EXHIBITIONS
今と昔の風景 吉田博
MOA美術館で「今と昔の風景 吉田博」が開催される。
吉田博(1876〜1950)は久留米市生まれ。18歳で上京して小山正太郎 (1857〜1916)の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業を開始する。1899年(明治32年)23歳のとき、描き溜めた水彩画を携え、 1か月分の生活費のみを持って後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行った。このとき、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパも巡り2年後に帰国している。さらに2年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをとともにふたたび渡米し、3年以上をアメリカ、 ヨーロッパで過ごした。これらの外遊によって古今の西洋美術に触れるとともに大いに画技を磨き、日本最初の洋画団体である太平洋画会の中心人物として活躍する。
1920年(大正9年)、44歳のとき、版元渡邊庄三郎との出会いにより、初めての木版画「明治神宮の神苑」を出版。 当初は版画の下絵を制作する程度だったが、関東大震災後、 被災した太平洋画会会員の作品販売を目的に渡米した際、アメリカで日本の版画が大変な評判であることを知り、みずから習得した西洋の写実的な表現と日本の伝統を生かした新しい木版画創造の必要性を実感するに至った。帰国した1925年(大正14年)、49歳のとき、初めてみずから監修した木版画の作品を発表し、その後の後半生は油彩画と並行し木版画の制作に情熱を傾けた。
吉田は風景を描く際の心得として「風景にやどる真の美を見ひらき、風景のもつ美しき姿の深い理解がなくては、真の風景画を描き得るものではない」とし、みずから体感した風景を作品にした。とくに木版画では、油彩画のタッチと水彩画の色彩表現を用いた洋画技法を取り入れ、未開拓の新しい芸術を創造した。
本展では、合計7年間を超える外遊から生まれた「米国シリーズ」、「欧州シリーズ」や、刻一刻と変化する海をとらえた「瀬戸内海集」シリーズなど、木版画の代表作約70点を展示。また、吉田が描いた風景の現在の姿を撮影し、独創的な技術で表現された作品の魅力をオリジナル映像で比較展示する。
吉田博(1876〜1950)は久留米市生まれ。18歳で上京して小山正太郎 (1857〜1916)の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業を開始する。1899年(明治32年)23歳のとき、描き溜めた水彩画を携え、 1か月分の生活費のみを持って後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行った。このとき、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパも巡り2年後に帰国している。さらに2年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをとともにふたたび渡米し、3年以上をアメリカ、 ヨーロッパで過ごした。これらの外遊によって古今の西洋美術に触れるとともに大いに画技を磨き、日本最初の洋画団体である太平洋画会の中心人物として活躍する。
1920年(大正9年)、44歳のとき、版元渡邊庄三郎との出会いにより、初めての木版画「明治神宮の神苑」を出版。 当初は版画の下絵を制作する程度だったが、関東大震災後、 被災した太平洋画会会員の作品販売を目的に渡米した際、アメリカで日本の版画が大変な評判であることを知り、みずから習得した西洋の写実的な表現と日本の伝統を生かした新しい木版画創造の必要性を実感するに至った。帰国した1925年(大正14年)、49歳のとき、初めてみずから監修した木版画の作品を発表し、その後の後半生は油彩画と並行し木版画の制作に情熱を傾けた。
吉田は風景を描く際の心得として「風景にやどる真の美を見ひらき、風景のもつ美しき姿の深い理解がなくては、真の風景画を描き得るものではない」とし、みずから体感した風景を作品にした。とくに木版画では、油彩画のタッチと水彩画の色彩表現を用いた洋画技法を取り入れ、未開拓の新しい芸術を創造した。
本展では、合計7年間を超える外遊から生まれた「米国シリーズ」、「欧州シリーズ」や、刻一刻と変化する海をとらえた「瀬戸内海集」シリーズなど、木版画の代表作約70点を展示。また、吉田が描いた風景の現在の姿を撮影し、独創的な技術で表現された作品の魅力をオリジナル映像で比較展示する。