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INSIGHT - 2020.5.22

地球に降り立つことへの7つの反対理由 ブリュノ・ラトゥール『クリティカルゾーン:地球に降り立つことの科学と政治学』序論

近代の社会政治と自然科学の関係性について再考し、アートシーンにも影響を与えてきたブリュノ・ラトゥール。ドイツのカールスルーエ・アート・アンド・メディア・センター(ZKM)にて予定される気候変動をテーマとした展覧会のカタログ序論として著された、地球の新たなとらえ方と「クリティカルゾーン」の概念について説くテキストと、本展スタディグループに参加してきた訳者による寄稿。『美術手帖』6月号「新しいエコロジー」特集にて掲載された翻訳論考と、翻訳を手がけた鈴木葉二による解題を掲載する。

文=ブリュノ・ラトゥール 訳=鈴木葉二

Frédérique Aït-Touati , Alexandra Arènes , Axelle Grégoire »The Soil Map«, in: »Terra Forma, manuel de cartographies potentielles« 2019 Detail (c)Frédérique Aït-Touati , Alexandra Arènes , Axelle Grégoire
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 皆も学校で習った通り、宇宙の秩序内で地球の位置付けが変更されるときには、一緒に社会秩序も変革されるものだ。ガリレオの一件を思い出そう。天文学者たちが地球に太陽の周りを廻らせ始めたとき、社会構造の全体が、まるで総攻撃を受けたかのように感じたのだった(*1)。それから4世紀を経たいま、再び、地球の役割と位置付けは新しい学問によって変革されようとしている。どうも人間の振る舞いが、想定外の反応をさせるまでに地球を追い詰めてきたらしい。それにより、社会の成り立ち全体がまたしてもひっくり返されようとしている。宇宙の秩序を揺るがせば、政治学の秩序も揺らぐ。ただ今回は、地球に太陽の周りを廻らせることではなく、地球をどこかまったく別のところにやってしまうことが課題である。それもまるで、どうしたらそこに降り立つことができるか見当もつかないくらいに。

 「地球に降り立つ? 誰がそんなことをしようとするっていうんだ? だって皆地球にいるじゃないか?」

 いやいや、全然! そういう問いを持つ読者に実情を説明することこそ、本書の狙いである。地球的(earthly)であるということの意味については、以前からいくらか誤解があったようだ。この語が「現実的」「世俗的」「非宗教的」「物質的」あるいは「唯物主義者」を意味すると思っているなら、あなたもきっと驚くことになる読者のひとりだ。

 近代産業社会の人々が「地に足の着いた」、「理性的」で「客観的」、そして何より「現実主義者」であることを誇りに思ってきたとすれば、その人たちはおそらく突如として、生活を続けるには─そして良い生活をするには─地球がなくてはならないことに気付くだろう(Stengers)(☆1)。自分たちは、そこに住み繁栄するのに必要な土地の種類や大きさ、場所を注意深く探査しておくべきではなかったか。あの名高い「大発見時代」の事業に何百年も従事しながら、ずっと探査と地図制作を行ってきたのではなかったか。あれだけ多くの異国の土地の地図を集め、数多の風景からいくつも図を描き起こし、「地球儀(グローブ)」(☆2)を何度も更新しておきながら、いまさらこの新たに立ち現れつつある地球にぎょっとするとは、ずいぶんおかしなことではないか(Schaffer)。自分たちは、そのような発見に対して誰よりも心構えができていたはずではなかったか(*2)。

 しかし─私たちには予想のついたことだが─その人たちは、地球が侵入してきたことに衝撃を受けた。隅々までリストアップし、登録し、位置を特定し、囲い込み使い尽くそうとその人たちが思っていたような「チキュウ」は、これからもっと詳しく調べなくてはならない何物かのごく仮設的な雛形でしかなかったのではないだろうか。その人たちがなんの苦労もなく旅行して回ろうとする「あの球体状(グローバル)のもの」は、これから組み上げられなくてはならない「全体」からすれば、ごく一部の片田舎にすぎなかったのではないか。その人たちがあんなに熱心に推進していた例の「唯物主義」さえ、実際のところはむしろ、物質性が真に意味する何事かの空想版でしかなかったのではないか(Chakrabarty)。こうしてついに、21世紀の幕開けにおいて地球は、人類のなかの富裕で啓蒙された一群の人々のまったくの盲点に、再び未知の土地として現れるのである(Gaillardet)。

 これが本書の出発点である。驚くような形、大きさ、内容、活動を伴って侵入してくる地球が、3種類の当惑をもたらす。まずは場所─自分はどこにいるのか。次に時─自分はどんな時代にいるのか。そして、自己認識─自分は誰で、どんな役割(エージェンシー)(☆3)があって、この斬新な状況にどう立ち向かい、どうやって自分の振る舞いに間違いがないと確信を持つか。これまで「環境危機」や「気候変動」といった迂遠な言い回しが指そうとしていたのは、実際はこの歴史的瞬間である。いまこそこれを、生死に関わる存亡の危機ととらえるべきときだろう。

 「もしそんな大変動に突っ込む用意をしろというのなら、なぜ自分の計画を『クリティカルゾーン』なんて誰も知らない言葉で推進しようとするんだ?」

 それこそ私たちがこの語を好む理由だ! 「ゾーン」という語は定まった意味を持たないからこそ選び出された。それは不確かな状態、ぼやけた輪郭、当惑させるような雰囲気を表している。「領土」「故国」「国土」「母国」「自国」「風景」(☆4)といったものから離れて、「ゾーン」のようなもののほうにこそ注意を向け直さなくてはならない。無数の地図帳に見られる、あるいはいくつものGPS機器上でクリックできるような、外の空間から見た地球のイメージからは、とりわけ離れなくてはならない。これから降り立とうとしているのは知らない場所だということを強調するためには、そこを「ゾーン」と呼ぶ以上に良い方策はないと私たちは思う。その場所の不気味さ=非故郷性を、この語は完璧に言い表してはいないか(Etelain)? 

 ともあれクリティカルゾーンは、地球科学を中心とする少数の科学者たちが、異分野の知識を結集させ、生きている地球の薄い皮膜についての研究方法を刷新するために考え出した言葉だ(Dietrich)。なるほど、本書を読めばわかるように、形容詞「クリティカル」はいくつも意味を持っている。科学者たちにはそれぞれ違った考えがある。「熱力学的平衡からは程遠い」「毀れやすい」「水化学」「インターフェース」「守られるべきもの」、もしかすると急に「ティッピングポイント」を超えてしまうかもしれないもの、等々。ただ誰もが強調しているのは、まず「惑星・地球」という概念は─その天文学的または地質学的意味において─私たちが住んでいる場所を示すには不十分であること、そして私たちにとってクリティカルな事象のすべてを取り込むには別の枠組みが必要だということである─ここで言う「私たち」とは、人間以外も含めすべての生物を指すのだが。

 事実、この惑星を球体状のチキュウとしてとらえると、クリティカルゾーンはあまりの薄さに見えなくなってしまう。地球を惑星として、つまり地球儀のような形で想像すると、まるで自分が宇宙空間からそれを俯瞰するような格好になってしまうのを変だと感じたことはないだろうか。確かに、何十人かの宇宙飛行士はメカだらけのスペースマシンに乗って宇宙に行ったことがあるし、地球の写真も何枚か撮ったには違いない。だがそれは人間の住む場所ではないし、ふだん目にしている景色ではない。だからクリティカルゾーンという用語は非常に有効なのだ。それは私たちの想像力を、あのやたらに知れ渡った"青い地球"から解放してくれる。私たちは宇宙人ではない。私たちは厚さ数キロメートルに満たない薄いバイオフィルムのなかに生きていて、そこから逃れることはできない─しかもその薄い膜がどんなリアクション(化学変化、地質学的機序や社会への影響)をしてくるのかほとんどわかっていない、と「クリティカルゾーン主義者」なら付け加えるだろう。

 本書においてなぜ私たちがクリティカルゾーンという語に夢中かというと、たんにそれが惑星・地球の地図製作法的な見かけを崩せるからというだけでなく、同時に、あらゆるグローバルな世界観の法的・政治的な統一性を複雑化し、妨げるからだ。画面上の地図を何度もクリックしたり、見せかけのチキュウをあまり頻繁に眺めているがための職業病として、人々は地球を滑らかで単一で均質なものだと信じ込んでしまう。だがそれは、まるで魔法の杖を一振りされたかのごとく球体上に投影されたデータ群のせいなのだ。私たちはそのチキュウが決して画面や紙切れより大きくないことを忘れるべきではない。その図像は本来それが表すべきものを包括してはいない、単なるデータの寄せ集めに過ぎないのである(*3)。

 つまり、惑星・地球の代わりにクリティカルゾーンについて語ることの大きな利点は、地球システムの細々して毀れやすいかりそめの諸モデルと、問題の惑星をさっぱりと単一化しようとする科学的取り組みや、とくに政治的な企てとを混同してしまう誘惑に嵌らずに済むことだ。これこそ、球体としてのチキュウのイメージによって身動きが取れなくなっていたエコロジー派の人々が抱える悩みの種だったのである。反対に、「クリティカルゾーン派」にとっては、ゾーンは不完全でむらのある、雑多でばらばらなものである。本書を読み進めるうちにわかってくるはずだが、これらのむらほど議論の種になるものはない。そういうわけで、私たちの計画では可能なかぎり、あらゆるゴム風船的な球体、かぼちゃサイズの「母なる地球」、"青い地球"、「グリーンなんとか」を使うことを拒み、その豊かさをとらえるための観測点の数を増やすよう試みている。より謎めいた色が私たちのカラーだ─あるいは少なくとも、まだら模様が!

 ある問題の解決を政治に望むなら、解の組み立てに単一の「自然」を当てにしてはならない。私たちはそれを自分でしなければならないのである。少しずつ、ゾーンごとに、一片一片。ショートカットのコマンドはない。

 「仮に状況があなたの言う通りだとして、なぜカタログに『地球に降り立つことの科学と政治学』と名付けるんだ? 科学的事実と政治的感情を一緒にするなんて、あなたが何より避けたいことじゃなかったのか?」

 無論、別々にしておけるならそれに越したことはない。だが地球の振る舞いについての理解に革命的変化が起きているいま、しかも数千年来静止していた地球が急に動き出した17世紀と同様の規模で起きているいま、それは無理な相談である。地球を宇宙の中心から弾き出し、惑星として太陽の周りを動き回らせるために、当時の人々がどれだけ大騒ぎをしたことか。「科学革命」と呼び習わされるあのドラマで、どれだけのドタバタ劇が演じられてきたことか! それ以来、旧来の信仰を根絶やしにし、古代の天文学の誤謬を暴き、宗教的愛着を単なる迷信へとおとしめることを、人々がどれほど誇りに思ってきたことか。ほとんどの教養ある現代人は、これをつくり物のドラマではなく本物の歴史的進展であるといまだに信じている。あまりに強くそう信じた結果、今日の人々は宙づりにされたように土地感覚が薄くなってしまい、移住して暮らせる堅固な大地を求めているのである。「科学革命」をどう考えるにせよ、それは以下すべての基準を変えてしまうものだということは認められるだろう。科学に期待できる確かさとは何か。物質世界をどう理解すべきだったのか。信仰の場、芸術の機能、道徳の役割、政治に必要な技能、法的な拘束力の強さがどんなものであるべきか。自由な主体はどう振る舞うべきか。地球が現代の私たちの生き方をまたしてもぶち壊し、かき乱すような時代に突入したのだから、皆この乱気流に備えたほうがいい。新たなドラマがまたいくつか演じられなければならないことは間違いない(Aït-Touati)。

 軌道から外れた地球が突如押し入ってきて、その恐ろしい光景を見つめている人々に、地球は公転・自転運動だけでなく、ある振る舞いをも有しているのだと告げる。人々がかつて支配しようとしていた「物質世界」が、人類の行為に対し予想外に広範かつ高速に反応している(Zalasiewicz)。先ほど挙げた数々の変化は、まさにそういう事象に伴って起きている出来事ではないか? ここに来て私たちは気付く─ガリレオの時代に初めて天体としての運動を与えられた地球は、じつは私たちにとってむしろ、確実で安定して信頼できる不変な、そう、固定された不動の地面を提供していたのだ。だがそれと比べて、新しく動き出した地球のペースは断然速く、人類の歴史を追い抜くほどだ! もしドイツ語のErdkunde(☆5)が「地球の便り」という意味なら、そのメッセージはいっそう悩ましいものである(Koerner)。地球はまたも動いており、何もかもがまるで荒馬の背に乗っているかのように揺り動かされている。

 申し訳ないが、科学と政治をきれいに分けておけるのは平和なときだけであって、地球の動きが加速しているのに人類の反応が鈍っているいまは違う。最初の「科学革命」のときと同様に、いまはたんに科学的事実を言明しただけで、どうしてもそのすべてが警鐘、行動の呼びかけ、政治的声明、誰かの信条への耐え難い干渉となってしまう状況なのだ。気候科学否認派がどれほどあちこちに現れていることか。社会の権力構造が現状を保てないほど、宇宙の秩序が揺さぶられているということである。本書では、こうした科学と政治学の結び目をできるだけ包み隠さずあらわにし、新たな着地点(*4)から逃れられるという幻想を払拭しよう。

 「もし読者がクリティカルゾーンや、科学と政治の新たな結び目について首尾よく納得したとしても、つまりあなたの話の出発点に立ったとしても、本当は自分の住処から別居させられているとか、いますぐ別の場所に移送されなきゃならないなんて、ちょっとついて行けないと思うよ」

 逆にそれはそう難しいことではないだろう。少なくともここで言う「読者」が、ありうる読者のうちでもとくに近代の、あるいは近代化された人たちだとしたら。

 「近代の」人々の定義として、自分が住んでいない場所から生の糧を得ている人々、と言えばかなり的確だろう。少なくともその人たちはふたつの世界のあいだで生きている。ひとつはその人たちの習慣、法の保護、不動産証書、国家による補助がある場所、つまり自分が住んでいる世界。それに加えて、影のようなふたつ目の世界、遠く隔たり、法の保護も明確な所有権も国家による権利保障もないことによって利益を吸い取っている世界がある。これを自分の生の糧を得ている世界と呼ぼう。近代化主義者たちはつねに後者の世界を無視しながらも、自分たちは前者の世界にだけ住んでいるのだという幻想を維持するのに必要な資源を、そこから引き出してきた(Charbonnier)。近代人というのはいつも不在地主のように振る舞ってきたのである。

 これでは近代性の定義を脚色しすぎているというのであれば、新気候体制に関わるデータを大量に集計した科学者たちのおかげで知れ渡ることになった、例のホッケースティック曲線を見てみるのが良いだろう(*5)。このグラフはここ数年で「グレート・アクセラレーション」と呼ばれるようになったものを表しており、長いスパンで言えば、地質学者が完新世と呼ぶ過去1万2000年のほぼ水平に推移したラインから、人新世と呼ばれる垂直に伸び上がるラインへの急激な変化を示している。グラフを突き破るほど急上昇し続けるその線は、科学者たちが疲れ果てるほど説明し尽くしてきたものであり、聴衆にとっては見るも恐ろしいものである。1950年代、このグラフが「離陸」していったとき、国々がどんなふうに「開発=発展」への道を歩もうとしていたか覚えているだろうか? はっきり言って、ここではもはや発射としか呼びようのない何事かが起こっている。近代化主義者たちは、どこから生の糧を得ていたにせよ、自分が住んでいる世界と糧を得ている世界との紐帯をすべて切り離してきた。重力から逃れてきたのだ。長い水平線、急変化、そしてほぼ完全な垂直線。こうした図はすべて、あの熱狂的な時代精神のしるしである。

 しかしながら、さらに歴史を詳しく見てみると、近代化主義者たちの生まれつきの「遍在性」あるいは「二重性」は、最近だけの現象ではない。実際それは長く存在してきたので、1610年、1789年、1945年、どれを始点に選んだとしても大した違いはない。何エーカーもの経済圏に、ずっと離れた土地にあるより多くの「ゴースト・エーカー」からなる仮想経済圏を付け加えることが、植民地主義、奴隷制、輸送と技術の複合事業によってひとたび可能になれば、もはやふたつの世界の隔たりは広がり続けるばかりだからだ(*6)。空間においてのみならず、時間においても(Mitchell)。限られた資源をやりくりする科学だった経済は、あらゆる限度を忘れるための議論になったのである(*7)。とくに石炭と石油、天然ガスという、地中深くに隠されていた真の「お化けエーカー」によって、エコノミストたちはついに無限を手に入れたと感じたものだ─ついに、と言っても、再び有限性と向き合わなければならなくなるまでのことではあるが。

 現在の悲劇にある種の暴力がついて回るのは、地球が人間の行為に応答し始めたために、あのふたつの世界がこれ以上離れたままではいられなくなったからである。近代化主義者たちは突然、自分が奈落の上に不安定な姿勢で持ち堪えていることに気付く。自分の生の糧を得ている世界が、自分の住んでいる世界のただなかに侵入してきている(*8)。こうして、まったく見慣れないもの─このエイリアンたちはどこから来たんだ?─であると同時に、実は恐ろしくも旧知のもの─それらに依存していたことはわかっていたはずだ─でもある、人間も人間以上のものも含めたあらゆる存在が侵入してくるのを眼前にして、現在のパニック状態は起きている。衝突するふたつの惑星の形相は、直視に耐えるものではない。

 「地球に降り立つ」の含意はこういうことである。ふたつの激しくかけ離れてしまった領土の境界に融和をもたらすことが使命である。もしくは飛行機の比喩を続けるなら、近代化主義者にとっての目標は、大惨事を起こさず着陸することだ! こういうわけで、読者に自分たちの移住先となる場所の探査に関心を持たせることは、そう難しいことではないだろう。

「でも、もしその2種類の天体の衝突って話が正しいとしたら、あなたは読者をいくつもの対立のまっただなかに放り込みたいってことになる。要するに読者の行き先は、戦争地帯(ウォー・ゾーン)っていうわけじゃないか!」

 正直、それは半々というところだ。確かに生死をめぐって戦うことになる存亡の危機があることには間違いない。だがこの戦いの意味を知るうえで、過去の戦争や革命のパターンはひとつも適用できない。その違いを明確化するのも本書の狙いである。

 まず、この戦いには、旗やよく目立つ軍服で敵味方を判別できるようなはっきりした前線はない。だからこれらの戦いを「例外的な戦争」と呼んだとしても、まだ事を小さく見積もりすぎている。どの国家も内部に分裂を抱え、またどの問題も国境の内部だけでは取り組みえないものだからだ。加えて、人はこれを「グローバル」な戦争として議論し続けているが、そこにははっきりと結びついたひとつの敵がいるわけではなく、戦士たちは皆違った斧を研いでいて、どこもかしこもゲリラ戦状態になっている。では私たちは内戦状態なのか? いや、もっと惨めな状態だ。なぜなら一人ひとりの参戦者たちが自分自身のなかにも分裂を抱えているのだから。

 何か単一の問題があるわけではないと認める必要がある。何を食べるか、どんな家を建てるか、どうやって移動するか、何を着るか、どうやって部屋を暖めたり涼しくしたりするか、どんな資源に頼るか、どんな製品を好むか、なんの木を育てるか、どの動物を保護するか、どこに住み着くか─これらははっきり陣営の分かれた人々のあいだで論争される議題というわけではない。と同時に、いちいちの判断が長期的には望まぬ結果を招くかもしれないことを無視したまま話すわけにもいかない議題である。当初の目的と結果が本当に一致するか確かめようがない。こうした問題では、誰を友とし仲間とするか、どこでどの期間、なんのために戦うのかを決めることさえ、大掛かりな努力を要する(Coccia)。戦争の比喩が、じりじりして気の狂いそうな良心のとがめとジレンマに満ちた道徳論のパズルへと変質してしまうほどに。こういうわけで、この奇妙に入り組んだ戦時総動員は同時代を生きる人々の多くを道徳の難破船にし、麻痺状態に陥らせている。

 あなたは汚染や採掘、侵略や放逐(*9)といった類の侵害から自分の領土を守れる、と言うかもしれないが、自分の領土を説得力あるやり方で描写することが下手だったら、それは茶番劇にしかならない。自分が住んでいる場所と生の糧を得ている場所の違いを顧みない人たちに、政治的に適切な行動を期待することはできない。本書で私たちが一見退屈な「たんに描写する」という課題を重要視するのはこのためだ(Schultz)。派手なものではないが、地球に降り立つためには必須の基本技能である。「クリティカルゾーンの観測所」を設けることの効能は、ある土地の上に立っていることの意味に厚みを持たせ、ものたちを再び賦活すること、そして来たるべき筋書きに一役演じるキャラクターの数を増やすことにある。

 この種の議論に重ねられがちな古典的戦争のパターンが今回は意味をなさないふたつ目の理由は、もはや対立は人間の諸陣営(エージェンツ)に限った話ではなくなっているということだ。人間の諸陣営は種々の直感に反した仕方で、これまで軍事作戦のフィールドとして以外認識されていなかった存在たちに巻き込まれている。私たちは、害虫との戦いについてはいくらか覚えがあるとしても、虫たちとともに、虫たちのために戦うことにはまったく覚えがないはずである(宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』を除いては!)。天候が戦いの勝敗を左右することは知っていても、気候のために誰かを倒す戦いに勝利することの意味は知らない。要塞をつくるために樹木を伐採する経験は長年積んだが、樹々とともに、樹々の継続的な繁栄のために、ある人たちを名指しで敵と認識し戦うことの新しさをどうしたらのみ込めるかはわからない。前線すらはっきりせず、勝つべき側も負けるべき側もよくわからない状態では、「戦争の大義名分」という体裁を保つことさえできそうにもない。

 しかし、これが惑星規模でどちらかが殲滅されるまでずっと続く戦争であることに疑いはない。20世紀は「世界大戦」に事欠かない時代だったが、この新しい戦争と比べてみれば、それらはいくつもの区切られた戦いだったように思える。それらは惑星全体をこんなふうに巻き込んではいなかった(*10)。地球はあくまでゲーム盤であって、参戦者ではなかった─なのに失うものがもっとも大きい存在であった。今回も地球は統制のとれたチームというわけではない。それはあらゆる単一化に抗う集団なのだ(Stengers)。人々が何を攻撃して何を守ればいいのかわからなくなっているのも無理はない。

 ついでに言えば、一部の富裕層が何もかもから脱退してまったく別の惑星に行こうとしていることにも不思議はない─「チャオ、貧乏人ども!火星で会おう!」。いま、いわば「取り残されている」私たちにとって火急なのは、前線を単純化することではなく、将来の参戦者たちがこの戦いの前線を正しく描き出すのに必要な装備を用意することだ。描写のフェーズをスキップするわけにはいかないのである。

 
「じゃあ、そいつらは火星に行ってもらうとしよう。ただ、どこの政党も、境界を閉ざしてアイデンティティを固守して、古い国土(ランド)に回帰しようって叫んでいるよね。そんなときに『土地(ランド)に落ち着くこと』や『故郷を守ること』を主張して大丈夫なのかな。つまり、『血と土』的な反動と危ういほど似ているように聞こえるけど」

 忌憚ないご意見に感謝しよう。その批判は私たちのプロジェクトの前途にとって吉兆ではないが、「危ういほど似ている」ことは重要な点だ。結局、火星に移住する案は非現実的だと思ったとしても、それなら祖先たちの眠る土地に戻る案のほうがまだ現実的だ、と考えてしまうわけだ。国家の保護に回帰しようという、昨今見られる「血と土」への反動的な動きは、魅惑的な大気圏外への脱出と同じくらい非現実的ではあるが、保護を求めること自体には一理ある。「世界をまたにかけて(グローバルに)」生活する夢が消え去ったいま、場所なしで生きることを拒む人々をもう排除するわけにはいかない。ある場所を占めて、土地の上で、土から糧を得て生きることが何を意味するのか。この問いはいま再び重要なものとして開かれている。自分が住んでいる世界と自分が生の糧を得ている世界との分裂を回避したいという願いは、道徳的には非の打ち所がないものである。別の何かが問題なのだ。これこそ、私たちが「地球的政治学」というタイトルで探求していきたいものなのである。

 クリティカルゾーンという語が科学的かつ政治学的に強い訴求力を持つのは、ある土地が「自分の」土地であると言った場合に、じつは自分がそれについてほとんど何も知らないことに気付かせてくれるからだ(Vanuxem)。

 自分の土地を構成するパートナーたちをどれだけ数え上げられるだろうか。まずどれくらいの厚みが必要だと考えるか。20センチ、3メートル、それとも3キロメートルか。地中の母岩まで達する水の循環経路はどうだろうか。その孔隙率、粒度について考えたことはあるか。ミミズのことも忘れてはいなかったか。「自分の」と言うとき、サハラ砂漠から吹く紅砂や、中国の工場からやってくる酸性雨もそこに含めたか。ある土壌ができるまでには10万年かかるということ、そしてそれが深刻に激減するまであと40年しかかからないと試算する研究があることに、どう反応したらいいのか。クリティカルゾーンとして立ち現れてくるものは明らかに、祖先たちが眠る土地とは違う(Richter)。クリティカルゾーンはより厚く、濃密で、古く、そしてたくさんのものたちがすみ着いている。したがって、かつてと同じようなアイデンティティ・クライシスは起こらないし、前線もまったく異なるものになるのである。

 おわかりの通り、祖先のルーツを祀ることも結構だが、植物から学ぶことも大切なのだ! 地球的である、ということはかつて「自然」を構成すると思われていたあらゆる部分について、より現実的になることである。それにはもう一度新たに百科全書的な踏査が必要となる。気候については、すでに十分私たちの政治にけんか騒ぎとともに参入してきているので、始めるのは簡単である。自分の土地の上にあったかつての「大気」は、いまや「以前と同じ」状態に保とうとするだけでも大規模な政治的努力を要するものとなった。だがそれは、例えば河川についても同様だ。川はなんの努力もなしに風景のなかを流れているわけではない。川は、その気まぐれさについてまだほとんど知られていない水の循環サイクルにおける一形態に過ぎない(Da Cunha)。氷河もあまり当てにはならない。いままさに恐ろしい歴史に足を踏み入れたところだから。草花? それらの原産地を言い当てることなど不可能だ。どれか一種類でも原産地をたどろうと思ったら、あっという間に複雑な地政学に足を踏み入れて、ほとんど世界中を巡らなければならなくなるだろう。微生物やウイルスはどうか? それらは医薬の進歩に適応して次々と変異しており、伝染病と取締役会のどちらがより危険なのか、ほとんど決め難いほどである(*11)。

 したがって、もし誰かが自分の「土地」を守り、「領土」を深く理解したいと望む場合、その場所のアイデンティティを構成するには、まだいくらでも見慣れないものたちをそこに含めなくてはならないことがわかる。実際、そういうやり方でこの展覧会と本書はつくられている。「自然界」の正規会員たちは、かろうじて認識できる程度の姿を次々に現しつつある。そのすべてを含んでいくことこそ、草の根運動を進める場合に払わねばならない代償と言えるのではないだろうか。

 より思弁的なレベルでは、地球に降り立つためには、「物質世界」について近代以来確立されてきたとらえ方や定義とは違う仕方で考えることが必要になる(Schaffer)。いま考えなくてはならない物質性は、かつて思い描かれていた物質や空間の、どちらかと言えば空想的だった概念と比べ、ずっと複雑になっている。本書では、この変化をしるしづけるための言葉をクリティカルゾーンのほかにあとふたつ付け加えよう。ガイアとテレストリアルである。

 地球的政治学を探求するためのひとつの方法は、私たちは「自然」から追放されてガイアのほうへと押しやられた、と考えることである(Lenton &Dutreuil)。ただし、ここで言うガイアとはあの有名な「生きている全体としての地球」ではなく、生命と全体の意味を再定義する機会となるような概念である。生物学者が生命を考えるとき、彼ら/彼女らは有機体を考えている。だがガイアは巨大な有機体というわけではない。それは大文字のL付きの「生(ライフ)」であり、確かにいくらかの同種の仲間たち、つまり動物や植物、細菌を含むが、それらと一緒に生命のリストには数えられない、多くのその他の同居者たち─大気、土壌、岩石、海洋、雲、鉱物、大陸─をも含む。これらは生命体によって長い時間をかけて変質させられ、移動させられ、生成させられ、居住され、発明されてきたものでもある。こうしたすべてがクリティカルゾーンを、またはある人々が「自分の」領土だと思っている諸ゾーンを成す材料である(Detreuil)。

 考えてみれば、私たちはガイア以外のどんな居住環境も経験したことはない。ガイアのなかで生きるということは、「自然のなかで」生きる人間になるということではない。ガイアはまったく独特な現象である。少なくとも別の事例がない、という普通の意味で独特であるだけでなく、文字通りあらゆる障害を超えて自己創出されてきたということ、そしてさらに重要なことには、メタレベルのモデルや指示なしにそうしてきたという意味で、独創的なのである。それでいて、ある種の自己抑制が働いてもいる。ガイアの自己創出性を理解すればするほど、「メタレベルのモデルも指示もなしの」政治学の形態を創案できるようになるだろう(Coccia)。自己抑制に関して言えば、文字通り取り組み中なのだが(*12)。

 人新世の時代に生きるならば、人類に対して完新世の時代と同じような要求をするわけにはいかない。着陸しようとする地球は、それまで考えられていたチキュウとこうも異なっているわけだから、いま多くの人々が退却したがっている幾重にも要塞化された国土とはなおさら異なっている。

 ガイアがこれほどまでに独創的なコンセプトであるのは、全体と部分について対極から問い続けたふたりの科学者たちの共同発明だったからだろう。大きいほうの極から考えたジェームズ・ラブロックと、小さいほうの極から考えたリン・マーギュリスである。小さいほう─微生物─は大きいほう─大気─を保っており、また大きいほうは小さいほうによって成り立ってもいる。このふたりの発見によって、それまで唱えられていた、スケールを拡大したり縮小したりできるマトリョーシカ式のモデルは維持できなくなってしまった。本書ではこの変化を指し示すキーワードとして「テレストリアル」を使っている。そのもっとも重要な特徴は、何かと何かが隣同士にあって、そして協力的にせよ競争的にせよある種の関係性を結ぶ、といった順序の物事から構成されているのではないことである(Stengers)。そもそも、微生物や動物や植物はそう単純にある固まりや単位に分けられるものではない。何が部分で何が全体か、そのすべてが問いに付されている。どの細胞も社会も、気候も。

 この新たな区分法は、アイデンティティを持つことの意味を変容させる。ある場所に属すること、様々な能力を他者と共有すること、自分と異なる「伴侶種」(☆6)とともにあること─つまるところ、命を持つ(アニメイテッド)とはどういうことなのか、生きもの(アニマル)であるとはどういうことなのか、という問題になってくる(Despret)。ある土地を「所有する」ことの意味もまた、絶対に解けないパズルのようなものになる。物質性の概念が変化したことにより、身体を持つことの意味も新たに考え直さなくてはならなくなった─それに伴い、政体を想像することが意味しうる内容についても再検討が必要になる(DeVries)。自然法則は新しい原則を募集中だ。「群体(ホロビオント)」(☆7)の集合と個別の有機体の集合とは異なるはずである(Flower)。募集要項が以前と同じではないので、採用結果もまた違ったものになるだろう。

 そう、だから、私たちは避けることができない。グローバルに拡大していくかわりに地球に降り立つことを望むなら、こんなにも多くの人々が反動的な政治傾向に引かれていることを真剣にとらえる必要がある。しなければならないのは、確かに人民と土地に再び焦点を当てることではあるが、それだけでなく、土壌や人々がどんなものから構成されているか、抜本的な見直しを準備することでもあるのだ。

 「うーん、これはまたずいぶんご大層な計画だ……。こんなことが、よりによって美術館の展覧会のなかに収まるだなんて、たとえ一瞬にしても、よく思えたものだ。しかも、アートがたくさんおまけにくっついてさ?」

 限られていることこそ、望むところだ! 観客にとっては美術館のなかで考えることによって、クリティカルゾーンのなかに足を踏み入れたということ、つまり自分とほかのものたちとの解けない絡まり合いを単純化したり、逃れたりできないゾーンに入ったことを体感できる場所になるよう、願っている(Haraway)。美術館の小さなスペースは、限られた空間における新たな政治学を想像する契機として理想的ではないか。この展覧会と本書を、来たるべき着陸の予行演習の手引きと考えていただけたらと思う。

 あなたの言うように大層なアイデアを試そうとするときには、展覧会はちょうどいいスケールモデルとなってくれる。展覧会を科学者たちが言うところの「思考実験」に相当するものととらえると、いろいろな可能性が見えてくる。思考実験では、ある理論があまりに突拍子もなくて検証のしようもないとき、頭のなかでそれを試し─時には発見できることもある─結果がどうなるか直観してみる。同じように、あえて「地球に降り立つ」などということが狂気の沙汰だと思われているときには、「思考展示」、ドイツ語でGedankenausstellungと呼べるものが、フルスケールでは再現できないアイデアを試す機会を与えてくれるのである。

 もっと穏やかな時代であれば、科学者たちがアーティストとのコラボレーションを嫌がったり、しても飾りかアウトリーチの域を出なかったりすることにも一定の理はあるかもしれない。だが地球が新たな動きをしているような重大な局面では、話は別である。こうした時代には、科学と政治がふたつに分けられないのと同じく、科学と芸術が分けられないこともまた真である。未知の土地に着陸するという任務を負って初めて、私たちはそのまったくの新しさに取り組むための設備が全然足りていないことに気付く。毎日洪水のように注ぎ込まれる恐ろしいニュースを理解し、適切な行動に結びつけるための想像力も精神構造も持ち合わせていない。そうした情操的素養を芸術抜きで育てられるだろうか? 天文学における変革は、表現における変革抜きには実現しえなかった─representationという語のあらゆる意味において(Hache)。

 私たちがそのごく簡単な視覚化もできていないことの証しに、あの青い惑星にクリティカルゾーンを投影して描こうとすれば、それは薄すぎてほとんど見えなくなってしまう(*13)! 有機体がほかのものたちと絡み合っていることの意味を描き出そうとした途端、それは失われてしまう。したがって今日、地球を揺るがすその他様々な出来事にも増して、私たちには自分と異なる生のあり方を感受できるようにしてくれる美学が必要である。政治家たちがかつては聞き取られることのなかった声に耳を傾け、科学者たちがかつては目に見えなかった現象に焦点を合わせられるようになることを期待されるのと同じように、アーティストは来たるべきもののかたちを私たちにも感じ取れるようにすることを課されている。本書でも展覧会でも、これらの三形態の美学とでも呼べるものが膨大に混ぜ合わされている(Aït-Touati)。

 本書の割り付けを行うに当たっては、データヴィジュアライゼーションの革新と物語化の多用を推し進めたアレクサンダー・フォン・フンボルトのやり方に多くを学んだ(Walls, Koerner)。その理由は、2019年が彼の生誕250周年であったからというばかりでなく、私たちとしては彼の仕事が、私たちが薄明のなかに照らそうとするのと同じ、歴史の虹橋の始点を兆すものであったように感じられるからだ。未知の、未征服の、地図にも載っていない土地をフンボルトが踏査したとき、あの球体としての世界(グローブ)はまだ、その後の様々な問題含みの概念に付きまとわれていない、理想的な展望であった。いわば地球はまだチキュウ化されていなかったのである。そして今日ではそれは、幸いにも様々な意味で脱チキュウ化されつつある。

 重力から磁力、気温、高度その他に至るまで、多数の尺度の計測狂だったとはいえ、フンボルトが大変な努力の末に集めた大切なデータ群も、あらゆる種類と形式の物語や日記、絵画、メモといった別種の努力によって描き出されなければ、図のなかに孤立した単なる点々になってしまう。このことは彼の「自然画」を読めばわかるはずだ。彼の世界はまだ多種多様で、飛び飛びの理解に隔てられて穴ぼこだらけのようなものだった。彼の時代にはGPSがなかったので、そのばらばらさをならしてひとつながりのイメージのように見せかけることはなかった。フンボルトは自分の足か馬車で実際にそこに行くという大きな苦難を乗り越えて自分のものにしなければならなかった風景の、そのばらばらさを隠さなかった。おかしなことに、同じ状況が200年後の今日になって、クリティカルゾーンによって明らかにされている。しかも真逆の理由から(Brantley)。統一的支配を望むどんな夢も挫折させる激しい戦いの最中に浮かび上がる、多種多様で、ばらばらな、知の隙間だらけのレオパード柄のデータ。もう一度言うが、ショートカットのコマンドはない。そういうわけで本書では、各章ごとに、多様な著者たちに短い文章を書いてもらい、違ったレイアウトで配置し、諸クリティカルゾーンの特異性への経路の数を増やそうと試みている。多種多様さが基本原則だ。政治学とは、すべてを統一するための見方を追求するものではなく、可能なかぎり多くの場と可能性とを探索するために散開していくものである。

 私たちは幻想を抱いてはいない。キュレーター陣の唯一の望みは、過去の物語を見直し、より良いバージョンを観客や読者が明確に語りだせるよう(Weibel)、世界の案内地図、「コスモグラム」(Tresch)の長い歴史に新しいエピソードを付け加えることだけだ。結局これは、カタログと展示だから……。

 本書は、時と場所、そして役割(エージェンシー)の迷子状態(disorientation)(☆8)から着手する─動き出した地球を勘定に入れたとき、近代化主義の人間たちは、いつ、どこに、どのような人として位置付け直されるのか?

 そしてこの迷子状態を、その人たちが暮らしていると思っている土地についての2種類の定義の懸隔(disconnection)として理解してみる。自分が住んでいる土地と、自分が生の糧を得ている土地。この分断によってその人たちは足場を失っている。

 したがって、いつかその人たちが移住しなければならないあの土地の姿を描き出す必要がある。驚くべきことにそのような土地は、近代という幕間劇において考えられていたようなあのチキュウにも、自然にも似ていない。ここではそれを新たにクリティカルゾーン(Critical Zones)として、あるいはガイア(Gaia)として、かつてと根本的に異なる特徴を備えたものとして描き出す。そしてそれらの特徴をテレストリアル(Terrestrial)なものとして暫定的に定義しよう。

 目下の状況の最大の悲劇は、私たちはどの惑星に共通して住んでいるのかという点について合意された定義がないことである。そのためにすべての政治学の根幹に関わる戦争状態、分裂(division)状態が生じている。

 この「諸世界の諸戦争」に読者や観客はすでに巻き込まれている。自分の戦いを選び取るために、これら諸対立のどこに自分がいるか描写する(describe)技術を急いで開発しなければならない。

 「思考展示」にできる精一杯のことは、諸技芸の助けを借りて、クリティカルゾーンにおける生き方を探求し、読者や観客を宙づり(suspension)の状態に置くための想像的空間を開くことである。

※本稿は、Bruno Latour,”Seven Objections Against Landing on Earth,“in Critical Zones: TheScience and Politics of Landing on Earth, eds. Bruno Latour and Peter Weibel(Cambridge,Massachusetts: MIT Press and ZKM|Center for Art and Media Karlsruhe, 2020)の訳出である。本書はZKMにて5月23日〜10月11日(4月18日時点予定)に開催される展覧会「クリティカルゾーン:地球的政治学のための観測所」(ZKM)のカタログとして刊行予定。本稿では底本としてラトゥールのウェブサイト上にPDF形式で公開されている序論の第2草稿(www.bruno-latour.fr/article.html、最終確認2020年3月23日)を用いた。


[原注]

*1──Bertolt Brecht. Life of Galileo. Harmondsworth: Penguin, 1980.(ベルトルト・ブレヒト『ガリレオの生涯』谷川道子訳、光文社、2013)
*2──Ayesha Ramachandran. The Worldmakers. Global Imagining in Early Modern Europe. Chicago: The University of Chicago Press, 2015.
*3──Bruno Latour, and Christophe Leclercq, eds. Reset Modernity! catalogue of the exhibition. Cambridge, Mass: MIT Press, 2016.
*4──Bruno Latour. Facing Gaia. Eight Lectures on the New Climatic Regime(translated by Cathy Porter). London: Polity Press, 2017.
*5──Michael E. Mann. The Hockey Stick and the Climate Wars: Dispatches from the Front Lines. New York: Columbia University Press, 2013.(マイケル・E・マン『地球温暖化論争:標的にされたホッケースティック曲線』藤倉良・桂井太郎訳、化学同人、2014)
*6──Kenneth Pomeranz. The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy. Princeton: Princeton University Press, 2000.(ケネス・ポメランツ『大分岐:中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成』、川北稔監訳、名古屋大学出版会、2015)
*7──Timothy Mitchell. Carbon Democracy. Political Power in the Age of Oil. New York: Verso, 2011.
*8──Pierre Charbonnier. Abondance et liberté. Paris: La Découverte, 2020.
*9──Saskia Sassen. Expulsions. Brutality and Complexity in the Global Economy. Cambridge, Mass: Harvard University Press, 2014.(サスキア・サッセン『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理:不可視化されゆく人々と空間』伊藤茂訳、明石書店、2017)
*10──Dipesh Chakrabarty.”The Planet: An Emergent Humanist Category.“Critical Inquiry 46.Autumn(2019).
*11──Hannah Landecker. ”Antibiotic Resistance and the Biology of History. “Body and Society(2015)pp.1-34.
*12──Timothy Lenton, and Bruno Latour. ” Gaia 2.0.“ Science 14 Sep 2018, 368.6407(2018) pp.1066-68.
*13──Frédérique Aït-Touati, Alexandra Arènes, and Axelle Grégoire. Terra Forma: Manuel de cartographies potentielles. Paris: B42, 2019.

[訳注]

☆1──カタログ内の寄稿文献へのリファレンス。ここで直接参照いただけないのが残念だが、複数の視点への回路を徹底的に開けているのが本文の特徴であるので、あえて訳文に残した。以下、かっこ内に人名が入る場合はすべて同様。
☆2──本テキストではthe Earthとthe Globeの対比が重要なモチーフをなす。基本的にthe Earthは「地球」とし、the Globeは文脈に合わせ「地球儀」「チキュウ」などと訳し分けた。
☆3──エージェンシー(agency)は、アクターネットワーク理論のキーターム。「行為を生み出す力」を指し、いわゆる「主体」の内外にある様々なそれらが組み合わさることで、行為を行う「主体」ないし「アクター」がつくられるとされる(ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』伊藤嘉高訳、法政大学出版局、2019、499頁より表現を短縮して引用)。本テキストでは文脈に合わせ簡素に「役割」とした。
☆4──ここで列挙されている語は、territory、Heimat、land、soil、homeland、landscape。すべてある種の帰属意識や懐かしさを伴いつつ、「自分の国」と「自分の土地」というニュアンスの重なった言葉である点を汲み取ってほしい。この後本文で文脈に合わせ「土地」・「土」と訳している語はそれぞれlandとsoilであり、「国土」という意味にもなりうる。
☆5──ドイツロマン派の自然観に影響を与えた一種の地理学。
☆6──伴侶種(companion spiecies)は、ダナ・ハラウェイが提唱する概念。系統的、機能論的な種間の差異や関係を固定的に定義するのとは別の仕方で、異なる種や存在がともに過ごすなかで相互に形成し合いながら生きる、一つひとつの生成的な関係性に着目しようという意図を含む。
☆7──ホロビオント(holobiont)は、生物学者リン・マーギュリスによる造語。同種個体の連結体を指して普通に群体(コロニー)と言う場合とは異なり、例えば褐虫藻やバクテリア、古細菌等との複雑な共生関係にある造礁サンゴのように、複数種の生命体がひとつの生命体のように振る舞う状態を指す。
☆8──以下、太字はカタログの各章タイトルに対応する。

協力=逸水一葉 編集協力=荒木朋子

 

訳者解題 「扉を開け続けること」

 じつは本特集の発売翌日、2020年5月8日に、ブリュノ・ラトゥールがメインキュレーターを務める展覧会「クリティカルゾーン:地球的政治学のための観測所」のオープニングを迎えるはずだった。本稿執筆時点では、会場のZKMが新型コロナウイルス感染症対策で閉鎖しており、開催に向けた調整が続いている。

 訳出したテキストは本展覧会カタログの序論に当たる。多くの寄稿者たちの名とともに、いまラトゥールが取り組んでいる諸問題への扉がいくつも開かれている。

 本展はラトゥールがこれまでZKMで行った3度の展覧会の蓄積も踏まえ、時間をかけて準備されてきた。展覧会の実制作に携わるいわゆるキュレーションチームと別個に、ZKMと同じ建物内のHfG(カールスルーエ造形大学)でラトゥールが主宰する「クリティカルゾー ン・スタディグループ」が組織されていたことはその特色である。筆者はラトゥールの展覧会について修士論文を書いたことが縁で、この30名ほどのグループに席を得、2018年1月から全6回のセッションに参加してきた。渡航費には苦しんだが、切り詰めてどうにか皆勤した。

 このグループはいわば新しい展覧会を熟成させるための醸造所で、作品配置等には直接携わらないが、多彩な活動を通じて関連するトピックを話し合うメンバーの集まりである。ラトゥールがその日テーブルに置く問いに応じ、即興劇をしたり、ゲストの講義を聞いたり、ご飯を食べたり、互いの研究をレポートしたり(*1)、実際のクリティカルゾーン観測所がある雪山に遠足したりしながら、主要トピックである気候変動への関心を深め、ある雰囲気を共有してきた。メンバーの出自は様々で、一週間ずつのセッションが終われば、各自の生活に戻り、数ヶ月のインターバルを置いてまた集まる。初めは気候変動への世間の無関心について議論していたが、この2年のうちにグレタ・トゥーンベリが状況を一変させ、私たちの問いも一段と具体的になった。この間、病を養った者、親族を失った者、新たな家族の増えた者がおり、互いに気遣い、現実を生きながら、考え続けてきた。

 このようなグループが展覧会制作と並行して存在したのは驚くべきことで、ほかにない環境だと多くの参加者は言う。適度な親密さと対等さを基調に、風通しの良い議論が奨励され、知的関心と配慮の持続があった。このスタディグループにはHfGが費用や講義室を提供し、他方、展覧会本体はZKMが国や州などの資金を得て実施することになっている。この分担構図は、HfG学長だったジークフリート・ジエリンスキーのイニシアチブとZKM館長のピーター・ヴァイベルの協力で実現した。大学をいかに開けた環境にしていくか、という公共的な挑戦の一環でもあったと聞いている。

 ラトゥールは「リセット・モダニティ!」展(2016)を含め、これまでにも若手の学者や学生との協同制作をしているが、その都度今回のように、惜しみなく問いを共有してきたのだろう。その姿勢は、正解を出して議論を閉じるというより、扉を開け続ける動的なイメージが良く似合う。

 別の視点を加えると、ここで体現されている公共性のあり方、つまり気候変動に対して大学や美術館が機能する構造は、近代ヨーロッパという世界の一地方に端を発した社会の特徴である。コートジボワールで人類学を学んだラトゥールは、その自覚を踏まえて「自己描写」を重要視する。彼の文体は、ヨーロッパ的公共性をフルスペックで実現する環境を舞台に、これがヨーロッパの最上の良心です、と演劇的に提示して見せるものにも思える。その身振りは、一見した以上に歴史的で荘重なもののように感じる(*2)。同時にそこには、あなたは何か違ったものを持っているでしょう、という含みがある。カールスルーエで触れた「ヨーロッパの良心」は、いまもずしりと重みをもって手の中にある。それをこれからどうやって返していこうか。

2019年1月のエクスカーション。もとは酸性雨の研究のために設けられたフランスの環境水文地球化学観測所では、ヴォージュ山脈の一定区画に降る雨が植生や地層を通って観測地点に流れ込むまで一連の作用を30年以上記録し続けている。クリティカルゾーン観測所と実際に呼ばれる場所のひとつ。地球化学者マリ=クレール・ピエレ(Marie-Claire Pierret)の話に耳を傾ける

*1──参加者たちは各々の関心でこのグループに関わる。私は展覧会の主要テーマである「知識の変革と社会秩序の変革との連動」事例として、近世キリスト教伝来時代の儒学者林羅山と日本人修道士ハビアンの「地球論争」や、禁教政策下での棄教者の内的屈折に関心を抱いている。「地球論争」については、国立科学博物館の有賀暢迪氏(科学史)から紹介いただいた大阪大学の森下翔氏(科学人類学)に教わった。
*2──ラトゥールの「ヨーロッパ人」としての自己描写については、『地球に降り立つ:新気候体制を生き抜くための政治』(川村久美子訳、新評論、2019)第20章を参照されたい。