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地球に降り立つことへの7つの反対理由 ブリュノ・ラトゥール『クリティカルゾーン:地球に降り立つことの科学と政治学』序論

近代の社会政治と自然科学の関係性について再考し、アートシーンにも影響を与えてきたブリュノ・ラトゥール。ドイツのカールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM)にて予定される気候変動をテーマとした展覧会のカタログ序論として著された、地球の新たなとらえ方と「クリティカルゾーン」の概念について説くテキストと、本展スタディグループに参加してきた訳者による寄稿。『美術手帖』6月号「新しいエコロジー」特集にて掲載された翻訳論考と、翻訳を手がけた鈴木葉二による解題を掲載する。

文=ブリュノ・ラトゥール 訳=鈴木葉二

Frédérique Aït-Touati , Alexandra Arènes , Axelle Grégoire »The Soil Map«, in: »Terra Forma, manuel de cartographies potentielles« 2019 Detail (c)Frédérique Aït-Touati , Alexandra Arènes , Axelle Grégoire

 皆も学校で習った通り、宇宙の秩序内で地球の位置付けが変更されるときには、一緒に社会秩序も変革されるものだ。ガリレオの一件を思い出そう。天文学者たちが地球に太陽の周りを廻らせ始めたとき、社会構造の全体が、まるで総攻撃を受けたかのように感じたのだった(*1)。それから4世紀を経たいま、再び、地球の役割と位置付けは新しい学問によって変革されようとしている。どうも人間の振る舞いが、想定外の反応をさせるまでに地球を追い詰めてきたらしい。それにより、社会の成り立ち全体がまたしてもひっくり返されようとしている。宇宙の秩序を揺るがせば、政治学の秩序も揺らぐ。ただ今回は、地球に太陽の周りを廻らせることではなく、地球をどこかまったく別のところにやってしまうことが課題である。それもまるで、どうしたらそこに降り立つことができるか見当もつかないくらいに。

 「地球に降り立つ? 誰がそんなことをしようとするっていうんだ? だって皆地球にいるじゃないか?」

 いやいや、全然! そういう問いを持つ読者に実情を説明することこそ、本書の狙いである。地球的(earthly)であるということの意味については、以前からいくらか誤解があったようだ。この語が「現実的」「世俗的」「非宗教的」「物質的」あるいは「唯物主義者」を意味すると思っているなら、あなたもきっと驚くことになる読者のひとりだ。

 近代産業社会の人々が「地に足の着いた」、「理性的」で「客観的」、そして何より「現実主義者」であることを誇りに思ってきたとすれば、その人たちはおそらく突如として、生活を続けるには─そして良い生活をするには─地球がなくてはならないことに気付くだろう(Stengers)(☆1)。自分たちは、そこに住み繁栄するのに必要な土地の種類や大きさ、場所を注意深く探査しておくべきではなかったか。あの名高い「大発見時代」の事業に何百年も従事しながら、ずっと探査と地図制作を行ってきたのではなかったか。あれだけ多くの異国の土地の地図を集め、数多の風景からいくつも図を描き起こし、「地球儀(グローブ)」(☆2)を何度も更新しておきながら、いまさらこの新たに立ち現れつつある地球にぎょっとするとは、ずいぶんおかしなことではないか(Schaffer)。自分たちは、そのような発見に対して誰よりも心構えができていたはずではなかったか(*2)。

 しかし─私たちには予想のついたことだが─その人たちは、地球が侵入してきたことに衝撃を受けた。隅々までリストアップし、登録し、位置を特定し、囲い込み使い尽くそうとその人たちが思っていたような「チキュウ」は、これからもっと詳しく調べなくてはならない何物かのごく仮設的な雛形でしかなかったのではないだろうか。その人たちがなんの苦労もなく旅行して回ろうとする「あの球体状(グローバル)のもの」は、これから組み上げられなくてはならない「全体」からすれば、ごく一部の片田舎にすぎなかったのではないか。その人たちがあんなに熱心に推進していた例の「唯物主義」さえ、実際のところはむしろ、物質性が真に意味する何事かの空想版でしかなかったのではないか(Chakrabarty)。こうしてついに、21世紀の幕開けにおいて地球は、人類のなかの富裕で啓蒙された一群の人々のまったくの盲点に、再び未知の土地として現れるのである(Gaillardet)。

 これが本書の出発点である。驚くような形、大きさ、内容、活動を伴って侵入してくる地球が、3種類の当惑をもたらす。まずは場所─自分はどこにいるのか。次に時─自分はどんな時代にいるのか。そして、自己認識─自分は誰で、どんな役割(エージェンシー)(☆3)があって、この斬新な状況にどう立ち向かい、どうやって自分の振る舞いに間違いがないと確信を持つか。これまで「環境危機」や「気候変動」といった迂遠な言い回しが指そうとしていたのは、実際はこの歴史的瞬間である。いまこそこれを、生死に関わる存亡の危機ととらえるべきときだろう。

 「もしそんな大変動に突っ込む用意をしろというのなら、なぜ自分の計画を『クリティカルゾーン』なんて誰も知らない言葉で推進しようとするんだ?」

 それこそ私たちがこの語を好む理由だ! 「ゾーン」という語は定まった意味を持たないからこそ選び出された。それは不確かな状態、ぼやけた輪郭、当惑させるような雰囲気を表している。「領土」「故国」「国土」「母国」「自国」「風景」(☆4)といったものから離れて、「ゾーン」のようなもののほうにこそ注意を向け直さなくてはならない。無数の地図帳に見られる、あるいはいくつものGPS機器上でクリックできるような、外の空間から見た地球のイメージからは、とりわけ離れなくてはならない。これから降り立とうとしているのは知らない場所だということを強調するためには、そこを「ゾーン」と呼ぶ以上に良い方策はないと私たちは思う。その場所の不気味さ=非故郷性を、この語は完璧に言い表してはいないか(Etelain)? 

 ともあれクリティカルゾーンは、地球科学を中心とする少数の科学者たちが、異分野の知識を結集させ、生きている地球の薄い皮膜についての研究方法を刷新するために考え出した言葉だ(Dietrich)。なるほど、本書を読めばわかるように、形容詞「クリティカル」はいくつも意味を持っている。科学者たちにはそれぞれ違った考えがある。「熱力学的平衡からは程遠い」「毀れやすい」「水化学」「インターフェース」「守られるべきもの」、もしかすると急に「ティッピングポイント」を超えてしまうかもしれないもの、等々。ただ誰もが強調しているのは、まず「惑星・地球」という概念は─その天文学的または地質学的意味において─私たちが住んでいる場所を示すには不十分であること、そして私たちにとってクリティカルな事象のすべてを取り込むには別の枠組みが必要だということである─ここで言う「私たち」とは、人間以外も含めすべての生物を指すのだが。

 事実、この惑星を球体状のチキュウとしてとらえると、クリティカルゾーンはあまりの薄さに見えなくなってしまう。地球を惑星として、つまり地球儀のような形で想像すると、まるで自分が宇宙空間からそれを俯瞰するような格好になってしまうのを変だと感じたことはないだろうか。確かに、何十人かの宇宙飛行士はメカだらけのスペースマシンに乗って宇宙に行ったことがあるし、地球の写真も何枚か撮ったには違いない。だがそれは人間の住む場所ではないし、ふだん目にしている景色ではない。だからクリティカルゾーンという用語は非常に有効なのだ。それは私たちの想像力を、あのやたらに知れ渡った"青い地球"から解放してくれる。私たちは宇宙人ではない。私たちは厚さ数キロメートルに満たない薄いバイオフィルムのなかに生きていて、そこから逃れることはできない─しかもその薄い膜がどんなリアクション(化学変化、地質学的機序や社会への影響)をしてくるのかほとんどわかっていない、と「クリティカルゾーン主義者」なら付け加えるだろう。

 本書においてなぜ私たちがクリティカルゾーンという語に夢中かというと、たんにそれが惑星・地球の地図製作法的な見かけを崩せるからというだけでなく、同時に、あらゆるグローバルな世界観の法的・政治的な統一性を複雑化し、妨げるからだ。画面上の地図を何度もクリックしたり、見せかけのチキュウをあまり頻繁に眺めているがための職業病として、人々は地球を滑らかで単一で均質なものだと信じ込んでしまう。だがそれは、まるで魔法の杖を一振りされたかのごとく球体上に投影されたデータ群のせいなのだ。私たちはそのチキュウが決して画面や紙切れより大きくないことを忘れるべきではない。その図像は本来それが表すべきものを包括してはいない、単なるデータの寄せ集めに過ぎないのである(*3)。

 つまり、惑星・地球の代わりにクリティカルゾーンについて語ることの大きな利点は、地球システムの細々して毀れやすいかりそめの諸モデルと、問題の惑星をさっぱりと単一化しようとする科学的取り組みや、とくに政治的な企てとを混同してしまう誘惑に嵌らずに済むことだ。これこそ、球体としてのチキュウのイメージによって身動きが取れなくなっていたエコロジー派の人々が抱える悩みの種だったのである。反対に、「クリティカルゾーン派」にとっては、ゾーンは不完全でむらのある、雑多でばらばらなものである。本書を読み進めるうちにわかってくるはずだが、これらのむらほど議論の種になるものはない。そういうわけで、私たちの計画では可能なかぎり、あらゆるゴム風船的な球体、かぼちゃサイズの「母なる地球」、"青い地球"、「グリーンなんとか」を使うことを拒み、その豊かさをとらえるための観測点の数を増やすよう試みている。より謎めいた色が私たちのカラーだ─あるいは少なくとも、まだら模様が!

 ある問題の解決を政治に望むなら、解の組み立てに単一の「自然」を当てにしてはならない。私たちはそれを自分でしなければならないのである。少しずつ、ゾーンごとに、一片一片。ショートカットのコマンドはない。

 「仮に状況があなたの言う通りだとして、なぜカタログに『地球に降り立つことの科学と政治学』と名付けるんだ? 科学的事実と政治的感情を一緒にするなんて、あなたが何より避けたいことじゃなかったのか?」

 無論、別々にしておけるならそれに越したことはない。だが地球の振る舞いについての理解に革命的変化が起きているいま、しかも数千年来静止していた地球が急に動き出した17世紀と同様の規模で起きているいま、それは無理な相談である。地球を宇宙の中心から弾き出し、惑星として太陽の周りを動き回らせるために、当時の人々がどれだけ大騒ぎをしたことか。「科学革命」と呼び習わされるあのドラマで、どれだけのドタバタ劇が演じられてきたことか! それ以来、旧来の信仰を根絶やしにし、古代の天文学の誤謬を暴き、宗教的愛着を単なる迷信へとおとしめることを、人々がどれほど誇りに思ってきたことか。ほとんどの教養ある現代人は、これをつくり物のドラマではなく本物の歴史的進展であるといまだに信じている。あまりに強くそう信じた結果、今日の人々は宙づりにされたように土地感覚が薄くなってしまい、移住して暮らせる堅固な大地を求めているのである。「科学革命」をどう考えるにせよ、それは以下すべての基準を変えてしまうものだということは認められるだろう。科学に期待できる確かさとは何か。物質世界をどう理解すべきだったのか。信仰の場、芸術の機能、道徳の役割、政治に必要な技能、法的な拘束力の強さがどんなものであるべきか。自由な主体はどう振る舞うべきか。地球が現代の私たちの生き方をまたしてもぶち壊し、かき乱すような時代に突入したのだから、皆この乱気流に備えたほうがいい。新たなドラマがまたいくつか演じられなければならないことは間違いない(Aït-Touati)。

 軌道から外れた地球が突如押し入ってきて、その恐ろしい光景を見つめている人々に、地球は公転・自転運動だけでなく、ある振る舞いをも有しているのだと告げる。人々がかつて支配しようとしていた「物質世界」が、人類の行為に対し予想外に広範かつ高速に反応している(Zalasiewicz)。先ほど挙げた数々の変化は、まさにそういう事象に伴って起きている出来事ではないか? ここに来て私たちは気付く─ガリレオの時代に初めて天体としての運動を与えられた地球は、じつは私たちにとってむしろ、確実で安定して信頼できる不変な、そう、固定された不動の地面を提供していたのだ。だがそれと比べて、新しく動き出した地球のペースは断然速く、人類の歴史を追い抜くほどだ! もしドイツ語のErdkunde(☆5)が「地球の便り」という意味なら、そのメッセージはいっそう悩ましいものである(Koerner)。地球はまたも動いており、何もかもがまるで荒馬の背に乗っているかのように揺り動かされている。

 申し訳ないが、科学と政治をきれいに分けておけるのは平和なときだけであって、地球の動きが加速しているのに人類の反応が鈍っているいまは違う。最初の「科学革命」のときと同様に、いまはたんに科学的事実を言明しただけで、どうしてもそのすべてが警鐘、行動の呼びかけ、政治的声明、誰かの信条への耐え難い干渉となってしまう状況なのだ。気候科学否認派がどれほどあちこちに現れていることか。社会の権力構造が現状を保てないほど、宇宙の秩序が揺さぶられているということである。本書では、こうした科学と政治学の結び目をできるだけ包み隠さずあらわにし、新たな着地点(*4)から逃れられるという幻想を払拭しよう。

 「もし読者がクリティカルゾーンや、科学と政治の新たな結び目について首尾よく納得したとしても、つまりあなたの話の出発点に立ったとしても、本当は自分の住処から別居させられているとか、いますぐ別の場所に移送されなきゃならないなんて、ちょっとついて行けないと思うよ」

 逆にそれはそう難しいことではないだろう。少なくともここで言う「読者」が、ありうる読者のうちでもとくに近代の、あるいは近代化された人たちだとしたら。

 「近代の」人々の定義として、自分が住んでいない場所から生の糧を得ている人々、と言えばかなり的確だろう。少なくともその人たちはふたつの世界のあいだで生きている。ひとつはその人たちの習慣、法の保護、不動産証書、国家による補助がある場所、つまり自分が住んでいる世界。それに加えて、影のようなふたつ目の世界、遠く隔たり、法の保護も明確な所有権も国家による権利保障もないことによって利益を吸い取っている世界がある。これを自分の生の糧を得ている世界と呼ぼう。近代化主義者たちはつねに後者の世界を無視しながらも、自分たちは前者の世界にだけ住んでいるのだという幻想を維持するのに必要な資源を、そこから引き出してきた(Charbonnier)。近代人というのはいつも不在地主のように振る舞ってきたのである。

 これでは近代性の定義を脚色しすぎているというのであれば、新気候体制に関わるデータを大量に集計した科学者たちのおかげで知れ渡ることになった、例のホッケースティック曲線を見てみるのが良いだろう(*5)。このグラフはここ数年で「グレート・アクセラレーション」と呼ばれるようになったものを表しており、長いスパンで言えば、地質学者が完新世と呼ぶ過去1万2000年のほぼ水平に推移したラインから、人新世と呼ばれる垂直に伸び上がるラインへの急激な変化を示している。グラフを突き破るほど急上昇し続けるその線は、科学者たちが疲れ果てるほど説明し尽くしてきたものであり、聴衆にとっては見るも恐ろしいものである。1950年代、このグラフが「離陸」していったとき、国々がどんなふうに「開発=発展」への道を歩もうとしていたか覚えているだろうか? はっきり言って、ここではもはや発射としか呼びようのない何事かが起こっている。近代化主義者たちは、どこから生の糧を得ていたにせよ、自分が住んでいる世界と糧を得ている世界との紐帯をすべて切り離してきた。重力から逃れてきたのだ。長い水平線、急変化、そしてほぼ完全な垂直線。こうした図はすべて、あの熱狂的な時代精神のしるしである。

 しかしながら、さらに歴史を詳しく見てみると、近代化主義者たちの生まれつきの「遍在性」あるいは「二重性」は、最近だけの現象ではない。実際それは長く存在してきたので、1610年、1789年、1945年、どれを始点に選んだとしても大した違いはない。何エーカーもの経済圏に、ずっと離れた土地にあるより多くの「ゴースト・エーカー」からなる仮想経済圏を付け加えることが、植民地主義、奴隷制、輸送と技術の複合事業によってひとたび可能になれば、もはやふたつの世界の隔たりは広がり続けるばかりだからだ(*6)。空間においてのみならず、時間においても(Mitchell)。限られた資源をやりくりする科学だった経済は、あらゆる限度を忘れるための議論になったのである(*7)。とくに石炭と石油、天然ガスという、地中深くに隠されていた真の「お化けエーカー」によって、エコノミストたちはついに無限を手に入れたと感じたものだ─ついに、と言っても、再び有限性と向き合わなければならなくなるまでのことではあるが。

 現在の悲劇にある種の暴力がついて回るのは、地球が人間の行為に応答し始めたために、あのふたつの世界がこれ以上離れたままではいられなくなったからである。近代化主義者たちは突然、自分が奈落の上に不安定な姿勢で持ち堪えていることに気付く。自分の生の糧を得ている世界が、自分の住んでいる世界のただなかに侵入してきている(*8)。こうして、まったく見慣れないもの─このエイリアンたちはどこから来たんだ?─であると同時に、実は恐ろしくも旧知のもの─それらに依存していたことはわかっていたはずだ─でもある、人間も人間以上のものも含めたあらゆる存在が侵入してくるのを眼前にして、現在のパニック状態は起きている。衝突するふたつの惑星の形相は、直視に耐えるものではない。

 「地球に降り立つ」の含意はこういうことである。ふたつの激しくかけ離れてしまった領土の境界に融和をもたらすことが使命である。もしくは飛行機の比喩を続けるなら、近代化主義者にとっての目標は、大惨事を起こさず着陸することだ! こういうわけで、読者に自分たちの移住先となる場所の探査に関心を持たせることは、そう難しいことではないだろう。

「でも、もしその2種類の天体の衝突って話が正しいとしたら、あなたは読者をいくつもの対立のまっただなかに放り込みたいってことになる。要するに読者の行き先は、戦争地帯(ウォー・ゾーン)っていうわけじゃないか!」

 正直、それは半々というところだ。確かに生死をめぐって戦うことになる存亡の危機があることには間違いない。だがこの戦いの意味を知るうえで、過去の戦争や革命のパターンはひとつも適用できない。その違いを明確化するのも本書の狙いである。

 まず、この戦いには、旗やよく目立つ軍服で敵味方を判別できるようなはっきりした前線はない。だからこれらの戦いを「例外的な戦争」と呼んだとしても、まだ事を小さく見積もりすぎている。どの国家も内部に分裂を抱え、またどの問題も国境の内部だけでは取り組みえないものだからだ。加えて、人はこれを「グローバル」な戦争として議論し続けているが、そこにははっきりと結びついたひとつの敵がいるわけではなく、戦士たちは皆違った斧を研いでいて、どこもかしこもゲリラ戦状態になっている。では私たちは内戦状態なのか? いや、もっと惨めな状態だ。なぜなら一人ひとりの参戦者たちが自分自身のなかにも分裂を抱えているのだから。

 何か単一の問題があるわけではないと認める必要がある。何を食べるか、どんな家を建てるか、どうやって移動するか、何を着るか、どうやって部屋を暖めたり涼しくしたりするか、どんな資源に頼るか、どんな製品を好むか、なんの木を育てるか、どの動物を保護するか、どこに住み着くか─これらははっきり陣営の分かれた人々のあいだで論争される議題というわけではない。と同時に、いちいちの判断が長期的には望まぬ結果を招くかもしれないことを無視したまま話すわけにもいかない議題である。当初の目的と結果が本当に一致するか確かめようがない。こうした問題では、誰を友とし仲間とするか、どこでどの期間、なんのために戦うのかを決めることさえ、大掛かりな努力を要する(Coccia)。戦争の比喩が、じりじりして気の狂いそうな良心のとがめとジレンマに満ちた道徳論のパズルへと変質してしまうほどに。こういうわけで、この奇妙に入り組んだ戦時総動員は同時代を生きる人々の多くを道徳の難破船にし、麻痺状態に陥らせている。

 あなたは汚染や採掘、侵略や放逐(*9)といった類の侵害から自分の領土を守れる、と言うかもしれないが、自分の領土を説得力あるやり方で描写することが下手だったら、それは茶番劇にしかならない。自分が住んでいる場所と生の糧を得ている場所の違いを顧みない人たちに、政治的に適切な行動を期待することはできない。本書で私たちが一見退屈な「たんに描写する」という課題を重要視するのはこのためだ(Schultz)。派手なものではないが、地球に降り立つためには必須の基本技能である。「クリティカルゾーンの観測所」を設けることの効能は、ある土地の上に立っていることの意味に厚みを持たせ、ものたちを再び賦活すること、そして来たるべき筋書きに一役演じるキャラクターの数を増やすことにある。

 この種の議論に重ねられがちな古典的戦争のパターンが今回は意味をなさないふたつ目の理由は、もはや対立は人間の諸陣営(エージェンツ)に限った話ではなくなっているということだ。人間の諸陣営は種々の直感に反した仕方で、これまで軍事作戦のフィールドとして以外認識されていなかった存在たちに巻き込まれている。私たちは、害虫との戦いについてはいくらか覚えがあるとしても、虫たちとともに、虫たちのために戦うことにはまったく覚えがないはずである(宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』を除いては!)。天候が戦いの勝敗を左右することは知っていても、気候のために誰かを倒す戦いに勝利することの意味は知らない。要塞をつくるために樹木を伐採する経験は長年積んだが、樹々とともに、樹々の継続的な繁栄のために、ある人たちを名指しで敵と認識し戦うことの新しさをどうしたらのみ込めるかはわからない。前線すらはっきりせず、勝つべき側も負けるべき側もよくわからない状態では、「戦争の大義名分」という体裁を保つことさえできそうにもない。

 しかし、これが惑星規模でどちらかが殲滅されるまでずっと続く戦争であることに疑いはない。20世紀は「世界大戦」に事欠かない時代だったが、この新しい戦争と比べてみれば、それらはいくつもの区切られた戦いだったように思える。それらは惑星全体をこんなふうに巻き込んではいなかった(*10)。地球はあくまでゲーム盤であって、参戦者ではなかった─なのに失うものがもっとも大きい存在であった。今回も地球は統制のとれたチームというわけではない。それはあらゆる単一化に抗う集団なのだ(Stengers)。人々が何を攻撃して何を守ればいいのかわからなくなっているのも無理はない。

 ついでに言えば、一部の富裕層が何もかもから脱退してまったく別の惑星に行こうとしていることにも不思議はない─「チャオ、貧乏人ども!火星で会おう!」。いま、いわば「取り残されている」私たちにとって火急なのは、前線を単純化することではなく、将来の参戦者たちがこの戦いの前線を正しく描き出すのに必要な装備を用意することだ。描写のフェーズをスキップするわけにはいかないのである。

編集部

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