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空気まで写し取る木版画が一堂に。「没後70年 吉田博展」でその生涯をたどる

明治から昭和にかけて風景画を中心に活躍した吉田博の木版画に焦点を当て、200点近い作品やスケッチともにその技術や主題の変遷を紹介する大規模な個展が、東京・上野の東京都美術館で開幕した。会期は1月26日~3月28日。

展示風景より

 明治から昭和にかけて、風景画を中心に活躍した吉田博(1876~1950)。その没後70年を記念し、吉田の木版画を200点近い作品やスケッチとともに紹介する大規模個展「没後70年 吉田博展」が東京・上野の東京都美術館で開幕した。会期は1月26日~3月28日。

 吉田は1876年、福岡・久留米に生まれる。若き日から洋画に取り組み、幾度もの海外体験を通じて東西の美術に触れながら、写実による質の高い絵画表現を確立した。

 いっぽうで、吉田の評価を不動のものとしたのが木版画だ。世界各国を旅し、雄大な自然や都市の情景をとらえた吉田の木版画は、現在にいたるまで高い評価を誇る。本展は、初期から晩年にいたるまでの吉田の木版画を一堂に集め、西洋の写実的技法と日本の伝統的な版画技法の統合を目指したその全貌を紹介するものだ。

展示風景より、吉田博《山中湖》(1929)

 会場は、吉田が木版画の制作を手がけ始めた1920年代から、最後の木版画を制作した太平洋戦争集結直後の晩年にいたるまでを、時系列で追った11章で構成。吉田がいかに木版画と出会い、その技術を高め、扱う主題を変えていったのかを総覧することができる。

 展覧会冒頭では、19世紀後半の初期から大正期にいたるまでの油彩画とともに、版元・渡邊庄三郎のもとで初めて下絵を手がけた木版画《明治神宮の神苑》(1920)などを展示。最初期の吉田の画業がいかに木版画へと展開し、新たな境地を切り開いたのかをたどることができる。

展示風景より、吉田博《明治神宮の神苑》(1920)
展示風景より、吉田博《穂高山》(大正期)

 また、吉田は生涯を通じて世界各国を旅し、目に映ったものを作品のモチーフとしてきた。関東大震災で手がけた木版画の版木がすべて焼けた吉田は、被災した画会の仲間を救うために800点もの作品を携えて渡米。そこで仲間の油絵よりも好評を博したのが焼け残った木版画であった。これをきっかけに、吉田は私家版の版行に乗り出すことになる。会場で展示されている「米国シリーズ」は、この米国での経験を契機に発行されたものだ。つねに世界における自らの立ち位置を考えながら、勝負を続けた吉田の姿勢がうかがえる。

展示風景より、吉田博《グランドキャニオン》(1925)「米国シリーズ」より
展示風景より、吉田博《レニヤ々》(1925、「米国シリーズ」より)

 次いで1920年代には「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」といった代表的なシリーズが制作され、吉田の代表的な作風が現れてくる。洋画の描法をベースにしながら、空気感を表現した光や大気、温度を繊細に表現する。水彩画で培った顔料の扱いの技術や、平均三十数度を超えるという入念な摺りによって生み出された。日本アルプスの山並みや雲、瀬戸内海の海面や波に、その色彩の美しさを見て取れるだろう。

展示風景より、吉田博《烏帽子岳の旭》(1926、「日本アルプス十二題」より)
展示風景より、吉田博《劔山の朝》(1926、「日本アルプス十二題」より)
展示風景より、左が吉田博《帆船 朝》(1926、「瀬戸内海集」より)

 また、吉田は山歩きを好み、山を主題に多くの作品を残した。八ヶ岳や駒ヶ岳、そして富士山にも自ら登り、光と雲が変化する様子を観察したという。展覧会では、山頂からの雄大な景色のみならず、山を見上げる平地からの風景や、河川との山とのコントラストなど、構図の妙も楽しみたい。

展示風景より、吉田博《駒ヶ岳山頂より》(1928、「日本南アルプス集」より)展示期間:1月26日〜2月28日
展示風景より、吉田博《むさしの》(1928、「冨士拾景」より)展示期間:1月26日〜2月28日
展示風景より、吉田博《写生帖No.159》(明治期)

 吉田の木版画の仕事としては、都市や村落の情景を描いたものも忘れてはならない。吉田が敬愛していたジェームズ・マクニール・ホイッスラーの絵画を想起させるような河景を描いた「隅田川」の連作のほか、歌川広重が「名所江戸百景」で描いた亀戸天神境内との比較も興味深い、88回もの摺りを重ねたという《亀井戸》(1927)、墨版に亜鉛凸版を重ねて雨上がりの夜の路地を緻密に表現した《神樂坂通 雨後の夜》(1929)など、傑作を数多く残している。

展示風景より、左から吉田博《隅田川 夕》(1926)、《隅田川》(1926、「東京拾二題」より)
展示風景より、左から吉田博《亀井戸》(1927、「東京拾二題」より)
展示風景より、吉田博《神樂坂通 雨後の夜》(1929、「東京拾二題」より)

 1930年、吉田は四度目の外遊に出て、上海、香港、シンガポール、ラングーン(ヤンゴン)を経由し、北インドを中心にさまざまな街や遺跡をめぐった。このときの景色との出会いを題材とした吉田博最大のシリーズが「印度と東南アジア」だ。現在は世界遺産となっている総大理石の墓廟、タージ・マハルや、世界第3位のヒマラヤの高山・カンチェンジュンガなど、国内や西洋のモチーフとは異なる吉田のアジアへの視線を知ることができる。また、陰影や造詣が複雑な神殿や遺跡の建築や彫刻を、淡色を幾度も重ねて表現する技法などが開拓されていることもわかるだろう。

展示風景より、左から吉田博《タジマハルの朝霧 第五》、《タジマハルの夜 第六》(1931、「印度と東南アジア」より)展示期間:1月26日〜2月28日
展示風景より、左から吉田博《カンチェジャンガ 朝》《カンチェジャンガ》(1931、「印度と東南アジア」より)
展示風景より、吉田博《フワテプールシクリ》(1931、「印度と東南アジア」より)

 1935年以降の吉田は、京都や奈良に取材した「関西」や、日本各地の桜を描いた8点組の「櫻八題」といった連作を発表。題材に取られた土地は、いまも多くの人々が訪れる観光地も多く、戦前の姿を作品から想像する楽しみもある。

展示風景より、吉田博《猿澤池》(1933、「関西」より)
展示風景より、右が吉田博《弘前城》(1935、「櫻八題」より)
展示風景より、吉田博《三溪園》(1935、「櫻八題」より)

 また、1936年に吉田は、当時日本の支配下にあった挑戦と中国を訪れ、後に「北朝鮮・韓国・旧満州」と名づけられるシリーズを制作する。さらに1937年に勃発した日中戦争では、従軍画家として大陸に渡った。当時の詳しい道程は明らかとなってないが、写生帖には大陸の地名とともに土地土地の景色が描き残されている。

展示風景より、吉田博《大同門》(1937、「北朝鮮・韓国・旧満州」より)
展示風景より、吉田博《奉天市場》(1937、「北朝鮮・韓国・旧満州」より)展示期間:1月26日〜2月28日
展示風景より、吉田博《写生帖No.151》(1940)

 他方、吉田が60代前半に国内を描いた1937年作品は、寺社を中心とした日本的な景色が続く。太平洋戦争の足音が聞こえるなか、日本的な美観を積極的に取り上げようとしたと考えることもできるだろう。

展示風景より、吉田博《陽明門》(1937)
展示風景より、吉田博《東照宮》(1937)千葉市美術館蔵 展示期間:1月26日〜2月28日

 東京・下落合の自宅も焼けることなく終戦を迎えた吉田だったが、戦後は木版画を1点しか残さなかった。その作品、《農家》(1946)は、ひなびた農家の暗い土間を描いており、世界中の風景を写し取った華やかな作風とは、対象的なものとなった。

展示風景より、吉田博《農家》(1946)

 吉田が生涯に残した木版画は約250点にのぼる。伝統的な版画技法を応用するのみならず、洋画家として培った技術や視点から、真にオリジナルな版画とは何かを追求した吉田の作品群。本展ではそれらを総覧することで、吉田の木版画の独創性を再確認するとともに、現代の絵画やイラストに与えた影響までもが示唆される。

展示風景より、吉田博《中里之雪》(1928、「東京拾二題」より)
展示風景より、左から吉田博《こども》、《鏡之前》(ともに1927)
展示風景より、左から吉田博《姫路城》、《姫路城 夕》(ともに1926)
展示風景より、右が吉田博《池の鯉》(1926)

編集部

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