訳者解題 「扉を開け続けること」
じつは本特集の発売翌日、2020年5月8日に、ブリュノ・ラトゥールがメインキュレーターを務める展覧会「クリティカルゾーン:地球的政治学のための観測所」のオープニングを迎えるはずだった。本稿執筆時点では、会場のZKMが新型コロナウイルス感染症対策で閉鎖しており、開催に向けた調整が続いている。
訳出したテキストは本展覧会カタログの序論に当たる。多くの寄稿者たちの名とともに、いまラトゥールが取り組んでいる諸問題への扉がいくつも開かれている。
本展はラトゥールがこれまでZKMで行った3度の展覧会の蓄積も踏まえ、時間をかけて準備されてきた。展覧会の実制作に携わるいわゆるキュレーションチームと別個に、ZKMと同じ建物内のHfG(カールスルーエ造形大学)でラトゥールが主宰する「クリティカルゾー ン・スタディグループ」が組織されていたことはその特色である。筆者はラトゥールの展覧会について修士論文を書いたことが縁で、この30名ほどのグループに席を得、2018年1月から全6回のセッションに参加してきた。渡航費には苦しんだが、切り詰めてどうにか皆勤した。
このグループはいわば新しい展覧会を熟成させるための醸造所で、作品配置等には直接携わらないが、多彩な活動を通じて関連するトピックを話し合うメンバーの集まりである。ラトゥールがその日テーブルに置く問いに応じ、即興劇をしたり、ゲストの講義を聞いたり、ご飯を食べたり、互いの研究をレポートしたり(*1)、実際のクリティカルゾーン観測所がある雪山に遠足したりしながら、主要トピックである気候変動への関心を深め、ある雰囲気を共有してきた。メンバーの出自は様々で、一週間ずつのセッションが終われば、各自の生活に戻り、数ヶ月のインターバルを置いてまた集まる。初めは気候変動への世間の無関心について議論していたが、この2年のうちにグレタ・トゥーンベリが状況を一変させ、私たちの問いも一段と具体的になった。この間、病を養った者、親族を失った者、新たな家族の増えた者がおり、互いに気遣い、現実を生きながら、考え続けてきた。
このようなグループが展覧会制作と並行して存在したのは驚くべきことで、ほかにない環境だと多くの参加者は言う。適度な親密さと対等さを基調に、風通しの良い議論が奨励され、知的関心と配慮の持続があった。このスタディグループにはHfGが費用や講義室を提供し、他方、展覧会本体はZKMが国や州などの資金を得て実施することになっている。この分担構図は、HfG学長だったジークフリート・ジエリンスキーのイニシアチブとZKM館長のピーター・ヴァイベルの協力で実現した。大学をいかに開けた環境にしていくか、という公共的な挑戦の一環でもあったと聞いている。
ラトゥールは「リセット・モダニティ!」展(2016)を含め、これまでにも若手の学者や学生との協同制作をしているが、その都度今回のように、惜しみなく問いを共有してきたのだろう。その姿勢は、正解を出して議論を閉じるというより、扉を開け続ける動的なイメージが良く似合う。
別の視点を加えると、ここで体現されている公共性のあり方、つまり気候変動に対して大学や美術館が機能する構造は、近代ヨーロッパという世界の一地方に端を発した社会の特徴である。コートジボワールで人類学を学んだラトゥールは、その自覚を踏まえて「自己描写」を重要視する。彼の文体は、ヨーロッパ的公共性をフルスペックで実現する環境を舞台に、これがヨーロッパの最上の良心です、と演劇的に提示して見せるものにも思える。その身振りは、一見した以上に歴史的で荘重なもののように感じる(*2)。同時にそこには、あなたは何か違ったものを持っているでしょう、という含みがある。カールスルーエで触れた「ヨーロッパの良心」は、いまもずしりと重みをもって手の中にある。それをこれからどうやって返していこうか。
*1──参加者たちは各々の関心でこのグループに関わる。私は展覧会の主要テーマである「知識の変革と社会秩序の変革との連動」事例として、近世キリスト教伝来時代の儒学者林羅山と日本人修道士ハビアンの「地球論争」や、禁教政策下での棄教者の内的屈折に関心を抱いている。「地球論争」については、国立科学博物館の有賀暢迪氏(科学史)から紹介いただいた大阪大学の森下翔氏(科学人類学)に教わった。
*2──ラトゥールの「ヨーロッパ人」としての自己描写については、『地球に降り立つ:新気候体制を生き抜くための政治』(川村久美子訳、新評論、2019)第20章を参照されたい。