写真という思い込みを疑い、現代の「洞窟」としてホテルを見た。写真家・横田大輔インタビュー

記憶と現在、イメージと現実の関係性を制作のテーマに据え、国内外で写真作品を発表してきた横田大輔。日本では3年ぶりとなる新作個展「Room. Pt. 1」が、東京・銀座のガーディアン・ガーデンで6月22日まで開催中だ。本展で横田は、「大量の写真をもとに大量の写真集をつくる」という当初の展示プランとは大きく異なる、インスタレーションや映像などからなる展示を出現させている。本展の意図、そしてこれまでの活動について、横田に話を聞いた。

聞き手・構成=原田裕規

横田大輔 「Room. Pt. 1」展(ガーディアン・ガーデン)の会場にて 撮影=岩澤高雄

産地直送鮮度命

——本展「Room. Pt. 1」は、横田さんにとってガーディアン・ガーデンでは2度目の個展です。1度目は2010年に第2回写真「1_WALL」でグランプリを取られたときの個展、そして今回はそれから約10年を経ての個展となります。まず、当時のことを振り返ってみていかがでしょうか?

 グランプリを受賞したことはすごく嬉しいことだったんですが、それまでは業界に知り合いも少なく、ひきこもって制作していたタイプだったので人前でプレゼンすること自体が初めてで。しかも審査員が鈴木理策さん、野口里佳さん、町口覚さん、竹内万里子さん、菊地敦己さんと豪華な面々だったので、緊張でだいぶストレスを受けました(笑)。でもそれがすごく良い経験で、あれだけ真剣に自作について考えなきゃいけない環境をつくっていただけたこと自体が重要なことでしたね。

——とくに答えるのが大変だった質問などはありましたか?

 やっぱりストレートに「何をやりたいの?」という問いに答えるのが難しかったですね。写真って、ある意味撮れば作品になるじゃないですか。でもそれと自分がなぜつながるのかということを客観的に考えてまとめることが当時は全然できなくて……。

——今回の個展にあわせて出された長文のステートメントの中で、横田さんは写真を「産地直送鮮度命」的に、つくったそばから写真集にしてしまうということも書かれていました。その意味だと、それがなんであるのかが理解されるよりも前に、ひとまずかたちにして出してしまうような「速さ」が横田さんの制作にはつきまとっているのでしょうか?

 そうですね。ぼくは「ひとつの写真にまつわる場を設けること」が大切だと思っていて。例えば、あるときにふと「東京を旅行したことないな」と思ったことがあって、家出するみたいに立川で2ヶ月くらいホテルを転々としたことがあったんですけど、その期間中には「撮影したものは全部作品になる」という前提を設けていました。

 そのうえで、被写体や撮り方を絞っていかないといけないんですけど、そもそもそういう作業も好きではない。ただ立川に滞在しているなかで、旅行者的な距離感をいかに保つのか、写真を撮ることに持っていかれ過ぎないようにすること、自然な振る舞いをコントロールしたうえで写真を撮ることを大切にしていました。

 だから、写真によって行動は規定されるけど、こっちは写真をコントロールしすぎないという半々の関係性がいいなと思っています。ゆえに、編集もせずなるべく撮ったまま出すということをして、その半々の関係性を最後まで保とうと。そういう意味で、写真の「鮮度」を保つことに関心が強かったと思いますね。

横田大輔 撮影=岩澤高雄

展示からは距離を取っていた

——今回の展示では、いろいろな経緯の末に展示プランの変更があり、最終的にはインスタレーションや映像から成る複雑な「構成」が出現しました。ここに至るまでにどのような変遷があったのでしょうか?

 2011年以降はコマーシャルな場で作品を展示することが多くなっていたんですが、例えば運びやすいものや保存しやすいものなど、商品として考えるフィルターが強くなってきていたのがすごく嫌で。特に写真は誰でも撮れちゃうので、一見したら格好いいものが量産できてしまう。そういう「平均化」にも抵抗があり、写真界で年に数回ある主要なアートフェアやブックフェアから個人としてはいったん身を引こうと思って、展示からも距離を取っていました。

 そんななかで、本の制作の際の撮って出しの方法論にも思うところがあって……。言ってしまえば「箱にものを詰めてそのまま出すだけ」なので発展性がなく、飽きたという話です。でも、次に進まなくてはいけないなという意識もあったので、鮮度を保ったままいかに写真を構成するのかということをいまの課題に据えていますね。

——それを明確に出すようになったのは、今回の個展からでしょうか?

 はい。最初は部屋をメインの撮影場所にして、大量の写真をもとに大量の写真集をつくる展示プランを考えていたんですが、結局撮る対象が部屋なだけで、いままでの本のつくり方と変わらないんじゃないかと思って、思い切って本を切り捨てた形での「構成」を考えることにしました。それと、最近は「コラージュ」に興味があって。ただ、いわゆるコラージュ的な意匠に興味があるわけではなく、ひとつの面に直に触れて空間を組み立てていくという行為、そこで行われる「接触」に興味があります。

 基本的に写真は一枚絵なので、普通は「この写真はいついつのあそこですよ」みたいに時間と場所を限定していきますよね。でも空間を組み立てていく作業の中には時間の蓄積が生まれるので、そこにある時間と空間に奥行きが生まれればいいなと。

横田大輔  Untitled, for「Room. Pt. 1」 2019

アボリジニの時間と空間

——これもステートメントに書かれていた話ですが、最近アボリジニの時間/空間概念に興味があるという話もとても気になりました。

 以前知り合いから「アボリジニの人たちにとって時間という感覚は穴として存在している」と聞いて以来、その感覚が気になるようになっていました。彼らはいわゆる箱状の家に住んでいなくて、おそらく大半の時間を外で移動しながら過ごしていたんじゃないかと思うんです。そのときに、閉鎖された「内」に滞在する時間があまりなかったためか、洞窟のような「穴」は彼らにとって特別だったと思うんですね。

 というのも、そこは外部から隔絶しているので、入り口の安全さえ保たれていれば穴全体の安全も担保できる場所だったし、緊張状態から解放される数少ない場所だったはず。それに対して現代では、普通に考えると「家」が穴の役割を果たしているような気がするじゃないですか。でも外においても様々なルールの元に安全は保たれているし、定住することによって家の中と外はゆるやかにつながりを持つようになるから、閉じているようで閉じてない。今回、穴的な場所として、ステートメントのなかで「ラブホテル」をピックアップしたのですが、その理由は、現代の「家」は仮初めの場所だと思ったからです。毎日同じ場所に帰ってきて、寝て、再び出ていく場所という意味ですね。

 それを別の言い方で言えば、家は日常というシステムの連続性の中にちゃんと組み込まれているということになります。それに対してラブホテルは、例えば渋谷に古いラブホがあるんですけど、そこが10年前から内装も含めて何も変わっていない。本当にシンプルな箱状の空間に窓枠とベッドがあるだけ。

 そんな空間に、誰かと行くわけでもなくひとりで行ってぼーっとしていると、10年前といまの差異もあまり感じなくなるんですね。つまり洞窟と同じように、そこは「閉ざされた空間」であって、そのことに意味があると思っています。

横田大輔  Untitled, for「Room. Pt. 1」 2019

カメラオブスキュラとしてのラブホテル

——ラブホテルのお話から思い出したのは、横田さんが「カメラオブスキュラの段階を写真としてとらえること」に興味があり、そのために必要なのは「光と光の入らない空間そして穴」であると書かれていたことです。おそらく横田さんにとってのラブホテルは「光の入らない空間」を言い換えたものですよね。それもただたんに「暗い」だけでなく、意味という「光」からも隔絶されていることが重要なんだなと。

 ラブホテルにひとりで行くと、「ただそこにいること」が目的になるので、その先を考える必要もなくて、タイムアウトになったら出て行くだけでいい。そのような無意味な時間の中にいると、白昼夢を見ているかのように思わぬ記憶が呼び起こされたりすることがあったりして、意識があるけれどどこか上の空みたいというか……それがぼくにとって「写真的」なんです。

 洞窟の話で言えば、穴を通って暗い空間に差し込まれる光の像はなかば幻覚のようなものですよね。そこに投影された像は外の世界のものなんだけど、それは外そのものではない。見ている人はそこから外の世界を想像しているに過ぎない。その場にいるにもかかわらず、その他の場を空想するという行為が、ぼくにはとても写真的に感じられるんです。

 だから、そういう意味でラブホテルを現代の「洞窟」としてとらえていて、その空間自体がカメラオブスキュラの比喩とも重なってイメージできたんですね。

——そういう空間の時間感覚はきっとおかしなものになりますよね?

 なりますね。ぼくは特定の場所に勤めていない期間が長く続いていて、普段の生活リズムもぐちゃぐちゃなんですけど、そうなるとすぐに曜日や時間が分からなくなるんですね。要するに「規則正しい」とされる生活は、いまの自分がどこにいるのかを時間的に数値化することで可能になること。これは誰でも経験することだと思うんですが、一度その数値化から外れてみると、そこにある連続性がいかに脆いものであるかがわかると思います。

——ぼくは以前から、横田さんの作品はとても「混乱」していると感じていました。それは今お話しされているように、時間や空間が「散らかったさま」の「自然」をとらえようとしている印象でもあって、それは世界を「撮って出し」しようとする態度でもあると思いますが、ここにきて横田さんが「構成」に向かわれていることが気になっています。先ほどは「飽き」があると仰っていましたが、もしそれが「慣れ」を避けようという態度であるのならば、これまでとは別のやり方で「混乱」に向き合い直されているということでしょうか?

 そうですね。いかに偶然に委ねようとしても、制作には手順が存在していて、写真の枚数を増やしたり、手順の段階を増やしたりすることでエラーを誘発することは可能だけど、それも確立の問題に過ぎないので、慣れてくるとだいたい予想できちゃうようになってしまいます。そうすると異常なことも起きなくなってきますよね。

横田大輔 「Room. Pt. 1」展(ガーディアン・ガーデン)の会場にて 撮影=岩澤高雄

​——作業的には、支持体への向き合い方を拡大することにもつながりますか?

 つながると思います。基本的に光を投影する先はなんでもいいと思っていて、そこに何があっても……たとえ人がいようが、光が付着する場所があればなんでもいいと思っています。「イメージと支持体が一致して固定されたもの」が写真ではなく、そのふたつが行き来していくなかでともに変化していく運動を「写真」としてとらえたい。そういう意味では、必然的に支持体の枠が拡がっていきます。さらに言うと、拡げながら、その行き来する運動を途絶えさせないようにすることが重要なんです。

——とても面白いお話ですね。

 そもそも写真は自然現象だったと思うんです。人間が関与しない場所、例えば洞窟に小さい穴が空いていて、たまたま光が差し込んでカメラオブスキュラ状態になりうるわけですよね。それを定着させて所有できる状態にしたのが、一般的に言われている写真に過ぎない。

 じゃあ、カメラをつくってコンパクトにする技術の発展がいまの写真観を形成しているとして、結局ぼくが撮っている画像も自分でつくっているんじゃなくてカメラメーカーの人たちのコントロール下で起きていることに過ぎない。そう考えたとき、なんか嫌な感じがしたんですよ。「これが写真だ」ということを思い込まされているだけなんじゃないかと。

 そこで「ちょっと待てよ」「カメラ以前の写真というのも存在するし、その過程で大切なものを見落としているんじゃないか?」と思うようになりました。それで一度立ち戻ることにして、いわゆる「光と影」をモノ主体にとらえるのではなく、それを経て人間の頭の中で起きることが一番面白いんじゃないかと思うようになりました。人間の認識が介在しない写真はただの物質だけど、それを人間が見て、ある時間や場所を思い浮かべることで「写真」がやっと面白い現象になる。写真を考えることは人間自体を考えることになるんじゃないかと。

「Room. Pt. 1」展(ガーディアン・ガーデン)展示風景 写真提供=ガーディアン・ガーデン

——今回の展示作品では、どのような形でその「写真」への認識を表現されましたか?

 今回の出品作で使っている全画像は映像作品《Untitled》に含まれていて、例えばここで流している洞窟の映像をOPPシートに印刷して、さらに印画紙に乗せて上から焼き付けた作品があったり、PVCにUVダイレクトプリントを施した作品をネガとしてパネル作品に焼き付けたりと、まだまだ不十分だけど、それぞれの作品同士に直接的な関係性を持たせることをルールにしました。

——これから作品にどのような変化が起きていくのでしょうか?

 単純な話なんですが、いままでは自宅で制作してきたんですけど、結局そこに入るものしかつくれないじゃないですか。自分の考えられるスケールが空間によって制御されてしまうというか。

 例えばパソコン周りとかの作業スペースは、考えなくてもものを取れる整理された状態がいいという人もいますよね。でもぼくの場合はぐちゃぐちゃな方がよくて、整理されていると逆に分かんなくなっちゃうんですよね。そういう意味だと、自分の部屋と自分の頭の中がリンクしていて。2〜3年前に引越しをしたんですが、今回はそれ以後初めての個展でした。だからこれからも引越しのたびに作品も変わってくるような気もします(笑)。

編集部

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