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曖昧で自由な展示空間が喚起するテクスチャー。塚田優評「光るグラフィック展2」

現実空間と仮想空間、それぞれの鑑賞体験を可能にし話題となった「光るグラフィック展2」。リアルとバーチャル、人間と機械など様々な対立項の境界が曖昧になるなかで、現代における「オリジナル」の定義はどこに存在するだろうか。現代に根ざすこういった問いを考察する本展を、視覚文化評論家の塚田優がレビューする。

文=塚田優

展示風景より。実空間をバーチャルに変換する谷口暁彦による《まちぼうけ》(2019)

それは波であり、粒子でもあり

 「光るグラフィック展2」は鑑賞者をつまずかせる。なぜグラフィックという言葉が冠されているにもかかわらず、立体やインスタレーション、インタラクティブなメディアアートが展示されているのか。参加者それぞれの主要な活動領域も異なっているため、文脈の把握も困難だ。企画者の一人であるウェブデザイナー・田中良治によるステイトメントを一読すると「実空間と仮想空間にフォーカスした展示」であることが強調されている。たしかにスマートフォンの普及以降、インターネットとのつながりは常態化し、発光する平面は、私たちの生活環境を取り囲んでいる。

 リアルとバーチャルは相互に浸透する。つまりあらゆる事物と「光るグラフィック」は、近い距離で関係しあっている。しかしそれは、単純にデジタルとアナログが共存しているという安易な結論を導き出しているわけではないだろう。本稿はいくつかの作品をピックアップしながら、展覧会のトリッキーな身振りの把握を目指したものである。 

 小山泰介の《REVINE #20》(2018)に看取できるのは、光のデータとして一元化されるデジタル写真の情報内部にアクションを仕掛けることによって、直接的な物質性とは異なる位相でマテリアルの再配置を行っていることだ。小山は撮影されたデータを一度破棄し、復旧ソフトによって復元した際に発生したエラーを組み込む。目に見えて現前してしまうという写真の生理的な状況に対し、作者は展示という形式が陥りがちなオブジェクト化という陥穽を回避しながら、差異を作品内に担保している。

実空間の作品展示。手前から小山泰介《REVIVE #20》(2018)、原田郁《GARDEN - WHITE CUBE(G8) #001》(2019)、エキソニモ《Kiss, or Dual Monitors》(2017)
原田郁 GARDEN - WHITE CUBE(G8) #001 2019

 テクスチャーの付与という点において、より強い打ち出しをしているのは原田郁の《GARDEN - WHITE CUBE(G8)#001》(2019)である。原田は3D空間をパソコンで自作し、その風景を絵画として描くことを継続している。注目したいのは影の処理だ。作者は影のついた部分にマチエールを施し、物質感を持たせている。モチーフとなっている3D空間上で、影は現実の日光に照らされたものではない。それはその他の要素と等価な情報である。しかし「絵画」という歴史的に奥行きの表現を実践してきたメディアに、その等価性を落とし込むために、あえて彼女は質感を強調する。それによって、観者はその虚構空間を類推することができるのだ。

 このように、各参加者は仮想的なるものに対して実世界との単純な二項対立に陥らないよう工夫をしているのだが、関連して次に取り上げたいのは谷口暁彦《まちぼうけ》(2019)である。これは展示空間を3DCGによって再現したインタラクティブ作品だ。本展にあわせて開催されたトークイベント(*1)において、谷口はこの作品を可能な限り現実に近づけるよう努めたという。しかしその言葉を裏切るかのように、彼は実際のギャラリーと仮想空間を等しく対応させていない。会場には彫刻として設置してあるはずの、デザイナー集団「groovisions」による《chappie》(1994ー)は平面としてその質量を圧縮され、逆に葛西薫の《泣き虫ピエロ》(2013)では平面が立体化する。エキソニモの《Kiss, or Dual Monitors》(2017)はモニターのフチ部分が存在していない。

 ここには明らかな現実との乖離がある。たしかにgroovisions代表の伊藤弘が《chappie》について語るように、それは「システム」であり(*2)、個々の作品それ自体ではないということを踏まえるならば、その判断に間違いはないだろう。つまりここで指摘したいのは、谷口の仕事は現実に近づける作業というよりも、現実を純化するためのものとして取り組まれているということである。

会場の中央には、groovisionsによる彫刻作品《chappie》(1994-)が佇んでいる
谷口暁彦《まちぼうけ》(2019)。3DCGの技術によって《chappie》が平面化された

 ここではあらゆるオブジェクトが情報として定義し直されている。エキソニモの作品では、実空間においてモニターというサーフェイスの緩衝地帯として機能しているフチが取り払われ、もともと映像作品である葛西薫の平面はそのメディウムであるCGの3次元性が回復している。もちろん、制作期間などの要因が影響している可能性は否定しきれないが、トークにおいて谷口が「現実に近づけたい」と口にしたときに触れられたのは、会期が進むにつれて変わってしまった会場外に存在するポスターを対応させたかったということであり、ギャラリー内の作品についての言及はなかった(*3)。

 おそらくコントローラーを操作するというゲーム的なインタラクションの導入が、こうした純化志向を加速させているのではないだろうか。デンマークのゲーム研究者、イェスパー・ユールも述べるように、ゲームは「機能的な様式化(functional stylization)を使って、虚構世界の面白い部分を選んで実装することができる」(*4)からだ。それによって本作は、谷口の現実と仮想空間についての認識をユーモラスに反映させることに成功している。

 このようにして見ていくと、ステイトメントよろしく本展には現実と虚構を巧みに喚起する作品が散見できる。そしてそれらを読み解いていく鍵となるのは、多様な位相に観察しうるテクスチャーの存在だ。端的にまとめるならば、小山はあくまでもデータ内部にテクスチャー(のようなもの)を現象させ、原田はそれをむしろ強調する戦略をとる。そして谷口の場合はテクスチャーの差異を均し、無効化することによって没入を促し、白昼夢のような眩暈を引き起こす。つまりテクスチャーとは、グラフィックにとって現実、もしくは虚構を立ち上がらせるためのトリガーなのだ。 

長谷川踏太 枯れ葉ふみとポテトチップス 2019

 ゆえに本展の企図は、グラフィックそのものにとどまらず、作品が喚起するテクスチャーの感受へと開かれていく。このような観点に立つと、長谷川踏太《枯れ葉ふみとポテトチップス》(2019)といったインスタレーションを検討する理路も見出せるはずだ。ここでテクスチャーの触覚的喚起能力は、直接的な刺激として提供される。本作はポテトチップスを食べながら体験する作品だ。足元から伝わる枯れ葉の触覚が噛む触覚と重なるとき、葉の摩擦と耳に響く咀嚼音の不安定な類似が、私たちの感覚を撹拌するだろう。

 本作は作者が幼少期に発見したポテトチップスの食し方であるという。このことを知った瞬間、観者は作品から受け取ったテクスチャーが、パーソナルな過去へと飛躍するさまを体感する。これは足元に砂やガラスを配置することで、デジタルなイメージの周辺に物質世界を併置するラファエル・ローゼンダールのインスタレーション作法とは似て非なるものだ。なぜならローゼンダールが環境を情報と物質という二元論のなかでインストールするのに対して、長谷川は環境に個人的な記憶を混入させている。本作はテクスチャーの働きが、現実と虚構、つまり物質と情報にとどまらず、過去、記憶といった観念を呼び込むことも可能であることを明らかにしているだろう。

 こうしたテクスチャーの肌理の検討によって想起されるのが過去であることを踏まえたうえで言及したいのは、亀倉雄策の《大阪万博ポスター》(1967)だ。なぜなら現代のクリエイターたちが、モニターなど自ら発光する媒体をきっかけとして様々な実践を繰り広げる以前から、亀倉はグラフィックが「光る」という問題について真摯に思考していたことがここで思い出されるからである。​

展示風景より。亀倉雄策《大阪万博ポスター》(1967)

 そもそも近代デザインは、造形による明確な伝達を複製技術によって達成することを目指して出発した。太田英茂の主宰した共同広告事務所において短い期間ながらも亀倉が師事し、戦中戦後をまたいで日本のデザイン界を牽引した原弘の昭和初期の仕事場を、デザイナーの祐乗坊宣明は次のように回想している。

 原さんは絵の具というものをまったく持っていなかった。その頃、ようやくポスターカラーが出始めたんですが、そういったものもいっさい持っていなかった。それが原さんの主義でありデザインの方法論でもあったわけです(*5)。

 絵具には流動性と透明性があり、光の反射や陰影を再現するのに適した描画材だ。光を受けて輝く世界を、顔料という物質によって擬似的に再現する。絵具を用いて画家が歴史的に取り組んできたのはそうした課題であったし、モネやセザンヌの作品を見れば分かるように、外部からの刺激をどのように組織化するのかという目論みは、近代絵画においても変わらなかった。

 しかし、祐乗坊が言うように近代デザインにとって、絵具は必須のものではなかった。デザインは表象の再現よりも、レイアウトによってその表現を洗練させてきたからだ。こうした原の姿勢をリスペクトする亀倉もまた、絵具ではなく「コンパスと定規による表現(*6)」にこだわり続けたデザイナーだった。つまり光をいかに反映させるかという課題に取り組んだ絵画=アートとは異なり、デザインは光を再現するよりも、自らの表現によって「光る」ことを目指していた。本展のコンセプトを念頭においたうえで亀倉の放射線状に広がる、宇宙的な光を象徴的に表現したポスターに再確認できるのは、こうしたデザインの根本的な問題設定そのものにほかならない(*7)。

 そして、ここまで触れてきたように、スマートフォンや近年増加傾向にあるデジタルサイネージといった即物的な発光に取り囲まれた現代の美術家もまたその意味を思考し、成果をあげてきている。光は波としても、粒子としても観測できるように、その具現化は様々だ。しかし、太陽光や照明器具の影響とは無関係に発光するスクリーンが遍在する現在、それはデザイン、アートを問わず、あらゆる視覚表現に無視できない問いを投げかけているのだ。

展示風景より。谷口暁彦《まちぼうけ》(2019)

*1ーー第295回クリエイティブサロン(2019年3月20日、銀座クリエイションギャラリーG8、東京)
*2ーー『グラフィック・デザイナーの仕事 太陽レクチャー・ブック001』87頁(平凡社、2003)
*3ーー原田の作品再現についての言及はあったが、それは現実との不一致に関連した反省ではなく、正確さを技術的にどのように追求したのかということの解説だった。
*4ーーイェスパー・ユール『ハーフリアルー虚実のあいだのビデオゲーム』234頁(松永伸司訳、合同会社ニューゲームスオーダー、2016[原著は2005])
*5ーー田中一光『聞き書きデザイン史』73頁(六曜社、2001)
*6ーー小川正隆「グラフィック・デザインの『原点』を求めて 亀倉雄策の果敢な追求」(『亀倉雄策のデザイン』12頁、六曜社、1983)
*7ーー大阪万博では、日本で初めて原子力発電による送電が行われた。東日本大震災における原発事故を経た我々の目から見ると、本作は作者の意図とは関係なく、その光に当時の時勢が二重写しになる。光という自然現象もまた、こうした表象の機制から自由ではありえない。ニコンや国政選挙のポスターにおいても光を主題として取り扱っていることや、日宣美展で発表された《原子力エネルギーを平和産業に!》(1956)がしばしば代表作として取り上げられることも踏まえると、亀倉と光の関係は戦後デザイン史に大きな影を落としている。しかし、このような政治性を直接には喚起しない万博のポスターを選んだ本展のバランス感覚は、鑑賞者に様々な解釈をうながしている。

編集部

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