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草間彌生、「KUSAMA」をつくったニューヨーク時代を語る

雑誌『美術手帖』の貴重なバックナンバー記事を公開。2002年9月号の特別記事より、草間彌生がアメリカ時代の制作の背景や、著名アーティストたちとの関係を語ったインタビューを紹介する。

聞き手=谷川渥

草間彌生 Photo by Andrew Toth ©getty images

 1929年に長野県に生まれた草間彌生は、幼少期からの幻視・幻聴体験をもとに絵画制作を始め、57年代に単身渡米。ボディ・ペインティングやハプニングのほか、男性器を模した「ソフト・スカルプチャー」、画面いっぱいに網目を描く「ネット・ペインティング」など広く知られるシリーズを展開し、前衛美術家としての地位を確立したのはニューヨーク時代だった。

 2002年に収録されたこのインタビューは、草間と関係の深い批評家の谷川渥を聞き手に、アメリカのアートシーンとの関わりを中心に語る特別記事。学生時代のドナルド・ジャッド、アンディ・ウォーホルへの影響、ジョゼフ・コーネルとの「愛人関係」……。アメリカ戦後美術を代表する錚々たる作家たちとの、知られざるエピソードが語られる。

彼女はいかに時代を駆け抜けたか

爆発的なエネルギーでアメリカの美術界に挑み おのれの病や死と闘ってきたひとりの前衛芸術家── そして時代がいまようやく彼女に追いついた その圧倒的な勝者の言葉を聞け!!

一九五○年代のアメリカ

谷川 最初に僕と草間さんのかかわりについてお話しさせて頂きますと、一九八二年でしたか、草間さんが新宿のフジテレビギャラリーで展覧会をされていて見に行きましたら、草間さん一人だけ会場にぽつんといらっしゃいましてね。ひじように歓迎してくれて、作品一つひとつ全部説明して頂いて、ギャラリーの奥にしまってあるものまで拝見させて頂きました。僕はそのときに、これはすごい芸術家がいるなと感じました。そして、草間さんといつかもっとお話ししたいなという思いが、大阪で展覧会が同時に三か所で開かれるということで、牽牛と織女のように七月七日にようやく実現しました。先日、草間さんの『無限の網』(二〇〇二年、作品社)という自伝が出版されまして、今日はその自伝に沿った話をしていきたいと思います。ます、草間さんがアメリカに行かれるきっかけは、ジョージア・オキーフに手紙を出されたのと同時に瀧口修造ですよね。松本市での個展を瀧口修造が見て、ひじょうに評価されましたね。

草間 瀧口先生には私から作品もって訪ねていって、先生の推薦があって『みづゑ」の表紙になりました。それで日本美術界と関係ができたわけです。

谷川 長野で展覧会を開いたときに瀧口修造が見に来たんじゃなくて、草間さんのほうから東京まで出かけて行ったわけですね。それで彼がアメリカ、プルックリン美術館の水彩画展に紹介したわけですね。

草間 そのときフーズ・フーで住所を調べてロバート・キャラハンに手紙を出したんですよ、いきなり。アメリカの絵描きは誰も知らなかったものですから。その頃、外貨持ち出し禁止で、外国に行かれないことになっていたんです。それでスポンサー・レターとなんの用事で行くのか証明書がいるので、ズ・ドゥザンヌ・ギャラリーでロバート・キャラハンが個展をするのでインビテーション・レターをもらって、個展のオープニングに出席しますってことにしてもらって。それで外務省にかけあって、やっと許可がおりたわけです。アメリカ行くのに八年もかかったわけですよ それだけでものすごいたいへんだったんですよ 毎日毎日、アメリカ行くことばかり言っていました。

谷川 一九五〇年代にアメリカ行くって大変なことですよね。

草間 そう。誰も行く人いなかったんですよ。

谷川 それでNYに行かれてからも、ものすごく苦労されましたよね。

草間 日本から着物もっていって売ったりね、宝石もっていったり、向こうへは現金もたないで行ったからね、たいへんだったですね。

谷川 一九五八年のプラタ・ギャラリーでの最初の展覧会は、たいへんな評判になったわけですね。たくさんの評がでていますね。

草間 ええ。 一躍ね、スターになっちゃったわけ。

谷川 それで、ドナルド・ジャッドと知り合ったのはその後ですか?

草間 彼はコロンビア大学の学生で、私の評論を書いてね、絶賛してくれたの。ジャッドさんは美術家、彫刻家になるとは夢にも思ってなかったんですよ。実際は僕も作品もってんだって見せられたのね。このくらい小さいの、ワイヤーが真ん中に飛び出して、エヴァ・ヘスがやったような作品の小型があったり、あとはアクション・ペインティングだったんです。自分も芸術家になろうかなって言い出したので、私がスタジオ探してあげたんです。それからジャッドさんに下が空いてるから来ないかって言われて、私もそこに移ったわけです。

谷川 草間さんはアメリカの戦後美術を代表する人とみんな関わっていて、ある種の焦点になっているわけです。その頃のNYの批評を読みますと、モノクロームということでものすごく評価されていましたね。

草間 そのころのNYにはモノクロームの作品がなかったわけです。限り無い網ばっかりでなんにもない展覧会をしたんですよ。それで、私がモノクロームの展覧会だって、なんにもなくて白一色の作品だって美術批評家に言ったわけですよ。

谷川 アド・ラインハートとか、マーク・ロスコだとか、ジャッドなんかバーネット・ニューマンの名前すら出してますね。モノクローム系列というかアメリカ的文脈に草間さんを取り込もうとして。それから一九六二年にある種の展開をとげますよね。

草間彌生のプライオリティ

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