特別展「生誕151年からの鹿子木孟郎 ー不倒の油画道ー」(泉屋博古館)開幕レポート。日本洋画に写実をもたらしたひとりの画家の足跡をたどる【3/5ページ】

 第2章「タケシロウ、太平洋を渡ってパリまで行く。」では、鹿子木の3度にわたる留学のうち、1900年に出発した1回目に焦点が当てられる。鹿子木はアカデミー・ジュリアンのジャン=ポール・ローランス教室に入学し、西洋絵画の基礎である人体デッサンから、油彩の裸体写生を学ぶ。ローランスによる歴史画の群像表現に深く感動したことをきっかけに、これ以降全身像の習得に力を注いでいる。会場にある《男裸体習作(背面)》や《女性裸体スケッチ(椅子)》からは、アカデミー・ジュリアンでの学習の様子がうかがえる。

展示風景より、左:鹿子木孟郎《男裸体習作(背面)》(1902)岡山県立美術館、右:鹿子木孟郎《女性裸体スケッチ(椅子)》【前期展示】9月27日〜11月3日

 そして帰国後は、京都に「鹿子木室町画塾」を開設し、次世代の育成にも力を入れはじめる。いっぽう、自身の作品も次々と発表し、画壇における地位も確立していった。《自画像》からはその時代の自信に満ちあふれた様子がうかがえる。

展示風景より、鹿子木孟郎《自画像》(1903)

 また本章では、師匠であるローランスの作品も展覧される。鹿子木は、布の皺の描き方といった細かいところまで隅々とローランス作品を研究し、自身の作品に生かしている。パリ留学時に支援をしてくれた住友家とは長い付き合いとなる鹿子木だが、本章で展覧されるローランスの《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》は、鹿子木が仲介し住友家の応接間に飾られていたものだ。

展示風景より、ジャン=ポール・ポーランス《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》(1877)【前期展示】9月27日〜11月3日

編集部