東京国立博物館の「出雲と大和」は、出雲と大和の名宝が一堂に集結し、いにしえの日本の成立とその発展を知ることができる展覧会だ。
会場は、出雲をおもに取り上げる「巨大本殿 出雲大社」「出雲 古代祭祀の源流」と、大和をおもに取り上げる「大和 王権誕生の地」「仏と政(まつりごと)」の全4章から成る。
第1章「巨大本殿 出雲大社」の会場入口には、ふたつの巨大な柱《心御柱(しんのみはしら)》(1248)と《宇豆柱(うづばしら)》(1248)が展示されている。これは鎌倉時代の出雲大社本殿を支えていた柱で、2000年に出雲大社の境内から発掘されたものだ。ふたつの柱が一緒に展示されるのは初めてのこととなり、当時と同じように揃えられた両柱の間隔から、その偉容を想像することができる。
平安時代の出雲大社の本殿を約10分の1の大きさで再現した模型とともに展示されるのが、大柱のかすがいや金具、柱をつくる際の儀礼に使われていた祭具、そして江戸時代に至るまでの奉納品の数々だ。
日常生活から祭祀に至るまで使われていたものと思われる、7〜8世紀の須恵器や土師器(はじき)が出雲大社の境内からは出土しており、その豊かな造形に触れられる。
また、室町幕府の6代将軍・足利義教のもので、8代将軍の義政が出雲大社に奉納したと伝えられる《赤糸威肩白鎧》(15〜16世紀)をはじめ、武家や武将が奉納した兜や鎧、太刀も目を見張る。
第2章「出雲 古代祭祀の源流」では、出雲が祭祀の地となった過程を、考古学的資料を参照しつつ弥生時代より解き明かすことを試みる。
弥生時代の出雲は、稲作の伝播とともに日本海を通じた大陸との交流もあり、独自の文化が生まれていた。島根県立古代出雲歴史博物館の《模型 加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元》(2019)は、加茂岩倉遺跡で発見された銅鐸が、祭祀のために地中に埋納されるときの状態を復元したもの。銅鐸の色も当時のものを可能な限り再現しており、本展で展示されている発掘品が本来どういった色であったのかを知る助けとなる。
圧巻なのが、祭器である銅剣168本の展示だ。これは島根・出雲市の荒神谷遺跡で84年に出土した銅剣で、弥生時代の青銅器研究に大きな衝撃を与えたという。各個を見比べても大差がなく、大きさや重さが規格化されていることがわかり、当時の鋳型による量産技術の高さがうかがえる。
ほかにも島根・雲南市の加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸や、荒神谷遺跡から出土した銅矛などが展示され、他の九州・四国地域で発見された銅鐸や銅矛の鋳型との共通性から、当時の生産や流通の実態を知ることができる。
第3章「大和 王権誕生の地」は5、6世紀のものを中心に展示。大和に誕生した王権は、5世紀以降に朝鮮半島から伝わってきた文物や技術を地方の豪族に与えることで、その基盤をより強固なものとした。
国宝の《七支刀》(4世紀)は百済と大和の王権との関係を象徴するような存在だ。奈良の石上神宮に伝わる刃先が7つにわかれた宝剣で、古墳時代より伝世されてきた。金象嵌による銘文から、4世紀に朝鮮半島の百済の王から倭の王に送られたものと考えられている。『日本書記』にもこの《七支刀》のことが記されており、今回は実物を見られる貴重な機会といえる。
大和と出雲の両地で出土した埴輪も織りませながら展示され、お互いの交流を知ることができる。島根・松江市の島田1号墳から出土した《埴輪 男子》(5世紀)や、松江市の平所遺跡から出土した《埴輪 飾り馬》(5〜6世紀)などは、それぞれ大和で発見された埴輪と共通点が多く、埴輪制作における技術交流があったことがわかる。
第4章は「仏と政」だ。6世紀半ばに仏教が伝来し、政治や権力の象徴が古墳から寺院へと移り変わるとともに、多くの仏像が伝来したり、国内でつくられるようになった。天皇を中心に仏教を基本とした国づくりが行われるようになると、四天王像のような国を守護する尊像づくりも目立つようになる。
《如来および両脇侍立像》(6〜7世紀)は、中央の如来の左右に脇侍菩薩が立ち並ぶ、一光三尊像。近年の科学調査により、如来部分は朝鮮半島、両側の脇侍は日本でつくられた可能性が高いとされた。仏教の伝来における大陸との関係性がうかがえる仏像だ。
国土の安寧の守護を願って、8世紀に鑑真が建立した唐招提寺の金堂の4隅に配置された四天王像。そのうちの《広目天立像》と《多聞天立像》も展示されている。双方に中国彫刻の影響が見られ、鑑真とともに来日した工人の関与が推定される。
日本の基盤がかたちづくられた弥生から奈良にかけての時代を中心に、貴重な出土品や美術品が集まった本展。豊富な展示品によって、歴史に呼応し変化していった当時の社会状況までを知ることができる、興味深い展示となっている。