「3331 Arts Chiyoda」は何を残したのか。中村政人インタビュー

2010年にオープンしたアートセンター「3331 Arts Chiyoda」が、2023年3月31日をもって閉館する。街に創造性を伝播させることを企図した出発から、13年かけてどのような手応えを得たのか。事業運営を担った合同会社コマンドA統括ディレクターでアーティストの中村政人に、未来への展望も含めて話を聞いた。

文・撮影=中島良平

中村政人

──中村さんは東京藝大で油画を専攻し、在学中からギャラリーや美術館での作品展示と並行して、プロジェクト型作品やコミュニティづくりにも尽力されてきました。そもそも個人として作品を制作する作家活動と、パブリックな領域でアートを展開することへの興味は、中村さんの内側でいつ頃から共存していたのでしょうか。

中村政人(以下、中村) 現在ほど確信的ではありませんでしたが、学生の段階からその意識はすでにありました。表現というのは街で行うものだ、街から生まれるものだという考えがあったからです。学生時代に最初に行った展覧会は、学部1年次に友人と3人で、立川の米軍ハウスという生活の場をそのまま展覧会場にする試みでした。

 それから学部時代を過ぎ、韓国に留学したのですが、帰国する頃には確信的になっていましたね。帰国して最初に街で展開する展覧会を仕掛けて、SCAI THE BATHHOUSEで個展を行ったのがその後ですから。従来のアートシーンにおける活動と同時に、街のなかで自分がどう動き、表現を成立させられるかという問いに対して、ある意味で戦略的に取り組んでいたといえます。末広町を拠点にしたアーティスト・イニシアチブ、コマンドNを1997年に立ち上げたのもその一環です。

──コマンドNの活動の延長線上に3331のプランが浮かび上がってきたのですね。

中村 まさにその通りです。徐々にヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展に招聘していただく機会も増えるなど、場数を踏んでいくと、美術制度がもっている良さと息苦しさの両方が見えてきました。予測のつかない街で生まれる表現への意識が強まった結果、「東京に必要なのは街に開いたアートセンターだ」という考えのもと、3331を立ち上げることになりました。いわゆるアートシーンにおける作品発表と、そうしたコミュニティづくりのようなものへの視点は、いずれも自分にとっての表現として違和感なく共存しています。

──2010年に3331がオープンしたわけですが、地域とアートの関係における時代ごとの変遷はどのように影響したとお考えですか。

中村 1970年代から80年代にかけて、文化を根付かせるためには地域ごとに美術館が必要だという声が上がり、各自治体が公立美術館を開館する流れが生まれました。やがて全都道府県に美術館が完成したものの、バブルの崩壊もあって2000年代に向かう頃には予算が削減され、作品収集も計画しにくい状況になってしまった。美術館が生まれて鑑賞体験自体は豊かになったものの、それによってアートが人々のあいだに根付いたか、市民の創造性を喚起するようなことになったかというと、なかなかそううまくはいっていない。

 2000年代には、地域創生の予算に頼って各地で芸術祭が開催されるようになりました。一見するとアートが街に出て広まったように感じさせるものの、やはりホワイトキューブ信仰のようなもののなかでアートが語られることが多く、近隣住民のコモンスペースとなる自分たちの場所が必要だと考え、「東京に街に開いたアートセンターを」という考えに至りました

壁画として残されたのは、山村にセルフビルドでアトリエを建て、制作を続けていた孤高のアーティスト佐々木耕成の作品。メインストリームを目指すことなく表現と真摯に向きあう姿勢に感銘を受けたと語る中村は、3331の意思表明として、開館記念第2弾の企画展で「佐々木耕成展 全肯定 OK. PERFECT. YES」を開催した。
佐々木耕成展

──もともとアートに興味をもたない人々も巻き込むために、どのようなプランを立てたのでしょうか。

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