1874年に第1回印象派展が開催されてから150年の節目を迎えることを記念して、クロード・モネの作品60点以上が一堂に会する展覧会「モネ 連作の情景」が上野の森美術館でスタートした。柔らかな色使いと温かい光の表現を得意としたモネは、どのように自らのスタイルを確立したのだろうか。睡蓮の池を映像とモネの絵画作品の床への転写で表現したエントランスから、展示へと向かう。
全5章で構成されるこの展覧会の第1章は、「印象派以前のモネ」。当時のフランスの画家にとって、評価を受ける唯一の場であり、最高の市場でもあったサロン(官展)を目指していたモネは、初挑戦した1865年に2点の風景画で入選。翌年にも2点が入選するも、1867年から審査が厳しくなり、総じて無難な作品が評価され、新しい表現には不寛容だった。
落選が続き、1870年には室内の人物画大作《昼食》が、一説によると歴史画に使われるべき大画面に卑俗な日常を描いた点が保守派に嫌われたために落選。モネの理解者でサロン審査員を務めていたドービニーは、抗議のために審査員を辞任し、物議をかもした。この章では、その《昼食》が日本初公開されるほか、オランダの水辺の景色を描いた風景画や肖像画などが並ぶ。
続く第2章は「印象派の画家、モネ」。1870年に普仏戦争が勃発すると、徴兵を逃がれるためにモネは妻子を連れてロンドンに避難する。休戦後はオランダに滞在し、翌1871年にフランスに戻ると、1871年末からパリ北西のアルジャントゥイユで暮らし始める。セーヌ川に面した風光明媚なこの地で、マネやルノワールなどのサロンに落選した同志たちも制作を行うようになる。そして、彼らは新たなグループ展を構想。1874年春にパリで開催された「第1回印象派展」がそれだ。印象派の由来となったモネの《印象、日の出》(1872)は出展されていないが、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れ、光を捉え、四季折々の景色を豊かな色彩で描く印象派画家の初期の表現が並ぶ。
展示第3章は「テーマへの集中」。新たな画題を求めてヨーロッパ各地を精力的に旅し、ときにはひとつの場所に数ヶ月滞在して集中的に、あるいは繰り返し通いながら断続的に制作した。モネはその地名を作品名に加えることも多く、ここで取り上げられる作品には、ヴァランジュヴィル、プールヴィル、ラ・マンヌポルトなどの地名が出てくる。ノルマンディー地方の地名であり、海辺で表現を探求し、多くの人が想像するモネらしさをパッと感じさせる滲みのある作品と、クリアな筆致で描かれた作品の両方が並列して展示されている。ひとつのテーマに多角的に取り組む姿勢が、のちの「連作」を予感させる。
「連作の画家、モネ」と題された第4章に入ると、すぐに《積みわら》が目に入ってくる。モネが体系的に「連作」を手がけるようになった最初のモチーフだと考えられている。1883年に42歳のモネが移り住んだ南フランスのセーヌ川流域のジヴェルニーで、秋の風物詩となっている光景だ。陽の光を受けて姿が変わる様子を、また、積みわらの周囲の様子の移ろいも合わせてキャンバスに収めた。
1899年から1901年にかけては何度もロンドンを訪れ、《ウォータールー橋》などを数年にわたって描いた。テムズ川の霧、大気を描くモチベーションは、ノルマンディーを訪ねたときのそれと類似しているのだろうか。
「連作」には、浮世絵からの影響も指摘されている。同じ版木で、昼と夜を刷りわけた作品もある歌川広重の『東都名所』などを所蔵していたこともわかっているからだ。
最後の第5章は、「睡蓮とジヴェルニーの庭」。後半生を過ごしたジヴェルニーの地は、モネの創作に刺激を与え続けた。庭に咲く藤や芍薬など多彩な植物を描き、睡蓮の池を整備し、そこで見たものを色と光の抽象化した画面に落とし込んでいった。やがて視力が衰えると筆致が荒くなり、滲みの表現からまた異なる展開を見せた。
展示最後には、撮影不可の作品《薔薇の中の家》が展示されている。死の前年に描かれたこの作品には、塗られていないキャンバスの余白があり、未完成作品ではないかとも言われている。緑と紫が相まってうねるように描かれたこの作品は、モネの残したエネルギーがその余白から呼吸をしているようにすら想像させる。展覧会エントランスのジヴェルニーの睡蓮の池の演出から、同地での最晩年に手がけた作品への連環を感じさせる展示構成にも着目したい。