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2023.5.7

アートと社会の行く末を探る。ウェブ版「美術手帖」のインタビューまとめ

過去にウェブ版「美術手帖」で公開してきた記事のうち、アートと社会のこれからを考える上で一度は読んでおきたいインタビューを、「専門性の意義」「変容する美術館」「『場』の多様化」「作家という人間」「表現の力強さ」といった、5つの切り口からまとめてお届けする。

構成=望月花妃(ウェブ版「美術手帖」編集部)

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 アートと社会のこれからを考えるうえで一度は読んでおきたいインタビューを、ウェブ版「美術手帖」のアーカイヴからピックアップ。「専門性の意義」「変容する美術館」「『場』の多様化」「作家という人間」「表現の力強さ」といった5つの切り口からまとめてお届けする。

専門性の意義

批評は生き延びる必要がある。美術評論家連盟新会長・四方幸子インタビュー(2022.2.20)

四方幸子

 SNS上では誰もが展覧会の感想を述べるいっぽうで、美術批評については弱体化が著しい日本のアートシーン。そんな現在だからこそ、本記事を通して美術評論そのものを問い直し、その意義と可能性について考えを巡らせてはいかがだろうか。

 美術には批評性が重要であって、評論家はアートや文化全般、社会に対して批評を発信していくことで、未来に向けて新たな価値や解釈を提示することができます。潜在的な可能性を見い出すこともできる。批評がないと、人類も世界も進歩しないと思います。批評は近代以降に生まれたものですが、近代以降に生まれた様々なものやシステムがほつれを見せているなかで、批評はやはり生き延びる必要があると思います。近代の産物でありながら、近代や近代性自体に自己言及的に切り込むことができる唯一のもの、それが批評です。省察、哲学、倫理、そして他者への想像力に根ざしている批評は、人類が獲得したかけがえのないものではないでしょうか。

文化のダイナミズムを伝えるために。国立西洋美術館 新館長・田中正之インタビュー(2021.6.13)

田中正之(国立西洋美術館長)

 鑑賞者にとっては「展示を見にいく場所」である美術館。入場料の高騰を措いても、展覧会関連グッズの売り上げが大きいといった国柄もあって、娯楽的・商業的な面ばかりを感じるかもしれない。東京・上野の国立西洋美術館の田中正之は、本インタビューで美術館の学術的な側面について語っている。美術館学芸員の専門性やこれを持続可能にする仕組みといった、後回しにはできない課題は知っておきたい。

美術館は学術研究機関であり、教育普及機関であり、また経営という側面も考えなければならず、この3つを鼎立させなくてはいけない。この鼎立のためにも、学術研究や教育普及の知識がある人が美術館を経営、運営していくことが必要だと思うんです。展覧会がとにかく人を呼ぶための商業主義的なものにならないようにするためにも、つねに調査研究に基づいた、意味のある展覧会をやっていかなければいけません。こうした活動を支えるためにも、専門職館長は重要だと思います。

変容する美術館

「美術館とは過去と現在を未来につなげていく場所」。アーティゾン美術館副館長・笠原美智子インタビュー(2020.8.30)

 学芸員として日本で最初にフェミニズムの視点からの企画展を開催したことで知られる笠原美智子。現在はアーティゾン美術館の副館長を務めており、本記事では、「過去と現在と未来をつなぐ」「誰にとっても理想」の美術館の実現に向けた取り組みの数々を中心に紹介。未来に向けた視点についてはもちろん、美術館という場が果たしてきた役割への理解をも深められる内容になっている。

美術館とは何か?結論から言えば、美術館とは、過去と現在を未来につなげていく場所だと考えています。こうした美術館のあり方への思いは、アートとホライゾン(地平)からなる造語で、伝統を守るだけではなく、新しい地平を見ながらアートや美術館像を考えていきたいとの想いを込めた、「アーティゾン」という美術館名にも示されています。
では、現代美術の展覧会という機会を通して、あらためてこれまでのコレクションを、いかに現在と未来につなげていくのか。それが、私がここに来て最初に考えたことでした。結果として生まれたのが、コレクションと現代作家が共演する「ジャム・セッション」という企画です。この形式であれば、自然にコレクションと連なるかたちで現代美術を扱える。

滋賀県立美術館ディレクター・保坂健二朗インタビュー。目指すのは「リビングルーム」としての美術館(2021.7.11)

 滋賀県立美術館で「ディレクター」を務める保坂健二朗は、美術館を「美術を見に行く」だけではない場所にすることを試みている。自身についても同館における役割を明示すべく、館長ではなく「ディレクターと名乗りたい」とリクエストしたという保坂。建前ではなく機能を重視する姿勢と、これにもとづく空間構築の実践の数々は、ぜひ一読されたい。

滋賀県立美術館「ウェルカムゾーン」(エントランスホール)
そもそも「館長」というのは職位ですよね。僕としては「誰の上にいる」とかそういうことをひけらかすようなものではなく、どういう役割でこの美術館にいるのかを明確に示したいと考えていたんです。「館長」は英語で言うと「Director(ディレクター)」であり、ディレクション(方向性)を決める人のことを意味します。僕はそうした職能、役割を明確にしたいと思い、就任する際に「ディレクターと名乗りたい」と県にリクエストしました。
公園の来園者が自然と美術館に来るようにしたいんですね。「美術を見に行く」というよりは、「美術館に行く」ようにしたい。極端な話をすれば、展覧会が期待通りのものでなくても、美術館建築がよかったり、カフェがきちんとしていたりすれば、気持ちは相殺されるじゃないですか。美術館に行く体験というのは展覧会だけじゃなく、いろんなこととセットなのだから、展覧会以外の部分も、明確な理念のもとにちゃんと整えておく必要があるんですね。そこを日本の美術館は真剣に取り組んでこなかったのではないでしょうか。

無観客展覧会を「開く」ことの葛藤、そしてそこから見出したのもの。茅ヶ崎市美術館キュレーター・藤川悠に聞く(2022.5.15)

 東京都における緊急事態宣言発令に伴い、開催1ヶ月前に無観客展示が決定した「Our Glorious Future ~KANAGAWA 2021~」。日本でも前例のない展示を手がけたキュレーター・藤川悠の語りからは、誰もいない美術館を通して見えた、美術館の外側への想像力も見受けられる。新型コロナウイルスの影響を振り返るとともに、今後のインクルーシブや包摂のあり方にも思いを馳せる記事になっている。

これまで美術館に少しでも多くの人に来ていただくにはどのようにしたらいいのか、いかに美術に関心をもってもらうのか、ということを当然のように考えてやってきましたが、今回の経験を経て、明らかに意識が変わりました。よく考えてみたら、これまでの障害のある方たちとの関わりのなかで、前までは美術館に来られていたけれど、いまは家から出ることが難しい方もいて、そもそも、美術館という場に「来られない人/来ない人」の存在に気づきました。今は、美術館にいる私たちからは見えなかった人たちと、美術館がどのように出会うことができるだろうかと考えています。

「場」の多様化

「わかっている人」同士のコミュニティだけではもう成立しない。開館から1年の「ANB TOKYO」で山峰潤也が考えること(2022.1.9)

ANB TOKYO「Encounters in Parallel」(2021)にて、山峰潤也。左=山本華 《机上》、右=横手太紀《When the cat's away, the mice will play》、窓ガラスに長田奈緒《Two wipe marks(7F, ANB Tokyo)》

 公立美術館で長く学芸員として活動したのち、職を辞して、アート・コンプレックス「ANB TOKYO」(東京・六本木)の共同代表を務めたキュレーターの山峰潤也。そのインタビューでは、異色とも言える山峰のキャリアを紐解くとともに、現代日本における美術館の課題と「アートの土台」の必要性について考えを深めることができるだろう。 

「表現の不自由展」における問題は、日本ではシュプレヒコールをあげることで社会が変わらないことの証明でもあったので、オセロのように一つひとつ、白と黒を入れ替えながら状況を変えるにはどうしたらいいかな、と考えるようになっていきました。こうした状況のなかで「ANB Tokyo」の話が出てきたので、美術館の外から土台を直していく道に進もうと思いました。.
アートには地域活性や資産という面もありますが、社会の分断を再接続したり、言葉では伝わりづらいことを感情と感覚を通して語りかけたり、国際的なプレゼンスを高める力もあります。僕はアートをトランプにおける「ジョーカー的」な存在と表現しますが、使い方によってまったく価値が変わるわけです。だからこそ扱いが難しいし、また奥が深い。そのおもしろさを引き出していくには、既存の制度ではカバーできない領域を支援する方法を確立する必要があると思っています。

文化都市・ベルリンでテクノロジーと環境を問う意義とは。芸術財団「LAS」ディレクター、ベッティーナ・ケームズインタビュー(2022.12.24)

 ベルリンで近年立ち上がった、非営利の芸術財団「Light Art Space  (LAS)」をご存知だろうか。科学技術と芸術をかけ合わせて国際的に活躍するアーティストとのコミッションワークを手がけ、大規模な個展も開催してきたLASは、美術館やギャラリーなどの既存システムを問い直す契機である同時に、研究機関など異なる分野とアートとつなぐモデルを提示してくれる。

ベルリンは、現代アートシーンが盛んで、革新的な技術や科学研究において世界をリードしている、ユニークでダイナミックな都市です。文化芸術がこの都市をつくっているといっても過言ではなく、都市の基盤として大事な役割を担っていると感じています。私たちは、自然科学博物館など地元の博物館やKraftwerkやBerghainなど文化施設などと密接に協力し、プロジェクトを行っていますが、こうした新たな共同プロジェクトを通して、この街のクリエイティブな空気や景観が進化し、さらに豊かなものにしたいと考えています。

作家という人間

アーティストはいかに困難を乗り越え、健康と向き合うのか? 平子雄一に聞く作品の思想と身体(2021.7.10)

 植物や自然と人間の関係性を問いながら、多様なメディアの作品を制作するアーティスト・平子雄一。作品には直接映し出されることのない、身体とブレを持った人間の部分について、私たちは想像をやめてはいけないと気付かされる発話の記録となっている。

アートの世界って「こういった作品が売れる」ということに明確な答えがないわけです。魅力のある作品とは何か、自分でその価値を判断していくしかない。そうなるともう、自分を信じてつくり続けるしかないんです。それはいいプレッシャーだし、そのプレッシャーが僕は好きなんだと思います。
そう考えると、僕にとっての困難は、いつも未来に存在しているのかもしれない。「自分が将来つくるであろうまだ見ぬ傑作に、いかにしてたどり着くべきなのか」といった、具体的な困難の壁すら見えていない状態がつねにあるんです。結局、そこに立ち向かうためには、毎日一つひとつの作品をつくり続けるしかないのですが。

作家を消費しないためにできること。代表・栗田裕一が語る「T&Y Projects」が目指すもの(2022.6.26)

「T&Y Projects」にて、栗田裕一

 「作家のプレゼンテーションスペース」というコンセプトのもと、個展としてコレクションを展示するTERRADA ART COMPLEX IIの「T&Y Projects」(東京・天王洲)。代表の栗田裕一のインタビューからは、アートとマーケット、収集と活用、そして作家とコレクターの理想的な関係性を探ることができるだろう。

日本の若手から中堅にかけてのアーティストが国内だけで消費されてしまうことに危機感があります。いま、日本のアートマーケットはかつてとは比べ物にならないほど盛りあがっていますし、それ自体は良いことだと思うのですが、すぐ消費されて作家が忘れられていってしまう可能性も高い。本当はもっと長い目で先のシーンを考えなくてはいけないのではないでしょうか。

表現の力強さ

現代美術で不確実な時代を乗り越える。金沢21世紀美術館館長・長谷川祐子インタビュー(2021.5.22)

 表現とは無力か。現代美術の価値とは一体なんなのか。アーティストやアート関係者、アートを愛する人々へ向けて、不安に絡めとられそうなときのために覚えておきたい、経験に裏付けられたポジティブなビジョンが並ぶ長谷川祐子のインタビュー。

アートは感覚に訴えかけるものであり、解釈によってしまう言語を越えた共感を生み出すことができます。それがいまはとても重要であり、一番自由なかたちで提示できるのが現代美術館。機能を最大限にいかして、ナレッジプロダクションの場所にしていく必要があるのです。不確実性の時代において、現代美術は強いですよ。多様性と未来に対するチャレンジ、そして新しい認識を要素として備えているのですから。その強みを活かしつつ、未来を迎える支度をすることがこの美術館のひとつのコンセプトとなります。

「時代と環境に誠実に向き合うこと」で文化は生まれる。小池一子インタビュー(2022.3.18)

 日本初のオルタナティブスペース「佐賀町エキジビット・スペース」の創設者として、大竹伸朗をはじめとする現代作家の表現を発信してきた、パイオニア的存在の小池一子。過去を知り、他者を含む環境に向き合い続けた先に見たい未来があるというメッセージは、アーティストはもちろん、アートを支える人にも温かく響くことだろう。

それでもやっぱり、つくることをやめない、つくる人を支える、つくったものを受け入れる、という3つのことは絶対に続けていくべきだと思います。戦禍のなかでもね。ラスコーの洞窟の辺りの川沿いを走っていたとき、そんなことを想像したことがあります。あの辺は、絶滅してしまったクロマニョン人なんかが山から出てきそうなくらいの田舎なんですね。戦争が起これば、そのときは戦火によってすべて絶えてしまうかもしれないけど、世界が終わったとしても草花は芽吹くだろうし、新たに人が、あるいは人ではなくても生物は生まれてくるだろうと思えるので、命がある限りは創造を続けるべきではないでしょうか。