「じゃあ、そいつらは火星に行ってもらうとしよう。ただ、どこの政党も、境界を閉ざしてアイデンティティを固守して、古い国土(ランド)に回帰しようって叫んでいるよね。そんなときに『土地(ランド)に落ち着くこと』や『故郷を守ること』を主張して大丈夫なのかな。つまり、『血と土』的な反動と危ういほど似ているように聞こえるけど」
忌憚ないご意見に感謝しよう。その批判は私たちのプロジェクトの前途にとって吉兆ではないが、「危ういほど似ている」ことは重要な点だ。結局、火星に移住する案は非現実的だと思ったとしても、それなら祖先たちの眠る土地に戻る案のほうがまだ現実的だ、と考えてしまうわけだ。国家の保護に回帰しようという、昨今見られる「血と土」への反動的な動きは、魅惑的な大気圏外への脱出と同じくらい非現実的ではあるが、保護を求めること自体には一理ある。「世界をまたにかけて(グローバルに)」生活する夢が消え去ったいま、場所なしで生きることを拒む人々をもう排除するわけにはいかない。ある場所を占めて、土地の上で、土から糧を得て生きることが何を意味するのか。この問いはいま再び重要なものとして開かれている。自分が住んでいる世界と自分が生の糧を得ている世界との分裂を回避したいという願いは、道徳的には非の打ち所がないものである。別の何かが問題なのだ。これこそ、私たちが「地球的政治学」というタイトルで探求していきたいものなのである。
クリティカルゾーンという語が科学的かつ政治学的に強い訴求力を持つのは、ある土地が「自分の」土地であると言った場合に、じつは自分がそれについてほとんど何も知らないことに気付かせてくれるからだ(Vanuxem)。
自分の土地を構成するパートナーたちをどれだけ数え上げられるだろうか。まずどれくらいの厚みが必要だと考えるか。20センチ、3メートル、それとも3キロメートルか。地中の母岩まで達する水の循環経路はどうだろうか。その孔隙率、粒度について考えたことはあるか。ミミズのことも忘れてはいなかったか。「自分の」と言うとき、サハラ砂漠から吹く紅砂や、中国の工場からやってくる酸性雨もそこに含めたか。ある土壌ができるまでには10万年かかるということ、そしてそれが深刻に激減するまであと40年しかかからないと試算する研究があることに、どう反応したらいいのか。クリティカルゾーンとして立ち現れてくるものは明らかに、祖先たちが眠る土地とは違う(Richter)。クリティカルゾーンはより厚く、濃密で、古く、そしてたくさんのものたちがすみ着いている。したがって、かつてと同じようなアイデンティティ・クライシスは起こらないし、前線もまったく異なるものになるのである。
おわかりの通り、祖先のルーツを祀ることも結構だが、植物から学ぶことも大切なのだ! 地球的である、ということはかつて「自然」を構成すると思われていたあらゆる部分について、より現実的になることである。それにはもう一度新たに百科全書的な踏査が必要となる。気候については、すでに十分私たちの政治にけんか騒ぎとともに参入してきているので、始めるのは簡単である。自分の土地の上にあったかつての「大気」は、いまや「以前と同じ」状態に保とうとするだけでも大規模な政治的努力を要するものとなった。だがそれは、例えば河川についても同様だ。川はなんの努力もなしに風景のなかを流れているわけではない。川は、その気まぐれさについてまだほとんど知られていない水の循環サイクルにおける一形態に過ぎない(Da Cunha)。氷河もあまり当てにはならない。いままさに恐ろしい歴史に足を踏み入れたところだから。草花? それらの原産地を言い当てることなど不可能だ。どれか一種類でも原産地をたどろうと思ったら、あっという間に複雑な地政学に足を踏み入れて、ほとんど世界中を巡らなければならなくなるだろう。微生物やウイルスはどうか? それらは医薬の進歩に適応して次々と変異しており、伝染病と取締役会のどちらがより危険なのか、ほとんど決め難いほどである(*11)。
したがって、もし誰かが自分の「土地」を守り、「領土」を深く理解したいと望む場合、その場所のアイデンティティを構成するには、まだいくらでも見慣れないものたちをそこに含めなくてはならないことがわかる。実際、そういうやり方でこの展覧会と本書はつくられている。「自然界」の正規会員たちは、かろうじて認識できる程度の姿を次々に現しつつある。そのすべてを含んでいくことこそ、草の根運動を進める場合に払わねばならない代償と言えるのではないだろうか。
より思弁的なレベルでは、地球に降り立つためには、「物質世界」について近代以来確立されてきたとらえ方や定義とは違う仕方で考えることが必要になる(Schaffer)。いま考えなくてはならない物質性は、かつて思い描かれていた物質や空間の、どちらかと言えば空想的だった概念と比べ、ずっと複雑になっている。本書では、この変化をしるしづけるための言葉をクリティカルゾーンのほかにあとふたつ付け加えよう。ガイアとテレストリアルである。
地球的政治学を探求するためのひとつの方法は、私たちは「自然」から追放されてガイアのほうへと押しやられた、と考えることである(Lenton &Dutreuil)。ただし、ここで言うガイアとはあの有名な「生きている全体としての地球」ではなく、生命と全体の意味を再定義する機会となるような概念である。生物学者が生命を考えるとき、彼ら/彼女らは有機体を考えている。だがガイアは巨大な有機体というわけではない。それは大文字のL付きの「生(ライフ)」であり、確かにいくらかの同種の仲間たち、つまり動物や植物、細菌を含むが、それらと一緒に生命のリストには数えられない、多くのその他の同居者たち─大気、土壌、岩石、海洋、雲、鉱物、大陸─をも含む。これらは生命体によって長い時間をかけて変質させられ、移動させられ、生成させられ、居住され、発明されてきたものでもある。こうしたすべてがクリティカルゾーンを、またはある人々が「自分の」領土だと思っている諸ゾーンを成す材料である(Detreuil)。
考えてみれば、私たちはガイア以外のどんな居住環境も経験したことはない。ガイアのなかで生きるということは、「自然のなかで」生きる人間になるということではない。ガイアはまったく独特な現象である。少なくとも別の事例がない、という普通の意味で独特であるだけでなく、文字通りあらゆる障害を超えて自己創出されてきたということ、そしてさらに重要なことには、メタレベルのモデルや指示なしにそうしてきたという意味で、独創的なのである。それでいて、ある種の自己抑制が働いてもいる。ガイアの自己創出性を理解すればするほど、「メタレベルのモデルも指示もなしの」政治学の形態を創案できるようになるだろう(Coccia)。自己抑制に関して言えば、文字通り取り組み中なのだが(*12)。
人新世の時代に生きるならば、人類に対して完新世の時代と同じような要求をするわけにはいかない。着陸しようとする地球は、それまで考えられていたチキュウとこうも異なっているわけだから、いま多くの人々が退却したがっている幾重にも要塞化された国土とはなおさら異なっている。
ガイアがこれほどまでに独創的なコンセプトであるのは、全体と部分について対極から問い続けたふたりの科学者たちの共同発明だったからだろう。大きいほうの極から考えたジェームズ・ラブロックと、小さいほうの極から考えたリン・マーギュリスである。小さいほう─微生物─は大きいほう─大気─を保っており、また大きいほうは小さいほうによって成り立ってもいる。このふたりの発見によって、それまで唱えられていた、スケールを拡大したり縮小したりできるマトリョーシカ式のモデルは維持できなくなってしまった。本書ではこの変化を指し示すキーワードとして「テレストリアル」を使っている。そのもっとも重要な特徴は、何かと何かが隣同士にあって、そして協力的にせよ競争的にせよある種の関係性を結ぶ、といった順序の物事から構成されているのではないことである(Stengers)。そもそも、微生物や動物や植物はそう単純にある固まりや単位に分けられるものではない。何が部分で何が全体か、そのすべてが問いに付されている。どの細胞も社会も、気候も。
この新たな区分法は、アイデンティティを持つことの意味を変容させる。ある場所に属すること、様々な能力を他者と共有すること、自分と異なる「伴侶種」(☆6)とともにあること─つまるところ、命を持つ(アニメイテッド)とはどういうことなのか、生きもの(アニマル)であるとはどういうことなのか、という問題になってくる(Despret)。ある土地を「所有する」ことの意味もまた、絶対に解けないパズルのようなものになる。物質性の概念が変化したことにより、身体を持つことの意味も新たに考え直さなくてはならなくなった─それに伴い、政体を想像することが意味しうる内容についても再検討が必要になる(DeVries)。自然法則は新しい原則を募集中だ。「群体(ホロビオント)」(☆7)の集合と個別の有機体の集合とは異なるはずである(Flower)。募集要項が以前と同じではないので、採用結果もまた違ったものになるだろう。
そう、だから、私たちは避けることができない。グローバルに拡大していくかわりに地球に降り立つことを望むなら、こんなにも多くの人々が反動的な政治傾向に引かれていることを真剣にとらえる必要がある。しなければならないのは、確かに人民と土地に再び焦点を当てることではあるが、それだけでなく、土壌や人々がどんなものから構成されているか、抜本的な見直しを準備することでもあるのだ。
「うーん、これはまたずいぶんご大層な計画だ……。こんなことが、よりによって美術館の展覧会のなかに収まるだなんて、たとえ一瞬にしても、よく思えたものだ。しかも、アートがたくさんおまけにくっついてさ?」
限られていることこそ、望むところだ! 観客にとっては美術館のなかで考えることによって、クリティカルゾーンのなかに足を踏み入れたということ、つまり自分とほかのものたちとの解けない絡まり合いを単純化したり、逃れたりできないゾーンに入ったことを体感できる場所になるよう、願っている(Haraway)。美術館の小さなスペースは、限られた空間における新たな政治学を想像する契機として理想的ではないか。この展覧会と本書を、来たるべき着陸の予行演習の手引きと考えていただけたらと思う。
あなたの言うように大層なアイデアを試そうとするときには、展覧会はちょうどいいスケールモデルとなってくれる。展覧会を科学者たちが言うところの「思考実験」に相当するものととらえると、いろいろな可能性が見えてくる。思考実験では、ある理論があまりに突拍子もなくて検証のしようもないとき、頭のなかでそれを試し─時には発見できることもある─結果がどうなるか直観してみる。同じように、あえて「地球に降り立つ」などということが狂気の沙汰だと思われているときには、「思考展示」、ドイツ語でGedankenausstellungと呼べるものが、フルスケールでは再現できないアイデアを試す機会を与えてくれるのである。
もっと穏やかな時代であれば、科学者たちがアーティストとのコラボレーションを嫌がったり、しても飾りかアウトリーチの域を出なかったりすることにも一定の理はあるかもしれない。だが地球が新たな動きをしているような重大な局面では、話は別である。こうした時代には、科学と政治がふたつに分けられないのと同じく、科学と芸術が分けられないこともまた真である。未知の土地に着陸するという任務を負って初めて、私たちはそのまったくの新しさに取り組むための設備が全然足りていないことに気付く。毎日洪水のように注ぎ込まれる恐ろしいニュースを理解し、適切な行動に結びつけるための想像力も精神構造も持ち合わせていない。そうした情操的素養を芸術抜きで育てられるだろうか? 天文学における変革は、表現における変革抜きには実現しえなかった─representationという語のあらゆる意味において(Hache)。
私たちがそのごく簡単な視覚化もできていないことの証しに、あの青い惑星にクリティカルゾーンを投影して描こうとすれば、それは薄すぎてほとんど見えなくなってしまう(*13)! 有機体がほかのものたちと絡み合っていることの意味を描き出そうとした途端、それは失われてしまう。したがって今日、地球を揺るがすその他様々な出来事にも増して、私たちには自分と異なる生のあり方を感受できるようにしてくれる美学が必要である。政治家たちがかつては聞き取られることのなかった声に耳を傾け、科学者たちがかつては目に見えなかった現象に焦点を合わせられるようになることを期待されるのと同じように、アーティストは来たるべきもののかたちを私たちにも感じ取れるようにすることを課されている。本書でも展覧会でも、これらの三形態の美学とでも呼べるものが膨大に混ぜ合わされている(Aït-Touati)。
本書の割り付けを行うに当たっては、データヴィジュアライゼーションの革新と物語化の多用を推し進めたアレクサンダー・フォン・フンボルトのやり方に多くを学んだ(Walls, Koerner)。その理由は、2019年が彼の生誕250周年であったからというばかりでなく、私たちとしては彼の仕事が、私たちが薄明のなかに照らそうとするのと同じ、歴史の虹橋の始点を兆すものであったように感じられるからだ。未知の、未征服の、地図にも載っていない土地をフンボルトが踏査したとき、あの球体としての世界(グローブ)はまだ、その後の様々な問題含みの概念に付きまとわれていない、理想的な展望であった。いわば地球はまだチキュウ化されていなかったのである。そして今日ではそれは、幸いにも様々な意味で脱チキュウ化されつつある。
重力から磁力、気温、高度その他に至るまで、多数の尺度の計測狂だったとはいえ、フンボルトが大変な努力の末に集めた大切なデータ群も、あらゆる種類と形式の物語や日記、絵画、メモといった別種の努力によって描き出されなければ、図のなかに孤立した単なる点々になってしまう。このことは彼の「自然画」を読めばわかるはずだ。彼の世界はまだ多種多様で、飛び飛びの理解に隔てられて穴ぼこだらけのようなものだった。彼の時代にはGPSがなかったので、そのばらばらさをならしてひとつながりのイメージのように見せかけることはなかった。フンボルトは自分の足か馬車で実際にそこに行くという大きな苦難を乗り越えて自分のものにしなければならなかった風景の、そのばらばらさを隠さなかった。おかしなことに、同じ状況が200年後の今日になって、クリティカルゾーンによって明らかにされている。しかも真逆の理由から(Brantley)。統一的支配を望むどんな夢も挫折させる激しい戦いの最中に浮かび上がる、多種多様で、ばらばらな、知の隙間だらけのレオパード柄のデータ。もう一度言うが、ショートカットのコマンドはない。そういうわけで本書では、各章ごとに、多様な著者たちに短い文章を書いてもらい、違ったレイアウトで配置し、諸クリティカルゾーンの特異性への経路の数を増やそうと試みている。多種多様さが基本原則だ。政治学とは、すべてを統一するための見方を追求するものではなく、可能なかぎり多くの場と可能性とを探索するために散開していくものである。
私たちは幻想を抱いてはいない。キュレーター陣の唯一の望みは、過去の物語を見直し、より良いバージョンを観客や読者が明確に語りだせるよう(Weibel)、世界の案内地図、「コスモグラム」(Tresch)の長い歴史に新しいエピソードを付け加えることだけだ。結局これは、カタログと展示だから……。
本書は、時と場所、そして役割(エージェンシー)の迷子状態(disorientation)(☆8)から着手する─動き出した地球を勘定に入れたとき、近代化主義の人間たちは、いつ、どこに、どのような人として位置付け直されるのか?
そしてこの迷子状態を、その人たちが暮らしていると思っている土地についての2種類の定義の懸隔(disconnection)として理解してみる。自分が住んでいる土地と、自分が生の糧を得ている土地。この分断によってその人たちは足場を失っている。
したがって、いつかその人たちが移住しなければならないあの土地の姿を描き出す必要がある。驚くべきことにそのような土地は、近代という幕間劇において考えられていたようなあのチキュウにも、自然にも似ていない。ここではそれを新たにクリティカルゾーン(Critical Zones)として、あるいはガイア(Gaia)として、かつてと根本的に異なる特徴を備えたものとして描き出す。そしてそれらの特徴をテレストリアル(Terrestrial)なものとして暫定的に定義しよう。
目下の状況の最大の悲劇は、私たちはどの惑星に共通して住んでいるのかという点について合意された定義がないことである。そのためにすべての政治学の根幹に関わる戦争状態、分裂(division)状態が生じている。
この「諸世界の諸戦争」に読者や観客はすでに巻き込まれている。自分の戦いを選び取るために、これら諸対立のどこに自分がいるか描写する(describe)技術を急いで開発しなければならない。
「思考展示」にできる精一杯のことは、諸技芸の助けを借りて、クリティカルゾーンにおける生き方を探求し、読者や観客を宙づり(suspension)の状態に置くための想像的空間を開くことである。
※本稿は、Bruno Latour,”Seven Objections Against Landing on Earth,“in Critical Zones: TheScience and Politics of Landing on Earth, eds. Bruno Latour and Peter Weibel(Cambridge,Massachusetts: MIT Press and ZKM|Center for Art and Media Karlsruhe, 2020)の訳出である。本書はZKMにて5月23日〜10月11日(4月18日時点予定)に開催される展覧会「クリティカルゾーン:地球的政治学のための観測所」(ZKM)のカタログとして刊行予定。本稿では底本としてラトゥールのウェブサイト上にPDF形式で公開されている序論の第2草稿(www.bruno-latour.fr/article.html、最終確認2020年3月23日)を用いた。