「ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル フェスティバル in ソウル」レポート。不可視の危機を振り付ける──多元化する振付の美学【2/2ページ】

マルコ・ダ・シウヴァ・フェレイラ振付『カルカサ』

『カルカサ』より。2024年、ザルツブルクで開催された「Sommerszene 2024」での上演の様子 ©Bernhard Mueller

 マルコ・シウヴァ・フェレイラの作品のタイトルは、振付家の生地ポルトガルの言葉で骸骨を意味し、それは文化の隠喩であるという。文化をひとつの骨組みと捉えるとき、個々の人間がいかにしてそれを受肉させ、生命を与えるのか? この問いに対する振付は、驚くほど多彩でエネルギーに満ちていた。フェレイラを含む10人のダンサーは個性的であり、ムーブメントには個々の身体に染みついたテクニック──コンテンポラリー、ブレイキン、ヴォーギングやスペイン、アフリカのフォークロア──が滲み出る。それゆえソロダンスは言葉に依らないパーソナルな語りに似るが、スタイルの差異は対立せず、彼らは多様性を受容し、ルールやバトルの緊張感とは無縁のユートピア的コミュニティを形成していく。

 ダンスの熱量で圧倒する前半に対し、後半は美術や照明の転換、歌、グラフィティが加わり、より直接的にメッセージが示される。鍵となるのは、ダンサー全員が声と動きを合わせて歌う『Cantiga Sem Maneiras(礼儀作法を欠いた歌)』だ。無血革命で民主化を実現した1974年のポルトガルで生まれた歌は、貧しい女性労働者の語りの形式でブルジョワジーの支配と欺瞞を糾弾し、ファシズムに対する民衆の団結と戦いを呼びかける。この歌が終わると、背景の壁にひとりのダンサーがハングルで大きくメッセージを綴っていく──「すべての壁は崩れる」。そこから熱気に満ちたユニゾンへなだれ込み、両足の外縁を支点にした独特なステップが、ドメニコ·スカルラッティ作曲「ファンダンゴ」のリミックスにのせて反復される。イタリア出身のスカルラッティは18世紀にポルトガル宮廷に仕え、イベリア半島の音楽をソナタに取り入れた最初の作曲家であり、『カルカサ』はアカデミックな技法で洗練されたダンスと音楽に民衆のエネルギーを再び送り込み、幕を閉じる。

 かつてポルトガルが南米、アフリカ、アジアに植民地を有する海洋帝国だった事実を思えば、作品はナイーブな理想主義に映るかもしれない。しかし86年生まれのフェレイラの関心はエスタド・ノヴォ(新国家)を自称した保守権威主義的な長期独裁、文化抑圧、植民地主義のトラウマの克服にあると筆者は考える。彼は2000年以降にヨーロッパや旧植民地との交通から出現したフラットな多文化状況を新たなポルトガルのアイデンティティとして肯定し、既成の文法に捉われないダンスで権力に対する多様な個の連帯の可能性を綴るのだ。『カルカサ』で踊る義手のB-Boy、トランスジェンダー、多国籍のダンサーは、テーマのために選ばれたのではない。彼らはポルトガルで出会い、振付家と以前から協働する仲間であり、25年9月にリヨンで初演された『F*cking Future』の出演者でもある。権力に統制された戦闘機械としての身体が、連帯し、自らの意思で戦う身体へ変容していくプロセスを象徴的に描くこの新作はいわば『カルカサ』の続編であり、人々の連帯をストレートに語るフェレイラのダンスは、多様な価値観に分断された現代において観客の胸を打つ。

 ダンスは多様な現実の反映であり、振付は言葉以前の感覚の領域を通して観客に語りかける。ダンスを見つめ、思考するとき、観客の精神も踊り、私たちは現代の別の姿に気づき、あたらしい世界を夢想する。ダンス リフレクションズが提案するように、ダンスをめぐる反響と内省はダンスの醍醐味であり、いまこそ大切な営みであると思われてならない。

編集部

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