思わせるベーコンの「空間枠」とは異なる特徴だ)。あるいはベタ塗りの色面や線太の一様さ、同じ線太の多用も同様に「Illustratorライク」である。決定的なのは、閉空間になっていない線の内側が塗られるとき、断絶部は、その両端の点を直線で結ぶように輪郭づけられている点だ。重ね合わせのもっとも奥に描かれたドット絵のような図像だけはIllustrator上で描くには手間がかかるが、それ以外のオブジェクトは、Illustratorを用いていれば比較的即座に、また簡単に得られるイメージである。山本は絵画制作でIllustratorを使用していることを公言しているが、それを画面上に結実するグラフィックのレベルで提示する点で、このソフトウェアが特有に生み出す図形の傾向に自覚的なのだ。
 

ソフトウェアの水準

 さて、あるソフトウェアが生成する傾向を持つ形状を画面に登場させるような実践は、同時代の多くの画家・写真家に見出すことができる。例えば1980年生まれの画家・今津景は、Photoshopによって画像群をコラージュ・編集した一枚の見え方をキャンバスに再現する(*1)。あるいは写真家・小林健太の写真作品も、Adobe Photoshopを用いて制作されている(*2)。2人に共通するのは、「指先ツール」を思わせる画面上の要素だ。

 PhotoshopもまたAdobe社のソフトウェアであり、デジタル写真を主とするビットマップ画像を編集する。画面全体の色味や明度を調整する機能もあるが、例えば「ブラシ」ツールは、なぞった部分のピクセルを一様な色に変更する。「ぼかし」ツールは、なぞった部分のピクセルをその隣接どうしで混合することで、くっきりした輪郭などをぼかす。だがこれらは画像編集ツールにおいて比較的一般的なものだ。たいして「指先」ツールはPhotoshop特有のツールともいえる。ドラッグした方向にピクセルを移動させるようにぼかすため、その名の通り、まるで絵の具を指で伸ばしたたときのような効果が出る。

 ところで重要なのは、この指で伸ばしたときのピクセルの「粘度」、あるいは混合の「減衰」の度合いを変更できる点だ。「指先」ツールの「強さ」というパラメータは、はじめ50パーセントに設定してある。この数字を下げると、こすってもピクセルは伸びづらくなり、粘度の高い絵具のような印象を与える。だが「100パーセント」に設定すると、ピクセルはなぞったぶんだけ延々と伸びていく。それはもはや物質的な絵具の粘度では発生しえないような、グラデーションのある線になる。おそらく今津も小林も「強さ」を高い数値にした「指先」ツールを用いているように、作品からは推測できる[図2][図3]。本来絵具で描かれている以上起きないようなストローク、あるいはレンズがとらえるべき物質的現実の見えにはありえないかたちの溶解を「指先」ツールが生み出している。それは描かれているものや写されているものという表象の次元に還元されないだけでなく、絵画や写真を物質的に成立させている支持体・顔料の水準からも離れている(*3)。

[図2]今津景 Red List 2015
[図3]小林健太 Orange Blind #smudge 2016

 Photoshopの使用が強調された写真作品として、永田康祐はルーカス・ブレイロックやマーク・ドルフらの写真作品を検討する(*4)。例えばブレイロックの作品《Untitled(Deck Prism?)》(2009)では、同じ模様を繰り返す「スタンプ」ツールによる編集や、またレイヤー機能が露骨に用いられている。永田は、視差効果を用いてレイヤーの重なりを表現するジョー・ハミルトン《Indirect Flights》と並べながら、両者の作品におけるマルチレイヤー性とそこで表象される複数の可能な奥行きについて、スタインバーグが指摘した「面[平面性]と奥行きの間に起きる震え」という言葉を引きながら考察している。永田自身も作品《Theseus》(2017)[図4]で、Photoshopの「修復ブラシ」ツールを活用している。被写体はヘアライン光沢を持つ金属カップと、それを一度撮影・レーザー印刷した写真とが並んだ様子だ。つまり写真内写真である。Photoshopの「修復ブラシ」ツールは、画面内の類似した領域を流用して、本来はゴミなどを削除するために使用するのだが、このツールは、被写体であるカップと、その背後に置いてある写真(写真内写真)とを区別できないため、それぞれの質感が混ざり合ってしまい、結果として表象の内外が嵌入しあう。永田はブレイロックらに見出される奥行き関係のレイヤー性を、写真/実物という表象の構造へとパラフレーズしながら、Photoshopのツールの挙動をむしろ強調しているのだ。

[図4]永田康祐 Theseus 2017 Courtesy of the artist

 ただし、永田はそうしたレイヤー性はデジタル画像においてはいずれも「シミュレート」されたものである点を指摘し、あくまで物質的な痕跡が積み重なっている絵画とは異なることを強調する。

 つまり、デジタル画像は、自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウムなのだ。例えば、絵画のメディウムにおいて、その描線や色面は、筆跡や色の重なりによって、それがどのように描かれたのかを同時に記録している。それは(中略)これらが物理的なメディウムに依拠する以上決して逃れられない条件である。 (中略)  しかし、前言したように、デジタル画像はそのような時間性を失っている。デジタル画像において、操作の重なりはシミュレーションによって形成される。しかし、マノヴィッチが指摘するように、こうしたシミュレーションはもはや物理的な操作とは無関係である。私たちは作品の画面上に何らかの操作の痕跡を見ようとするが、そこに表示されているのは、無数の、しかし有限なピクセル明滅のパターンのうちのひとつにすぎない。物理的なメディウムにおいて保たれていた制作過程を画面へ係留する論理は、デジタルメディアの論理に換骨奪胎されているのである(*5)。

 スタインバーグが(物理的な痕跡を持つ)絵画について指摘するような「震え」は、デジタル画像においてはその物理的な平面表示とソフトウェアによる画面とのあいだだけでなく、その画面のなかの奥行きもまたシミュレートされたものでしかないために、その不確定で可能的にとどまる複数の奥行きのあいだでも起こりうる。

 換言すれば「決まった奥行き」と「そのたび可能に見出される差そのもの」との違いもいえるだろう。前者は物理的で固定されており、そのため画面全体についてその折り重なりの関係を統一的に矛盾なく整理できる。だが後者は、視差効果や、操作の痕跡の逆算によって見出されるたびに前後関係を見出してしまうにとどまる。しかしそれがヒントとして全体に波及して、固定された順序を開陳することがない。個々の前後関係はしばしば不明瞭だったり、(ときに意図的に)矛盾したりしうるのであって、そうした「奥行き差」の個々独立した散逸が、「生み出されうる複数の奥行き」のなかの震えをうながすのだ。

 山本や今津の作品は、IllustratorやPhotoshopのつくり出す操作の痕跡を、大きなキャンバスへと絵具で丹念に描き写している(今津の場合は、しばしば絵具独特の質をも加える)。そこに見出されるようなツール操作の痕跡もまた、永田がレイヤー関係について言うようにシミュレートされたものだ。「ダイレクト選択ツール」でアンカーポイントを取り残したまま下方向に移動したような山本の〈歯〉もまた、じっさいにどう描かれたのかはわからないし、表面を見ても、絵具としての描画の痕跡しか見られない。黒い輪郭線と白い色面は、Illustratorと異なり同時にプロデュースされたものではないし、一度描いてから輪郭を伸ばしてずらすことなど、乾燥した絵具ではできない。これは、ブレイロック作品における、一見はスタンプツールで「もとの画像に、加えるように、その一部の模様を借用して、その上に重ねた」という順序を持つ営為の結果に見える部分も、そう見えるだけで結局実際に表示されているのが「ピクセル明滅のパターン」に過ぎないことと同様だ。むしろ彼らは、ある来歴・奥行きのようなものを見出されるにすぎないデジタルな操作の結果とは異なる来歴を持ちうる絵具の作業をさらに〈重ねる〉ことによって、両者のそうした構造的性質の差異を浮き立たせているとも言える。

 デジタル画像において「そのたび可能に見出される差そのもの」が矛盾しあうように、操作の来歴としてつかのま見出される前後関係は、実際の描画の手順とはえてして異なるのだ。今津が既存の絵画をその編集対象に選ぶことも、これに類比した射程を見出すことができる。オリジナルの絵画作品はその制作過程の筆致が残っていたり、もしくは丹念にそれが均されていたりしただろう。だがそうした情報もまた、限られた画素数の画像としてインターネットに出回るさなかに欠落する。インターネット上で見る絵画は、えてしてその物理的操作の来歴をたどることがむずかしい。もちろん昨今では、技術発展と美術館の積極的な取り組みにより、筆跡まで窺える高精細な画像が公開されている。だが重要なのは、そうした事実さえも、今津が「あらためてみずからのキャンバスに同じ図像を描く」ことで取り沙汰されるということだ。今津がドラクロワを描きなおした筆致がキャンバスには残っているが、はたしてそれはドラクロワ自身が行った筆致とは一致しないだろう。わたしたちは知的にその事実を推察することができる。

 今津の筆致は、まずオリジナルの絵画が物質的に持つ操作来歴情報へのアクセスへの困難という情報環境と、またPhotoshop上で編集した画像を描き写すさいに求められる工夫という2つの要件によって、それが「今津によるこの筆致」であることを改めて強調する。つまり今津の絵画には、①アクセス不可能なドラクロワの筆致、②それをPhotoshop上で編集された操作・レイヤーのシミュレーションの水準、③それを今津が物理的にキャンバスに描く筆致、という主な3つの水準が重ねられており、そこに部分的奥行き差や一つひとつの操作がつかのま見出されるとき、その複数の水準がたがいに剥離した独立のものでありながら癒着していることを主張するのだ。

 たいして山本の絵画では、空間表象の水準がそうした剥離と癒着の運動にかかずらっている。今津におけるそうした運動はおもに筆致どうしの関係によるものだったが、山本においては、そうした筆致が何かの像に見えるという位相が、「震え」を触発する。今津と同様に整理すれば、山本の絵画では①部屋に佇む人物(をあらわす像)、②Illustrator上で編集した操作のシミュレーションとして見出される水準、③それを山本が物理的にキャンバスに描く筆致、という主な三つの水準が重ねられている。今津にくらべて山本の絵画平面はより平坦で、例えば筆のこすれなどは見られない。また、今津においては「指先ツール」が油絵具を思わせることでその物理的作業の水準へも注意を促していたのだが、山本の用いるIllustratorはそうした絵具のようなイメージをつくりづらい。山本の用いるアクリル絵具やペンのマットな質感もあいまって、そこでは②と③の水準はどちらかというと「癒着」している。だが例えば《sick girl》(2017)は、「物理的描画」が「illustrator上の編集」から剥離していることを間接的に示している。

 注目すべきは2点である。ひとつは中央下部の「インクが垂れたような線」、もうひとつはもっとも背景にある「モザイク状の色面」である。とくに前者は、一様な太さの線からインクが垂れたように、垂直方向へ線が伸びている。もちろん実際に垂れた痕ではないが、絵が「物理的に描かれている」ことへと鑑賞者の意識を向け、一度は絵画平面を物理的な絵具としてまじまじと見させるだろう。同時にそれは、中央描かれたナイフに垂れる血液との相異をも強調している。かたや液体が「ナイフ」に垂れているのにたいし、かたや液体は「画面」に垂れている。そのうえ、「ナイフに垂れている」ことが描かれているのと同様に、「画面に垂れている」のも、実際に垂れているのではなく描かれている。山本は、個々の水準が自身ないし他の水準を強調するような仕掛けを平面内に多く配置することで、鑑賞者の知覚的および知的な「 震い ・・」を誘うのだ。

アンドゥされうる/しうる表象としての操作

 しかし畢竟、現象的な鑑賞の視点に立てば、絵画とはひとめに見られるものである。たしかに、絵画には複数の水準が見られうるし、そのような実践はモダニズム以降絵画の主たる実践に数えられるとは言えど、しかしまず絵画は、ひとめに、ひとつの、べったりとしたひとめの見えとして見られるのだ。それは平坦に見られるということではない。遠近が表象されてあるにせよないにせよ、レイヤーの重なりが見つけられるにせよ見つけられないにせよ、まず絵画は、いまだ水準の分節がなされてもいないし、ましてやその分節が混乱させられてもいないものとして提示される。わたしたちが絵画における表象や物理、あるいは画像制作過程としての操作といった水準を、たがいに剥離した/しえるものとして見出すためには、その構造への常識的で知的な理解と、またつかのま見出される「震え」が必要なのだ。

 かくして前節で述べた「決まった奥行き/つかのま見出される差そのもの」は、たんに物理的絵画とデジタル画像とのあいだで構造的に並列したものではなくなる。固定された奥行きというのは、見出される差どうしが、およそそのヒエラルキーが統一される限りであらわれるにすぎない。物理的であるというのは、実時間がそのヒエラルキーを保証するということだ。たいしてデジタル画像は、永田が指摘するように「自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウム」である。「 把持 ・・」という言葉に注目しよう。「無時間的」とは、制作においてかかった順序を把持できないという、物理的な保証のなさを指すのだ。たいして物理的な状況における制作とその成果は、生成のプロセスを手放すことができない。言い換えれば、デジタルの水準は、生成プロセスの手順という 時間 ・・を、謬見させさえすれ、原理的に把持しえないのである。

 生成のプロセスの「把持」は、前節で取り上げた、今津の絵画における「既存の絵画の画像の使用」とも関わる問題だ。ドラクロワの絵画生成プロセスがウェブ上の画像には引き継がれず、その画像を操作した編歴もまた、キャンバスに描き写されるために最終的に確定した画像には引き継がれない。デジタル変換を経由した生成プロセスは、もはや見出されがたいものとして、物理的な生成プロセスの痕跡である画面の裏側に、かつて-起きた-はずのものとして空疎に張り付いている。だがここでいま一度、冒頭で触れた、山本の〈歯〉が「かつての場所からいまの場所に移動させられた」という過去を垣間見せる点について思い出そう。あるいは今津や小林の用いる指先ツールが、どちらからどちらに伸ばされたのか、少なくともどの方向にカーソルないしタッチパネル上の指が移動したのかを想像させる点について思い出そう。

 繰り返すが、もちろんそれはシミュレーションであって、そのような操作が〈あったかもしれない〉ことを、ソフトウェアの標準的な挙動、ツールの簡便性やなじみ深さにもとづいて想像さえやすいにすぎない。デジタル画像を経由するとは、単なる明滅に置き換えられることなのだから。だが、そうした原理的な視点は、そこに何らかの操作の痕跡、プロセスの存在を想像させるようデザインされているという表象・記号の視点と矛盾するものではない。

 松永伸司の整理によれば、「表象(representation)」は、表すものたる「記号(symbol)」と、表される「内容(content)」の二要素からなる(*6)。犬がいるという内容を、「犬がいる」というテクスト記号が表象しているし、この文章は表象に関する文であるという内容を、「この文は表象に関する文である」というテクスト記号が表象している。記号や内容は必ずしも明確に分節されるものにかぎらず、絵画においてはそのモチーフが内容、絵具によってつくられたある色彩のまとまりが記号として対応している。

 こうした区別は、ジェラール・ジュネットの「物語言説(discourse)/物語内容(story)」という区分を思い出させるだろう。ジュネットの『物語の詩学』訳注に簡潔な整理があるので、それを一旦引用しよう。

物語内容は、物語によって報告された内容、すなわち語られた出来事の総体を指し、(中略)物語言説はそれらの出来事を喚起する言説(テクスト)を指す(*7)。

 内容を言説が表象する。ジュネットはこの二層関係についてさまざまな観点から着目しているが、とくに時間について確認しよう。「物語内容時間」とは、複数の「語られた出来事」が、その物語の世界で起きる時間を指す。たいして「物語言説時間」とは、物語言説であるテクストが読まれる(あるいは聞かれる)時間を指す。さらにジュネットはこの時間について、出来事/記述の「順序」、「持続」(相対的な長さ)、「頻度」(発生回数)の点から分析するが、本稿で取り上げるべきは順序だろう。通常語られる「ももたろう」において、言説の順序はそのまま、内容の順序と一致している。だが、まず鬼ヶ島に着いた記述から始まり、それから老夫婦がももを拾う記述が続くような場合、内容と言説の時間は不一致になる。なぜなら、記述がそうなったからといって、「桃太郎が鬼ヶ島に着いてから老夫婦がももを拾う」という話になるわけではないからだ。順序が不一致になる技法をジュネットは「錯時法」と呼んだが、はたして時間の不一致は、ここまで論じてきた絵画の複数の水準の問題にも見出せるだろう。

 山本の〈歯〉に再び戻ろう。

 〈歯〉の一部が取り残されていることで、「ダイレクト選択」ツールによる操作が行われたことが、ソフトウェアにたいする鑑賞者のリテラシーから想像できることはすでに指摘した。そこには、状態の差分、順序を見ることができる。まず歯の図像がアンカーポイントで描かれてから、それは移動された。原理的にそれはシミュレートされており、画面に定着されるさいに実際の制作プロセスを引き継げてはいないとしても、ともあれ〈そのように〉シミュレートされているからこそ、そのように想像することがアフォードされているのだ。

 Illustratorを含む多くのソフトウェアには「アンドゥ」機能が搭載されている。「アンドゥ」すると、「ひとつ前の操作を取り消す」ことができる。もし山本の〈歯〉を「アンドゥ」すれば、もともと十全な歯の図像へ戻るだろう[図5]。上方から下方へ移動したのか、あるいは不自然だが下方から上方へ移動したのかは確定しがたいにせよ、何らかの来歴、操作の順序がそこでは表れている。

[図5]山本の〈歯〉に似た形状を簡易に作って下方に移動し、〈アンドゥ〉したシミュレーション。左が移動後(アンドゥ前)、右が移動前(アンドゥ後)

 さて、「 表れている ・・・・・」とはいかなることか。まず、「ダイレクト選択」ツールによる移動は、物理的な絵具がつくりだす色面などの分節によって表象された〈内容〉である。だが同時に、それは例えば、歯の空間的移動を表象しうる〈記号〉でもある。つまり、この〈操作の移動〉はそれ自体表象されたものでありながら、同時に人物像の表象を成立させてもいるのだ。三層の水準が、二段階の表象によってつながる。しかし同時に、ここで最も〈向こう〉の人物像と、最も〈手前〉の絵具の記号もまた、通常の絵画のような表象関係をもっている。図にすれば以下のような状態だ[図6]。

 

[図6]

 ここで急いで、「まず絵画は、いまだ水準の分節がなされてもいないし、ましてやその分節が混乱させられてもいないものとして提示される」ことを思い出そう。まず先に安定した三水準があるのではなくて、たがいのヒエラルキーに還元できない諸々の水準差を感じ取ることで、そこに水準のミクロな分節が見出され、この分節がまとまっていくことで、ひとつの統一された水準になるのだ。表象は、分節になりうる。例えば空間を持つ内容が集まって具象像の水準となるし、記号としての絵具が見出されていくとそれが物質的な性格によって成立している水準が見出される。本稿がとりあげているソフトウェア的操作とは、デジタル変換をつうじて一度生成プロセスがリセットされる位相を経由しつつ、さらにソフトウェアの代表的ツールへのリテラシーによって、物質的に成立した色面に表象されながら、しかし絵具とは異なるしかたで具象像の表象に関わる水準として、差し挟まれてくるのだ。

 だが、例えば山本の同作の〈薔薇〉のほうに注目してみよう。角度は下向きとはいえ、それは〈歯〉とちがって、Illustrator特有の形状は見られない。輪郭とベタ塗りで表現された一般的なイラストレーションといえるし、通常これを単独で分析しても、余計な三層構造は見出されないだろう。単に、薔薇という内容を、線やら色面やらが記号として表象しているだろう。

 しかし、この場合はそうではない。ふたたび冒頭の節の記述を思い出そう。Illustratorの操作が固有の水準を手に入れるのは、「画面全体の複数の要素からコノテーションされ」ることによる。山本の絵画においては、〈歯〉に見出される「ダイレクト選択」だけでなく、一様な線太や色面、閉じてない線に対する塗りなどの要素までが総合して、ソフトウェアの操作の水準が認められているのだ。そうした諸々の要素は、個々の表象において内容と切り離されるときに確認されるのである。一見Illustratorライクでない〈薔薇〉に関しても、こうしたコノテーションによって、「赤い塗りで黒い線のベジェ線オブジェクト」という水準の部分として見出される。表象=水準差からそれぞれの水準が定立されると同時に、定立してきた水準が、個々の要素に「見方」の重層性を与える。絵画を観て、どれが何を表しているかを把握することが、たがいの要素のポテンシャルを引き出し、絵画全体に緊密な情報を充填していく。複数の水準が、癒着したり剥離したりしてたがいに触発することが、新たな癒着や剥離を生み、絵画面の情報をつぎつぎ波打っていくのだ。

 ジュネットの知見に戻れば、記号の持つ順序と、内容の持つ順序は必ずしも一致しない。アンドゥできそうな個々の操作は、具象像に、癒着しそうな、剥離しそうな緊張を保ちながら、そこにささいな時間を持ち込むのだ。だが、その時間は不明瞭であり、いかなる時間か軽やかに述べることはむずかしいはずだ。たんに具象のなかで「歯が高速で動いた」と換言できるようなものでもなく、片足だけソフトウェアの位相に残したまま、心象とも具体ともいえない、しかし〈何も起きていない〉ともいえないイメージを注入し、鑑賞者は具象像を、それなしで読み取ることはできない。外部から注入された毒のように、それは画面全体にしみわたり、すこしずつ、〈ソフトウェア的操作との緊張も念頭において〉鑑賞するように知覚を蝕んでくる。

 

ヴィデオゲームにおける意味論の重ね合わせ

 松永は「表象」における統語論/意味論という用語を整理している。ある表象は内容と記号の二層をまたいだものだが、この記号の水準だけがどう構成されているかについての位相を「統語論(syntax)」と呼ぶ。たいして、どのような記号がどのような内容を示すかを「意味論(semantics)」と呼ぶ。この意味論こそ、絵画面を見ながら、表象を読み取り、しだいに水準の分節を手に入れていく鑑賞者が学んでいるものにあたる。鑑賞者は、記号と内容がどのように〈癒着しつつ剥離しているか〉を学んでいくのだ(*8)。

 松永は統語論/意味論という区別をヴィデオゲームの分析に活用する(*9)。松永によればほとんどのヴィデオゲーム作品は、2つの意味論とそれを重ね合わせ(う)る1つの統語論によって成立している。2つの意味論とは、「フィクション」と「ゲームメカニクス」だ。松永に倣って『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂、1985)を例に挙げて説明すると、「フィクション」とは主人公マリオがヒロインであるピーチ姫を助けるために、敵を倒したり、キノコを食べたりする虚構世界の水準の意味論だ。たいして「ゲームメカニクス」とは、制限時間内にゴールを目指し、敵オブジェクトにぶつかるとダメージがあるとか、特定のオブジェクトに触れるとパワーアップするといった、ゲームのルールが実装された水準の意味論だ。ゲームではこれらふたつの水準が基本的には協働する。そして統語論はこの協働を保証するようなメタ水準だ。例えば画面上に表示されるドットの塊は、〈マリオ〉という虚構上の人物でありながら、〈プレイヤーキャラクター〉という操作すべき要素でもあり、この二種類の意味論の重なりをプラグマティックに保証する[図7]。ディスプレイに提示される記号という統語論的な水準での知覚を通して、プレイヤーは、フィクションとゲームメカニクスという2つの意味論を相互作用させ、そのゲームの仕組みを学んでいくのだ。つまり、ドット絵として知覚されるプレイヤーキャラクターを動かすということは、虚構世界上でマリオを前進させることである/になる/とされる/とできる。

[図7]『スーパーマリオブラザーズ』のプレイ画面。
中央下のドットの人物像において、主人公であるマリオ(フィクション)とプレイヤーキャラクター(ゲームメカニクス)を重なり合っている。たいして上方の雲はたんなる背景で、いかなるゲームメカニクス上の機能もない。また右上の数値も、マリオが飛び跳ねるフィクション世界に存在するわけではない

 絵画や写真などの静的な芸術(*10)にはヴィデオゲームのような明確なインタラクティビティはないが、しかし、複数の意味論が、ある統語論のもとでどのように癒着・剥離するかを、鑑賞しながら学ぶことができるという点では通ずるところがある。ひとつの意味論と統語論との関係から、もうひとつの意味論についても新たな情報を期待し、確認することができる。それが期待どおりに一致するにせよ(癒着)、食い違うにせよ(剥離)、そこでは読み取りの運動が起きているのだ。むしろ食い違うことは、表象のまとまりとしての絵画や写真を成立させる諸条件を批評的に開闢する批評的な営為といえる。

 ヴィデオゲームに再び着目すると、『スーパーマリオブラザーズ』において、例えば統語論的水準として提示される〈キノコ状のドットの塊〉という記号は、「マリオが食べるキノコ」というフィクション的水準の内容と、「プレイヤーキャラクターが触れるとパワーアップする」というゲームメカニクス的水準の内容との2つに対応する。1つの記号について2つの表象が重なり合っているのだ。こうした重なり合いがヴィデオゲームのインタラクティビティの骨子になるとはいえ、しかしあらゆる要素が重なり合うわけではないことを松永は付言する。例えば『スーパーマリオブラザーズ』の背景にある雲は、ゲームメカニクスとしては空疎だ。それに触れようと何も起きない、ただ虚構世界の天気演出としてあるにすぎない。たいして画面右上に表示されるスコアや制限時間は、マリオのいるキノコ王国に存在するものではない。重なり合いの対応項をもたない要素が、フィクションの意味論にも、ゲームメカニクスの意味論にもそれぞれ存在する。

 だが、対応が噛み合わないズレもまた、意味を読み込む創発的なきっかけになりはしまいか。例えば、本当は何も起きないはずの背景の雲に向かってジャンプしつづけたりする。アドベンチャーゲームで、開くことのない飾り扉を開けようとしてしまうことはしばしばあるだろう。あるいは制限時間というゲームメカニクス的要素もまた、それが尽きると冒険が途絶してしまうのだから、たとえ画面には表示されていなくとも、さらわれた姫の命のタイムリミットだとか、マリオ自身の寿命だというフィクションを読み込むことができる。それらは標準的なプレイ経験とは言えないが、しかし、ヴィデオゲームが意味論の重ね合わせを経験の要件とするゆえに、プレイヤーが空所を補充しようとして、意味をつくり出していく運動だ。

 ヴィデオゲームのプレイは、まずその重ね合わせ自体の成立(あるいは不成立=空所)を学習する過程を含む。その過程とは、一方の意味論の要素に対応する他方の意味論の要素を、統語論的水準の記号をつうじて見出して対応づけていく運動の積み重ねなのだ(*11)。この運動は、まさにさきほど指摘した、「複数の水準が、癒着したり剥離したりしてたがいに触発することが、新たな癒着や剥離を生み、絵画面の情報をつぎつぎ波打っていく」こととパラレルである。
 

おわりに

 さて、かくしてソフトウェア的操作の水準が、絵画における別の表象の水準として、鑑賞の経験のなかで成立し、ほかの水準と癒着/剥離する運動をもって、絵画面を豊かにする構造について検討できた。それは、制作者・鑑賞者へのソフトウェアについてのリテラシーの膾炙という今日的状況を背景に持つ。

 最後に3点、議論のさらなる拡張のための道標を付しておこう。

 まず、gnckの論考「画像の問題系:演算性の美学」もこうした絵画の二水準に関わるものである(*12)。特にドット絵について、gnckはビットマップ画像が持つ条理のピクセルという「演算性」や、またJPEG圧縮形式に特有なブロックノイズが、それが成立させる像の現前を介在することを「演算性の美学」と呼ぶ。ピクセルでありながら像として現前することをgnckが「奇跡」と呼ぶとき(*13)、本稿の用語でいえば癒着と剥離のぎりぎりのバランスで表象が成立する瞬間の価値を指しているだろう。

 gnckは以上の視点を、エドゥアール・マネら印象派の筆致についてのクレメント・グリーンバーグの評論から引き出し、やはり「重ね合わせ」という語を用いている(*14)。要素の重ね合わせを芸術経験の骨子とする点では、松永の分析にも通じるところがある。とはいえgnckは、二水準があくまで剥離する瞬間、ドット絵がやはりドットそのものだと見えてくること、グリッチが起きて画像が演算だと示されることを取り上げながら、そこに美学を見出す。本稿が取り扱う「ソフトウェア的操作」の水準についても、固有の美学を見出せるだろう。その意味で、ヴィデオゲームやその周縁文化の分析は、絵画鑑賞の文脈を拡張するためのヒントになりえるだろう。

 レフ・マノヴィッチは、テクストや画像、映像など近代のメディアがいずれも演算可能な数値に置き換えられたことを「ソフトウェア化」とみなし、その統括的な演算装置であるコンピュータを「メタメディウム」と呼んだ(*15)。だがここで注意したいのが、演算可能なひとつのデータのまとまりとなったものは、従来「画像」「映像」などと呼ばれてキャンバスや写真用紙、フィルムなどに固着されていたようなものに限らないという点だ。例えばPhotoshopは、ひとつないし複数の(演算可能化された)画像を編集して、最終的にあるひとつの画像を手に入れるようPhotoshopはデザインされている。ところでPhotoshopには「レイヤースタイル」や「調整レイヤー」という機能があり、これら各々のレイヤーに視覚的効果を付すことができる。視覚的効果とはすなわち追加される演算だ。「2階調化」という調整レイヤーは、ビットマップ画像の個々のピクセルごとの明度(HSVでいうV値)によって白か黒かに振り分ける。その閾値をユーザは、中央の画像が変化するのを手がかりに調整できる。さて、この「2階調化」という操作もまた、レイヤーとして扱われている画像そのものや、当のPhotoshopファイルそのものと存在論的に同じひとつのオブジェクトであろう。画像や映像ばかりがひとえに「ひとまとまり」のデータでありオブジェクトとみなされる傾向があるのは、それらがGUIの主役だからにすぎない。しかし「2階調化」というひとつの操作も、レイヤーウィンドウの下部のアイコンから展開するプラグインに、ある同定されるひとつの〈何か〉として、あるまとまりをもった演算操作として、それ自体もまた数値化されて存在しているのだ。

 MacOSであれば、ソフトウェア「Adobe Photoshop CC 2018」を構成するファイルは、デフォルトでは「Application」の中の「Adobe Photoshop CC 2018」という名のフォルダに格納されている。そのなかの「Preset」フォルダ、さらに「Channel Mixer」フォルダには、「Black & White Infrared(RGB).cha」というファイルが保存されている。これはレイヤーの色彩に関わる調整レイヤー「チャンネルミキサー」のプリセットである「モノクロ赤外線(RGB)」にあたるファイルだ。データ管理上でも、明らかに操作は、jpgファイルやpngファイル、psdファイルそのものとも同じステータスで、ひとつのchaファイルというオブジェクトとして存在している。

 最後に、「操作」の来歴を意識した画家に、パブロ・ピカソがいる。アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映像作品『ミステリアス・ピカソ』(1956)は、《ラ・ガループの海水浴場》という絵画をピカソが描き進める過程を、真っ白なキャンバスからおおまかな下書き、大規模な構図の直し、微調整から完成に至るまで終始とらえたものだ(*16)。それはつまり、ピカソが成した個々の操作の記録であり、それを鑑賞した上で、完成品である《ラ・ガループ》を観るとき、事細かな来歴をその後ろに透かし見ながら、その二水準の癒着と剥離を垣間見ることになるだろう。

 作品に操作の来歴を保存しようとする取り組みとして、ジョシュア・シタレラがウェブ上で企画した展示「THE .PSD Show」も思い出される。10人以上が参加したこの展示の作品はすべてPhotoshopの保存形式である.psdファイルであり、鑑賞者は自身のコンピュータにそれをダウンロードして、自前のPhotoshopアプリケーションで開いて鑑賞する。psdファイルは、操作の来歴(ヒストリー)は保存されない仕様だが、レイヤー構造や、それぞれのレイヤーに付された効果を確認することができる。それらを消すことで、完全ではないにせよ、選択されなかった操作や、効果を付される前の画像の状態を見ることができるのだ。

 

*1――「画像をPhotoshop上で構成し、『指先ツール』で加工を施すことが多いです。『指先ツール』には何百種類という筆があって、すごく大きなデータを加工する場合には、パソコンの演算のスピードが追いつかず、ウゥーーンと鈍くずれながらエフェクトが生まれる。結果が予測できないうえに、何回もやり直しができるところが気に入っています」(今津) 「美術史、私、テクノロジーが指さす景色。今津景インタビュー https://bijutsutecho.com/magazine/interview/18061
*2――「小林さんの作品を見ていくと、一番特徴的なのはPhotoshopの指先ツールです。それを使うと筆跡みたいなのができるわけですよね」(荒川徹) 「小林健太「#photo」を巡って|小林健太×荒川徹×飯岡陸×大山光平(G/P gallery)」 https://note.mu/art_critique/n/n980564c24578 この直後で荒川はさらに、小林が写真にシャープネスをかけることで、等高線のような線が析出し、画像に立体感の水準を重ねることを指摘している。本稿の視点からいえば、この立体感の水準が、表象される風景や人物と別の水準にありながら、相互に情報を注入するような運動こそ肝要であり、ひとつの画面が複数の水準を持つことのポテンシャルである。
*3――とはいえ、「指先」ツールの使用はあくまで彼らにおいて比較的共通して顕著かつ、冒頭の山本の実践とも類比的であるばかりに本稿は取り扱っているにすぎず、彼らの作品には同様の視点で注目できる点が数多くある。今津《[]》(2016)は画像を思わせる矩形の輪郭を強調しながら、中央付近の赤い絵具の膜や、下部のブラシストロークのこすれによって、それがなお「絵具」で物質的に描かれていることを突き合わせる。あるいは《Journey of PUMA》(2016)では、194センチ四方という巨大なスクリーンにしては長いストロークが画面を横切り、さらに薄い影が落ちている。実際の絵具では一筆で描けないだろう、あるいは身体のサイズに合わないだろうストロークの長さは、それがPhotoshopのGUI上でデザインされたことを示している。あるいは荒川徹が指摘するように、小林は「シャープ」ツールを用いて、RGBの差異を強調することでピクセルの条理性をあぶり出したり、あるいは「指先」ツールにおいても、その終端をツールの丸い形状そのもので終わらせるか、筆先のように調整するか、作品ごとに判断されている。彼らの実践は「指先」ならぬ「ストローク=ひとかき(stroke)」なるものの多元性への批評的実践ととらえることができるだろう(あるいはそうした批評的視点が、ストロークというモチーフをあぶり出すだろう)。今津におけるPhotoshopの活用は、相対的に筆-絵具のストロークの物質性を俎上にあげるし、また小林は「指先」の活用を、シャッターを押し込む指の動作と、光学的・情報的に定着される画像とのギャップを感じ取っている。いわば写真とは全体がレンズの「ひとかき」でなされるものだが、小林はそこに、ツール編集やそれで模した筆先の感触を加えることで、「ストローク」を多元化する。この「ストローク」の多元性が画面に宿りつつ相互に及ぼす影響にこそ、本稿は着目している。
*4――永田康祐「Photoshop以降の写真作品」『インスタグラムと現代視覚文化論:レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』久保田晃弘・きりとりめでる共訳・編、ビー・エヌ・エヌ新社、2018
*5――永田、同、98-99頁
*6――松永伸司『ビデオゲームの美学』慶応大学出版会、2018 第四章 記号と内容にかんして「統語論/意味論」という用語を整理する箇所であり、本稿の以降の議論にも関わる。
*7――ジェラール・ジュネット『物語の詩学 続・物語のディスクール』和泉涼一・神群悦子訳、書肆風の薔薇、1983/1985、194頁
*8――本稿の「癒着/剥離」という比喩は、東浩紀が『存在論的、郵便的』で紹介した、デリダ/フロイトの「マジック・メモ」のイメージに触発されている。参考:東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』、新潮社、1998
*9――松永伸司、同、第四章
*10――本稿では説明の紙幅の都合で取り上げなかったが、同様の構図は、彫刻などの立体作品や、映像などのタイムベースドメディアについても言えるだろう。例えば彫刻に期待できるソフトウェア位相としては、3DCGソフトにおけるスカルプトや、マテリアル、テクスチャのような側面である。例えば山形一生による3Dプリント作品《cloth simulation》(2018)が挙げられる。布の形状だが、その表面の布模様(テクスチャ)は、形状と皺が食い違っている。アクリル樹脂で成立した作品でありながら、その表象される布という具象物とのあいだに、UV座標という3DCGソフトウェア特有の問題を想起させる。あるいは映像についても、Adobe Premiere Proなど多くのシェアを占めるソフトウェアの代表的ツール(例えば、ディゾルヴトランジションやクロマキー)が作品内で使用されるとき、同様のポテンシャルが期待できるだろう。
*11――金田淳子はゲーム実況者・しんすけの、ゲーム内の要素を過剰に読み込んでいくプレイについて言及している。『ドラゴンクエストIV』のプレイ終盤、仲間のホイミスライムに「ぼくと同じホイミスライムが[敵として]出てきても なさけをかけちゃダメだよ」と言われて以降、それまで倒してこなかったホイムスライムをしんすけは容赦なく倒すようになる。これは、もともと単なる演出でしかない仲間登録やセリフについて、「同じ種族を倒さないようにする」「以降はホイムスライムを見逃さない」という独自のゲームメカニクス的要素をあえて読み込んでいるのだ。もはやこれは単純に「ゲームプレイ」のカテゴリに含められるだろうか。それは癒着/剥離した二層の意味論を持つビデオゲームにたいする積極的な鑑賞行為のうち、ゲームプレイを包含するような新たな実践である。絵画における意味論の複層性もまた、ビデオゲームのフィクション世界観ほどに明晰に言語で記述できるかは怪しいにせよ、こうした「創発的な読み」を促し、独自の読みを定立させる足がかりとなるだろう。 金田淳子「ゲーム実況、そして刺身。ゲーム実況プレイ動画についての覚書き」『ユリイカ』2009年4月号、青土社
*12――gnck「画像の問題系 演算性の美学」、『美術手帖』2014年10月号、美術出版社
*13――「ドローイングやキャラが美しいのは、描線であることが明らかなのにもかか関わらず、それが像として現前しているからである。ドット絵が美しいのは、それがピクセルであることが明らかなのにも関わらず、それが像として現前しているからである。最小限の手数で、しかも十全に成立しているものは、奇跡なのだ」(gnck、同、174頁)
*14――「エドゥアール・マネにおいては、その筆触は明らかに絵具であるにも関わらず、描かれた形態としてもそこにある。/この、2つの状態の重ね合わせこそが、絵画の魅力であろう、そして、像を成立させる筆触という、画家の手業こそが、キャンバスに刻み込まれているのである。」(gnck、同、173頁)——この「関わらず」という逆接こそ、「癒着/剥離」という相反する性質の同居なのだ。それの片項となる「筆触」については、*3も参照されたい。
*15――参考:レフ・マノヴィッチ『ニュー・メディアの言語』堀潤之訳、みすず書房、2001/2009
*16――参考:平倉圭「合生的形象——ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》における物体的思考プロセス」『表象11』、月曜社、2017 平倉の議論は、本稿があくまで鑑賞の認識として考察したような運動が、ピカソにとっては制作の中核となる「発見」の理論であり、むしろこの運動こそを第一義的にとらえていたことを、ピカソの発言などを参照しながら考察している。純粋な造形ではなく、それを操作する運動こそ芸術の本分だとピカソがとらえるとき、操作の来歴が映像として記録される意義が明らかになるだろう。