忘却された「美術館とは一体何なのか?」という問い
──アーティゾン美術館としてのオープンから約半年が過ぎました。反響の声も含めて、いまどのような手応えを感じられていますか?
ブリヂストン美術館という日本有数の近代美術コレクションを持っている美術館の名前を変えるということ、さらに現代も範疇に入れて展覧会を展開することについて、当初、抵抗を感じる方がいたこともたしかです。しかし、いざオープンしてみると、思ったよりも早く受け入れていただけているのかなと感じています。
コロナ禍に先んじた日時指定予約制の導入や、スマホアプリによる所蔵作品音声ガイドの無料化、学生の入館料無料(※高校生以上は要予約)、最先端の置換空調システム、入口への危険物探知ゲートシステムの設置、データアーカイブの整備とクラウド環境の充実など、今回新たに導入した試みは多岐に渡ります。しかし、これらは結局はひとつの理念に貫かれています。それは、お客様に快適な空間で作品を鑑賞していただきたい、最適な環境で美術作品を楽しんでいただきたいということ。それが一番のコアなのです。
例えば、日時指定予約制。旧ブリヂストン美術館のファンには中高年層の方も多く、その導入には批判的な意見もありました。けれど導入を決めたのは、やはり近年、入館までに極めて長い時間を要したり、やっと入館しても、人の頭越しに作品を見るような状況が美術展にはあったからです。ほかの取り組みも含め、展示環境として最適化をしたいという、石橋寬館長の非常に強い意思があったわけです。
そうしたなか、誰も想像しなかったこのコロナ禍という状況が訪れました。もちろん、一時期は臨時休館しましたが、他館より長く開館記念展最終日の3月31日まで開館を続けることができました。そうしたことが可能だったのは、最適な環境を目指して導入したシステムがすべて活かされたから。日時指定予約制も、いま、あらゆる美術館で「コロナ対策」のために導入されていますが、私たちが導入した目的はそもそも違います。その点がとても重要だと思っています。
──実際、いわゆる「ブロックバスター展」をはじめ、入館者数や収益などの「数」を求める美術館のあり方は 、図らずもこのコロナ禍で問い直されつつあると感じますが、アーティゾン美術館がコロナに先駆けてその改革を始められていたのは先見的でした。
私はこちらに来て約2年半になりますが、その前は東京都写真美術館に30年近く勤めていました。2000年代初めの小泉改革以降、国公立の美術館に効率化と採算性を求められるようになると、現場は予算不足の解消と入館者の獲得に追われるようになりました。そこで、はたして何が忘れ去られたのか? それは「美術館とは一体何なのか?」という本質的な問いだと思います。アーティゾン美術館の改革は、この問いに直結しています。
美術館とは何か? 結論から言えば、美術館とは、過去と現在を未来につなげていく場所だと考えています。こうした美術館のあり方への思いは、アートとホライゾン(地平)からなる造語で、伝統を守るだけではなく、新しい地平を見ながらアートや美術館像を考えていきたいとの想いを込めた、「アーティゾン」という美術館名にも示されています。
正直に言うと、私も最初はなぜわざわざ名前を変えるのか、不思議に思ったんです。「ブリヂストン」と聞いたとき、タイヤメーカーよりも先に美術館を思い浮かべる美術ファンは多いのではないでしょうか。そんな厚いファン層がいるのに、なぜ名前を変えるのか、と。しかしだからこそ、そこには美術館の強い決意があるのだと気づきました。
普通、私立の美術館の名前は、場所か創設者か企業の名前を冠することが多い。美術館の理念自体を名前にするのは、世界的にも珍しいでしょう。ただ、挑戦的であっても、改称をするのだと。その挑戦を多くの方に受け入れていただいているのは、背景にある「美術館とは何か?」という問いの切実さが、いまは見えてきているからだと思います。
旧ブリヂストン美術館のコレクションをどうつなげるのか
——そうしたなかで、笠原さんに声がかかったのは、やはり現代美術の展開という点が大きいのでしょうか?
それは理由のひとつだと思います。ただ、旧ブリヂストン美術館が同時代美術を扱ってこなかったというわけではありません。石橋財団のコレクションというと印象派や日本の近代美術が有名ですが、じつはこのコレクションの面白さは、創設者石橋正二郎氏から二代目石橋幹一郎氏、現在の三代目石橋寬と、世代を超えて作品収集が継続されている点なのです。そこでは、そのつど同時代美術が収集されてきました。しかし、従来はそれがさほど前面に出ていなかった。
では、現代美術の展覧会という機会を通して、あらためてこれまでのコレクションを、いかに現在と未来につなげていくのか。それが、私がここに来て最初に考えたことでした。結果として生まれたのが、コレクションと現代作家が共演する「ジャム・セッション」という企画です。この形式であれば、自然にコレクションと連なるかたちで現代美術を扱える。
この枠組みが決まった後、当館には優れた学芸員がたくさんいますので、興味を持った学芸員に、企画書を出してもらいました。そのなかから、第一回は鴻池朋子さんに声をかけました。いろんな要素を加味したうえでの決定でしたが、鴻池さんがいまの日本を代表するアーティストであり、そのなかでも若手である点はひとつの大きな理由です。
──まさに、いまもっとも脂の乗っているアーティストのひとりと言える鴻池さんを第一回目の作家として選ばれた点に、アーティゾン美術館の冒険心を感じた美術ファンは多かったのではないかと思います。また、女性アーティストである点も重要ですね。
そうですね。私が悪名高いフェミニストであることにかかわらず、アーティゾン美術館では私が来る以前から、女性アーティストについてはかなり意識的に収集を進めていたんです。いま、4階の展示室では、新たに収蔵した印象派の女性画家たちの特集展示も行われていますが、それも私が来る前から粛々と収集を進めてきていたものです。
世界に目を向けると、多くの美術館では、これまで女性アーティストをないがしろにしてきた反省がなされています。日本の美術館には、それがなさすぎる。そこにかなり意識的に取り組んでいる点においても、アーティゾンは先鋭的だと思います。
同時に、鴻池さんは私がデビュー当時から見てきたアーティストでした。私が東京都現代美術館で企画した「MOTアニュアル2005 愛と孤独、そして笑い」展は、鴻池さんが日本の公立美術館で初めて紹介された展示だと思います。こうした機会にふたたびご一緒できるということで、鴻池さんの名が企画で挙がってきたときは個人的にも嬉しかったですね。
いっぽう、5階では、同時開催として第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館展示帰国展「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」展が開催されています。こちらは、石橋財団の創設者である石橋正二郎氏が、1956年に日本館を建設寄贈した歴史的な経緯から実現したものです。石橋財団とヴェネチア・ビエンナーレの関係は深く、日本館展示自体にも継続的に助成を行っているのに加え、2014年の日本館改修も石橋財団から提案されたものです。日本館の展示を国内で体験できる貴重な機会なので、こちらも存分に楽しんでいただければと思います。
──コレクションについても聞かせてください。 さきほど、印象派の女性画家に触れていただきましたが、アーティゾン美術館として開館するにあたり、ほかにもカンディンスキーやクレーなどを収蔵されました。新しいコレクションの方針はどのようなものですか?
コレクションについては、私が話すよりも新畑泰秀学芸課長に聞いていただく方が良いかと思いますが。ただ、先にも述べたとおり、石橋財団のコレクションの魅力というのは、それが何世代にもわたって拡張を続けている点だと思います。
ある作品群を購入して終わり、ということではなく、石橋財団では既存のコレクションの意味をきちんと考えながら、それを補強するような収集をしているんです。いま手元にあるコレクションとその先にあるべき全体像を考えながら、石橋財団コレクションにふさわしいかどうかを考えながら集めている。いわばトーン&マナーがあるわけですが、これは言葉で言うよりもじつはすごいことなんです。 単体としての作品が魅力的なだけではなく、コレクションとしてのまとまりがきちんとある。それが最大の特徴だと考えています。
──そのことは、1月から開催された開館記念展「見えてくる光景 コレクションの現在地」でも如実に感じられました。会場を進むと、目の前の作品が前の作品を受けてここに置かれていることが明らかに分かる構成になっていた。当然ですが、無作為に買われてきたのではなく、すべてを連関させて収集してきたんだと感じました。
そこは財団として、かなり意識してきた点だと思います。 コレクションの形成や現代美術との関わりについて、ひとつの美術館で何もかも扱えるわけではありません。この美術館にふさわしい作品、展覧会に必要な作品、なぜ、ここでこれをやるのかということをつねに考えながらコレクションを形成してきたのだと思います。とくに、アーティゾン美術館への改称を目指したこの10年くらいは、意識的にやってきたのだと思います。
また、そのコレクションの魅力を若い世代にも広く知ってもらいたいという点も、石橋寬館長をはじめとした館の思いとしてありました。実際、上野などの美術館におけるブロックバスター展を見ても、現在の美術館のファン層には圧倒的にシニアの方が多い。そうしたなかでは、コレクションの傾向もシニアに向けたものになりがちです。もちろん、そうした方たちもとても大切ですが、やはり未来に向けた美術館にしていかないといけない。
ただ、若い人たちに来てもらうという意味で、現在の日本の美術館の入館料は高くて、かなりハードルが高い場所になってしまっていることは事実でしょう。そこで、アーティゾンでは学生無料の方針を決めたのですが、私はかなり画期的なことだと思っています。
──本当にそう思います。
本来、国や地方自治体がやるべきことでは?というのが本音ですが(笑)いっぽう、他の世代には気遣いがないのかとご指摘があるかもしれません。その点は、当日窓口では1500円(※ウェブ予約に空きがある場合は販売)が、ウェブからの日時指定予約であれば1100円になるなどの仕組みを設けています。ちょっと安くし過ぎたのではないかなと反省しているのですが(笑)、ほとんどのお客様にとって比較的訪れやすい場所になっているのではないかと思います(※料金は展覧会により異なります)。
誰にとっても理想の美術館へ
──学生無料やガイドの無料化も含め、情報を広く共有しようとする意思を感じます。
情報の共有という意味では、アーティゾン美術館の特徴として、ITの担当者をきちんと設けたこともあります。すべてにおいてテクノロジーを用いて、情報にアクセスできる環境を整えることについては、徹底していると思います。また、各展覧会の印刷物などのデザインはそれぞれのデザイナーにお任せしますが、田畑多嘉司クリエイティブディレクターという専任の職員が、すべてのデザインに目を通していることも、館としてクオリティーをキープし、情報に快適にアクセスしやすい環境を支えています。
──さらにアーティゾン美術館では、 ブリヂストン美術館時代から続く「土曜講座」という歴史あるレクチャーや、 石橋財団アートリサーチセンター(ARC)という研究機関におけるワークショップ、鴻池さんの展示に関連した視覚障害を持つ方も対象とした鑑賞会「みる誕生」(予定)など、ラーニングプログラムや鑑賞の多様化にも力を入れていますね。
そうですね。教育普及活動についてはやはりブリヂストン美術館時代の蓄積が大きく、それを引き継ぎながら、貝塚健教育普及部長を中心にプラスアルファの要素を広げています。
アーティゾン美術館のラーニングプログラムは、土曜講座やARCにおけるワークショップなど継続して行っているものと、「みる誕生」のような展覧会に関連したものとの二つの構造になっています。とくに前者のスクールプログラムは、開館準備を行っていた長期休館中も、出張授業や講座を継続的に行うなどしてきました。長い歴史があるので、小さい頃に家族で来ていた方が、親になり子供を連れて戻ってきてくれることもあります。長いお付き合いが新しい出会いにもつながっている。また、ビジネス街という土地柄を活かし、ビジネスパーソン向けのレクチャーも展開するなどプログラムを多様化させているところです。
ただたんに入館者数を追い求めたり、話題になることを追ったりするのではなく、きちんと作品について考えを深めてもらう幅広い環境を用意したいと考えています。
──いま触れられたように、ビジネス街にあるのもアーティゾン美術館の特徴です。美術手帖で開館時に行った学芸課長の新畑泰秀さんへのインタビューでは、同じような立地にあるニューヨーク近代美術館(MoMA)のような美術館を目指していくとも話されていました。都市型の美術館としての可能性について、笠原さんはどのように考えられていますか?
私は職業として美術館に勤めているので、つい高邁なことを言いがちですけど、重要なのは、訪れる方はどんな楽しみ方をしてもいいということです。1階のカフェでランチだけでもいいわけですよね。2階のミュージアムショップも含め、1階から3階まではフリーゾーンとして開放されています。土曜講座も3階のレクチャールームで開いているので、無料なんですよ(※現在は一部オンライン配信)。いろんな仕掛けをしているので、それぞれの人たちがそれぞれに楽しんでいただければいいと思います。
都心にある美術館の魅力とは、わざわざここを訪れるのではなく、お昼休みや仕事終わりの通りすがりに楽しんでいただけることかなと思います。いまはコロナの影響でできていませんが、基本的には金曜日は夜間開館もしています。また、日時指定予約制ですが、入館時間の10分前までであれば当日でもウェブ予約ができますし、予約に空きがあれば窓口で買える当日券もあります。通りすがりの方にも楽しんでいただけるよう、細かな意味でなるべくハードルを低くしているのです。
──11月から開催予定の「琳派と印象派 東⻄都市文化が生んだ美術」展も、「都市文化」という視点から琳派と印象派について紹介するものだそうですね。ここでも、都心にあるアーティゾン美術館でやるからこその視点を打ち出されているのだと感じました。
そうですね。いまは現代美術ということで注目いただいていますが、石橋財団のコレクションは本当に幅広く、琳派の作品も近年かなり充実してきています。琳派と印象派がどのようにして結びついているのかと言うと、やはり都市文化というキーワードがある。二つの潮流のそうした側面を、学習院大学名誉教授で日本美術史学者である小林忠先生を監修に迎えて紐解こうというもので、充実した展覧会になると思います。
また、同時開催する特集コーナー展示「青木繁、坂本繁二郎、古賀春江とその時代 久留米をめぐる画家たち」も面白くなると思います。石橋財団にとって久留米は故郷であり、欠かせない土地ですので、そちらも注目していただきたいです。
──最後に、これからのアーティゾン美術館の目指すものについて、一言お願いします。
私は人生で三つの美術館に籍を置いてきました。東京都写真美術館、東京都現代美術館、そしてアーティゾン美術館です。そのなかで、展覧会企画を立てたり、コレクションを形成したり、マネジメントをしたりしながらつねに抱いていたのは、理想の美術館をつくりたいという思いです。 その思いはいまも変わっていません。おそらくそれはどの学芸員も同じだと思うんですが、私はアーティゾン美術館を理想の美術館にしたいと思っている。
それは、訪れるお客様にとっても、作品やアーティストにとってもそうですが、もうひとつ大事なのは、学芸員だけではなく、この美術館で働いているすべてのスタッフにとっても理想的な美術館をつくりたいということです。そうした展望を抱くことや、その理想を壊すことは簡単なことですが、本当の意味でそれを実現しようと思えば、非常に細やかな積み重ねでしかできないと思っています。それを、きちんとやっていきたいです。
──今日お話を聞き、コレクションの広げ方や、新旧のファンに対するアプローチにとても丁寧に取り組まれていることをあらためて感じました。その努力があるから、この場所で幅広い人たちが教養を得ることができるのだな、と。
最近よく思うのは、近代美術が好きな人は現代美術のことを、現代美術が好きな人は近代美術のことを敬遠しがちだということなんです。アーティゾン美術館では、その双方にそれぞれの良いところを知ってもらいたい。だからこそ、企画展とコレクション展というかたちで分けるのではなく、すべてを1枚のチケットにまとめているわけですね。
例えば、コレクションのクレーが目当てで訪れた人は、企画展からコレクション展の階に降りてきたときに、ほっとすると思うんです。でも、企画展のなかにも案外「へぇ」と思うことはあるかもしれない。逆のことが、現代美術ファンの方にも言えます。その反応が「つまらない」でも良いんです。反感も、じつは強い感情ですから。
現在の情報化社会では、人の関心は興味のある部分にだけ向かいがちです。そうしたなかで、チケットが同じだからたまたま見てしまったものに、何かがあるかもしれない。そこで、お客様に「へぇ」と思ってもらえる機会を少しでも増やしていくことができたら。 それが、先ほどの「理想」ということのひとつだと思います。