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2022.1.10

田中泯が語る、踊りへの想い。「間違いなく一瞬一瞬が違うときとして生きたい」

即興による“場踊り”で世界を魅了するダンサー・田中泯。ドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』(監督 犬童一心)の公開を控える彼に、インタビューを行った。

聞き手=中島良平

田中泯 撮影=中島良平
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 2017年8月27日から2019年11月25日にかけて、田中泯は3ヶ国33ヶ所で90の踊りを披露した。ドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』の撮影はその期間で行われ、山梨県“桃花村”で野良仕事を行う様子からポルトガルやフランスなどで行われたパフォーマンスまでがカメラに収められた。

「世界は止まらない」

──映画のなかで、30代後半にアルシオーネの曲をよく流し、リズムに合わせずに踊っていたという話をされていました。リズムに対して、どう踊りで対峙してこられたのでしょうか。

 僕がリズムに合わせて踊るのは、西洋のリズムではなくて、盆踊りなんかの日本の笛とか太鼓とかの世界です。僕がちっちゃい時には、それがすごく快感に近かった。でも、ひとりで踊るときは、自分のリズムというか僕の中にあるメロディで踊っているということもあるわけですね。

 音楽と踊りの関係というのは結構古くからあって、始まりの始まりは、まさに鼓動に近いようなリズムが生きていたんじゃないかと思います。機械がつくるリズムなんていうのは、人間の演奏には本当はなくて、人間が演奏している限り、必ずリズムはズレてくるし、間が変わってくる。それで、僕自身は70年代の中頃から、即興音楽に触れるようになった。即興音楽と即興ダンスでコラボレーションすることもすごくたくさん経験してきました。

映画『名付けようのない踊り』より ©2021「名付けようのない踊り」製作委員会

──即興では、ご自身の内側にあるものや目に入ってくるものから、リズムが生まれるのでしょうか。

 音楽と一体化した踊りというのは、映像で見せられる一番短絡的な方法だと思うんです。テレビに出てくるダンスなんかがそうで、そういう踊りがリズムとズレていくと、見ていてちょっとわけがわからなくなりますよね。たんなる出鱈目にも見えちゃう。でも現場にいると、それは違うんですよ。聞こえることも見えることも、やっぱり現場性というのは、相当感覚的に違うものがありますね。

──まさに、「いままさに居る、その場所と踊る」泯さんの“場踊り”につながりますね。場踊りでは周りの人や空間との内なるコミュニケーションが生まれているのでしょうか。

 人がいることが前提ではないんだけど、ある種、踊っているときの頭の構造の中で人の視線を感じていて、自分の踊りの向きが出てくるわけですね。頭の中に人の視線をつくっておくと、僕がいる風景がどういう風に見えるかまで意識に入ってきて踊りをすることもあるんです。逆に、自分のところだけで踊りを動かしていくこともあります。

──そのときは意識と無意識をどのようにコントロールされているのでしょうか。

 無意識の方から始まるような気がしますね。昔は意識から無意識をつくっていく感じだったけど、いまは無意識でふっとやってしまうこと、あるいは、やれたことが、むしろ根拠になって次へ飛躍していく感じが強いかな。まだ成長途中なんでね。

──変化し続けることを重視されているのですね。流派やマスターピースを作るのは違うと感じられている。

 ええ、僕は「世界は止まらないんだ」ということを大前提にしています。ですから、僕が固定した人間になるなんてことはありえないわけで。アートビジネスにはなんの興味もないんです。

映画『名付けようのない踊り』より ©2021「名付けようのない踊り」製作委員会

踊りはやむを得ぬ表現行為

──体から衝動が湧き上がるような瞬間があるのでしょうか。

 ありますね。起きたら早く外に飛び出していきたいと思うことがあって、それはやっぱり体から始まりますね。気持ちからじゃないですよね。体は動き出して、頭では「あれ、今日どうなっているの?」みたいになるときはありますよね。

──その衝動が、踊りの引き出しになるのでしょうか。

 もちろんそれもあると思うけど、そういう場合って感覚が強く残りますよね。感覚の衝動って言ったらいいのかな。感覚が起きたことが契機になって動き始めるということなので、動きが意味をもたらすわけではないんだと思います。唯一その動きが持つ意味というのは、僕にフィードバックを課してくることなんですよね。動いた結果として気持ちに何が起こるか、意識に何が起こるか。

 踊り全般にわたって、本当は意味などないんですよ。日本舞踊と呼ばれているものや歌舞伎舞踊と呼ばれているものは、もともと言葉が先にあって、それを動きに翻訳して生まれました。そういった意味では、踊りの発生とあんまり関係ないわけですね。踊りはおそらく、物語もキャラクターも無しに発生した、やむを得ぬ表現行為だったと思います。それが多分コミュニケーションの重要な鍵になっていたんじゃないかな。そこから、言葉を切望していくというのは、人間の歴史的な条件だったと思いますね。

──映画にも「踊りは言葉を待っていた」という表現が出てきますね。

 踊りのために言葉を熱望していたというか、待っていたんだと僕は思います。踊りと言葉が分かれるために、言葉が生まれたわけではない。踊りは絶対万能じゃなかったんですよ。言葉もおそらく、どのくらいの時間かわからないけれど、本当に純粋なもの、ストレートなものだけで成立していたし、人間がいまのように腐るほど言葉の技術を持ってしまうような時代ではなかったはずですから。少なくとも縄文あたりまでは、本当にプリミティブな意味合いをしっかりと残していたと思いますけどね。

映画『名付けようのない踊り』より ©2021「名付けようのない踊り」製作委員会

──1978年にパリ秋の芸術祭で踊られました。フランスで純粋な表現として論じる対象になったことに、当時どのように感じましたか。

 どこにいくのかわからない状態を彼らは面白いと思ってくれたし、そのことを議論する対象にもしてくれたんですね。それは、本当に初めての幸せだったかもしれないですね。日本では、裸ばっかり議論されるんですよ。いいことなのか悪いことなのか、みたいにして。

 一番嬉しかったのは、一人ひとりの人が「私はこういう風に見て思った」「私の中にこんなイメージが湧き上がってきた」とか言ってくれるんだよね。その自由度にすごく驚きましたね。日本の場合は、「意味はなんなんだ」とか「何を表現したいんだ」とかで、自分のイマジネーションがまったく動いていないんですよね。「見ていて何にも感じなかったんですか?」と言いたくなるよね。

──フランスでは哲学者、ロジェ・カイヨワさんの前でも踊られましたね。

 カイヨワさんは集中するエネルギーがすごく強くて、本当になんていうか、狂気のようにこっちに向かって来るような強さを感じました。だから、自分の踊りが踊れたのかどうか定かでないような状態で終わったんですけど、でも、「人から名付けられるような踊りではなくて、いつまで経っても、誰も何と言っていいかわからないような状態というのを維持してほしい」というふうに言ってくれたんですよね。

 言ってみれば、彼が魅力を感じている石とかものに近いものとして受け止めてくれたんだろうと思います。だから僕の情緒もへったくれもないわけですね。それはすごく嬉しかったし、ピンとくる話だったんです。すでに、僕が日本で習い始めた新しい西洋の踊りというのは、自分の感情や思いを自由に自分の体を使って表現するっていうことだったんですよ。でも僕はそれで、「踊りってそういうものだったっけ?」というところにうわーと落ち込んでいくことになって。そこからですね、自分の頭で踊りってなんなのかを考えてみようというふうになったんですよね。

 自分の奥深くにある自分を表現するということに対して、僕は違うと感じていたんです。「そんな恥ずかしいことやる?」という気分でもあった。それではなくても、僕の体はたったひとつの個人的なものじゃないですか。これが踊りを踊っているだけですでに十分なはずですよ。

映画『名付けようのない踊り』より ©2021「名付けようのない踊り」製作委員会

自然と自分との関係をメジャーしないといけない

──泯さんにとって、続けるというのはどういうことなんでしょうか。

 好奇心とか集中する力とかに近寄った話になっちゃうと思うんですけど、例えば、日本の伝統の多くは、繰り返し繰り返し同じことを練習して、ある種の技を取得していくわけですよね。西洋はその時間が本当にかからないですね。もちろん技を体得していく先に深みというものがあるとすると、これは思想的にはアフォーダンスというのかな。ふっと訪れてくる境地というか、時間が約束するものではないですよね。そういう意味での伝統は、僕は大好きなんだけど。

 繰り返し繰り返しやるということをどこかで退屈なものだとしてしまうのは、大人の思想なわけですね。大人は子供たちに「毎日同じことをして遊んで、よく飽きないね」と言うけれど、「飽きていない」という事実があるわけじゃないですか。彼らにとっては「同じこと」じゃないんだよね。彼らは、間違いなく1日1日を生きているんですよ。体で。この差異というのを大人は絶望的に思わないといけないと思うんだよね。

 僕はそれを愛しているんです。子供のように、間違いなく一瞬一瞬が違うときとして生きたいと、本当に思います。即興に流れたのもそうなんですよ。同じことをやるにしても、僕自身はある時間をかけてやっていくべきだろうと思います。

──2度と同じ瞬間はないということですよね。

 ないです。地球の回転もね、同じ回転をしているかもしれないけど、地軸は傾き、さらに傾く。だから、2度と同じ場所に帰ってきてはいないんです。これ、おそらく僕らの人生だとか、地球上の生物すべてがそうなんですよ。おんなじところに行かないで、ずっと続いているんです。かっこいいですよね。それで、生き物は必ず死ぬという宿命を背負っているわけです。つまり、生き物は物質に合流していくために地球上で生を謳歌していると。これ以上のことはないんですよ。僕はだから、それが大好きだと言ったらいいのかな。

映画『名付けようのない踊り』より ©2021「名付けようのない踊り」製作委員会

──それを感じられているから、常に踊り、また違う誰かとの間に生まれる踊りも意識されて一期一会がどんどん生まれるのですね。

 そうですね。文字通りの一期一会です。それを言葉の意味以上にするのは、本当にその後の時間、その人がどうその言葉を意識し、あるいは、その人の体の中にその言葉が入っていくかということですね。いま、言葉でどんな風に人と接していても、行動となったときにとんでもないようなことやっているような人が多いじゃないですか。それから、相手が変わると言葉も変わってしまうこともあるし、自意識の使い方も相手次第になってしまったりする。これって本当に辛いですよね。いま、世界中が多分言葉と体のある種の契約を破棄しようとしているわけですよ。

──いまの世界において、体を認識する重要性をどのように人に伝えられると考えていますか。

 いや、多分、伝わらなくなるんじゃないかなと思います。名前も、その人の体と離れてしまっているでしょ。人の名前が体なしで歩き出しちゃっていると言えなくもない。体というのは一体どこまで体でいられるのか、体が勝手に生きているわけじゃないはずなので。どうも人間は、体は体で生きられるって思っているんですよね。結局、これまでにも世紀末に必ず湧き起こってきた身体と肉体と言語というテーマが、この21世紀ではなくなるんじゃないかなという気がするんです。

 いま、身体論はほとんど消えかかっていますが、身体論の代わりに、改めて自然と自分との関係をメジャーしないといけないですよね。私たちが生まれてきた自然と、ひとりひとりの体との間にどういうディスタンスが生まれているか。それは人間同士のコミュニケーションに絶対に影響しているはずです。自然を受容した体を人間は本来持っているはずなので、自然との距離感を個人が改めて持つべきだと思うんです。人間同士の間に自然の風が吹くというのをおそらく、僕たちは怠ってきちゃっているんですよね。

──泯さんの体を通して、自然の声が発されるのでしょうか。

 おそらく僕の表現の多くは、受容体である僕を使って自然が声を発しているというふうに考えられなくもないですね。僕がメッセージを送っているんじゃなくて、僕の体にやってきた自然がメッセージを送ってくれているはずで、僕はそういう風に望んでいるんです。僕が踊ることで、僕から匂ったり、僕からバイブレートしていったりするものがあるんじゃないかな。それが向こうの、見る観客とのディスタンスとしての自然と、どう融合していくのかということだと思うんですよ。

田中泯