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草間彌生、最後の展覧会。アムステルダムでたどる70年余りの創作【2/3ページ】

草間彌生とオランダの前衛、Nul(ヌル)運動

 草間のニューヨーク時代として知られる1960年代には、オランダにも長期滞在し、制作を行った。1962年と65年には、前衛アーティストたちによる「Nul(ヌル)」の展覧会に参加し、アムステルダム市立美術館でも新作を発表した。

 《Aggregation: One Thousand Boats Show》(1963)は、無数の白い男根状の突起で覆われた手漕ぎボートと、その船底に置かれた2足の白いハイヒールからなる。作品は黒い部屋に設置され、壁と床には、同じボートを999回描いた壁紙が一面に貼られている。この作品は、彼女の没入型インスタレーション作品への先駆けとしても位置付けられる。作品は展覧会後に、草間自身によって同館に寄贈された。

草間彌生《Aggregation: One Thousand Boats Show》(1963)  撮影:筆者

 批評家、ブライアン・オドハティは「この真に奇妙で、どこか詩的な出来事を、たんなるシュルレアリスム的な悪ふざけとして片付けるべきではない。草間は、奇妙にも心を動かすオブジェと環境を生み出した」と評した(*2)。

 当時はまだ知る人ぞ知る存在だった草間。クーレワイは、回顧展の開催にあたり、4年前に展覧会への招待状を送った際のことを振り返り、「とても前向きに承諾してくれ、1960年代に展示を行った当館のことも覚えていてくれたようだった」と話す。

1965年の「Nul」のオープニングにて着物姿で現れた草間彌生(中央) Photograph by André Morain and Ad Petersen (montage). Collection Stedelijk Museum Amsterdam, courtesy 0-INSTITUTE

 1965年の「Nul」のオープニングで撮影された写真には、グレーのスーツ姿の男性たちに囲まれ、中央に着物姿の草間が映っている。草間は、海外でのパフォーマンスやオープニングには着物で登場することが多かった。これは、当時のニューヨークで、女性でありアジア系の作家として向けられたステレオタイプを、あえて誇張し、作品を通して覆していく行為でもあった。

草間彌生《Walking Piece》(1966) 撮影:筆者
24枚の写真を通して、おさげ髪にピンクの着物をまとい、造花で飾られた傘を手にして、控えめで、受動的な女性を涙を拭う姿やうつむき加減で演じ、ニューヨークの人影のない通りや工業地帯を歩いた。本作ではといった特徴を誇張し、アジア人女性に対して社会がもつ固定観念を正面から問いかけた

*2──ブライアン・オドハティ、無題のレビュー『New York Times』、1963年12月29日。Zelevansky et al. 1998、174頁より引用。筆者翻訳。

個から全体へ

 1960年代後半は、公民権運動やベトナム戦争への反対運動が広がり、アメリカ社会が大きく揺れ動いた時代だった。そんななか、67年6月、草間は「ボディ・フェスティバル」を開催。最初のパフォーマンス《Self-Obliteration: An Audio-Visual-Light Performance》(1967)では、紫外線の下、水着姿のモデルたちの身体に蛍光色の水玉を描いた。同年秋にはオランダ各地でも同パフォーマンスを行い、やがて草間の「ハプニング」は、性の解放や反戦といった当時の社会運動とも結びつき、より政治的な性格を強めていった。《Anatomic Explosions》(1968)では、若いパフォーマーたちにニューヨーク各地で彼らに裸体でパフォーマンスを行わせた。

ニューヨークのブルックリン・ブリッジで行われた《Anatomic Explosion》(1968)のハプニング ゲティ研究所(ロサンゼルス)蔵 ロイ・リキテンスタイン財団より、ハリー・シャンクとヤーノシュ・ケンダーを記念して寄贈 Photo by Shunk-Kender © J. Paul Getty Trust

 無数の点が集まってひとつの模様をつくるように、個人もまた大きな環境の一部となる。身体を水玉で覆う行為は、自我やエゴの境界を曖昧にし、他者や周囲の環境との一体化させる。この人物と背景を同化させる表現は、幼少期に描いた母の肖像画からの延長でもある。

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