椹木野衣 月評第95回 空気で傷つくのは誰なのか 小泉明郎「空気」展
本展は、同時期に東京都現代美術館で開催された「キセイノセイキ」展での展示が実現せず、会場ではキャプションと照明のみとなった小泉明郎の連作《空気》を、同館の近隣に位置する無人島プロダクションに移し、ギャラリーと作家の責任で個展として実現したものである。会場には、ここに至った館とのやりとりを小泉が振り返った文書が置かれたが、それもまた館内での配布が許諾されなかったと聞く。さらには会期中に、やはり美術館では実現することが叶わなかった本作をめぐるトークイベントが2度にわたって開かれ、もぬけ同然となっていた館での展示をめぐる顛末の一端も知られるに至った。これでは美術館は鑑賞者が作品(の不在)について知る権利を奪ったも同然である。本展がなかったらいったいどうなっていたのだろう。
なにが問題だったのだろうか。それは小泉の手による本連作が、天皇の肖像を扱っていることに端を発する。だが、当該の肖像画で実際には天皇ら皇族の姿は透明化され、シルエットのみとなって既存の背景と一体化している。つまり正しくは肖像を「描いた」のではなく、記録画から「消した」のであり、「空気」というタイトルもそこに由来する。むろん、このタイトルが昨今の日本語で盛んに使われるようになった自粛の同調圧力=「空気を読め」から取られているのは言うまでもない。
ただし、天皇の肖像画にまつわるかぎり、本作の展示自粛を昨今の風潮にだけ引きつけるわけにはいかない。過去に大浦信行による天皇の肖像画をめぐって名古屋高裁金沢支部の控訴審まで訴訟が至った「富山県立近代美術館事件」があるからだ。
もっとも、両者は対照的だ。富山事件では天皇の肖像がコラージュされたのに対し、後者では消されている。また前者では図録が焼却されたのに対して、後者は展覧会終了後も公式の図録が発行されていない。コラージュにせよ焼却にせよ、要は、かつての問題を誘発したのが能動的な行為であるに対して、今回はそうした問題を誘発しかねない経緯の発露そのものが最初から消されている。
展示に難色を示したという長谷川祐子チーフ・キュレーターの言辞を書き留めた小泉の文書によると、同氏は重い問題であるわりに煮詰める時間的余裕がないことに加え、戦前の「不敬罪」との比較を持ち出して説得をしたとされている。しかし戦後にあっても富山判決で天皇の肖像権(プライバシー)は国民統合の象徴であることから一定の制約を受ける=一概に表現の自由を妨げないことが確定している。誰の目にも明白な侮辱であれば見解も分かれよう。だが、たんに「空気化」した肖像の展示を「誰かが傷つくかもしれない」という、現行憲法では明記されておらず、個人の権利に根ざさない不特定な人権侵害の余地を理由に公的な美術館が規制するのは大きな問題だ。しかも、それを作家が内面化した(=納得した)今回の事例は、事象の社会的な大小によらず、表現の是非をめぐる水準を富山事件よりも極端に後退させてしまっている。このような不特定な人権侵害(=誰かが傷つく)を理由に美術館が表現に介入することが常態化すれば、美術表現は事実上、不可能になってしまいかねない。
(『美術手帖』2016年7月号「REWIEWS 01」より)