「4章 あたらしい世代、あたらしい関係」では、1990年代に台頭した日韓双方の若い作家たちの新たな表現に注目する。当時、日本で学ぶ韓国人学生は数多くいたが、その逆はほとんど例がなかった。こうした状況に風穴を開けたのが、92年にソウルで開催された中村政人と村上隆による「中村と村上展」であった。本章では、この2人展と、同時期にソウルを拠点にしていたイ・ブルの作品を手がかりに、新たな潮流を読み解いていく。



最終章「5章 ともに生きる」では、1980年代から現在までの日韓アーティストの取り組みに焦点を当てる。富山妙子、イ・ウンノ(李應魯)、パク・インギョン(朴仁景)など、韓国民主化運動に連帯した作品をはじめ、社会で見過ごされがちな課題を表現を通して提示する現代作家の作品が紹介される。


なかでも目を引くのが、在日コリアン2世のパートナーを持つ高嶺格による《ベイビーインサドン》(2004)だ。結婚式の写真や映像、高嶺のテキストが日韓両表記で構成され、会うことを避けてきたパートナーの父(アボジ、在日1世)との関係を前に、高嶺が抱いた葛藤が物語性をもってせまってくる。


展示の最後を飾るのは、田中功起による映像作品《可傷的な歴史(ロードムービー)》(2018)。本展のメインビジュアルでもあるこの作品は、在日コリアン3世のウヒと、日系アメリカ人にルーツを持つスイス人のクリスチャンが対話を重ね、「アイデンティティを保ちながら、どのようにともに生きるか」という問いに向き合っていく。
本展タイトル「いつもとなりにいるから」が示すように、両国はこれまでも、そしてこれからも隣りあって生きていく。支配と被支配という複雑な歴史を抱えつつも、両国は近しい存在として共感や共通の課題も共有している。本展は、そうした歴史的事実や交流にもとづき、今後どのような関係が築けるのか、未来への問いとして提示しているように感じられた。

なお、同館の無料スペースとして一般開放されているギャラリー8では、百瀬文とイム・フンスンが映像による交換日記を紡いだプロジェクトが紹介されている。異なる立場の二人によって交わされる対話は、ときに似通うこともあれば、真逆の受け取られ方をしてしまうこともあるという。ここで示されている「普遍的なものは、個人的なものからしか語り得ない」というイムの考え方は、本展に通底するテーマでもあると感じられた。このプロジェクトは誰でも鑑賞できるため、本展へ足を運ぶきっかけにもなりそうだ。




















