「個人の魂」を残す
──DIVAとして映画やJ-POP歌姫にまつわる執筆、演技、ラジオなど幅広く活動されているゆっきゅんさん。「出光真子 おんなのさくひん──ある映像作家の自伝」をご覧になっていかがでしたか?
ゆっきゅん フィルム作品のほうが、より出光さんにとって個人的な作品という印象を受けました。ビデオや物語的な作品も個人的な体験が発端だと思うんですけど、ビデオ作品のほうがより社会や構造に目を向けているような感じがしました。例えば嫌なやつにしっかり嫌なことを言ったり、ステレオタイプな悪役をあえて登場させたり、わかりやすく人に伝える工夫がされている。あの男性の声(《おんなのさくひん》のナレーション)は気持ち悪かったですね……。

──今回、1970年代から80年代の作品が中心に出展されていますが、ゆっきゅんさんはフェミニズムの文脈で語られる同時代の映画作品を多く観られていると思います。その視点から、出光さんの作品をどう観ましたか?
ゆっきゅん どの作品もすごく批評的実践のなかでつくられていて、明らかに怒りとか違和感が込められた矢印を感じました。既存の価値観や自分が着せられてきたもの、抑圧や制限に対する疑問とか義憤、そういうものが創作の原動力になっていて、明確にフェミニズムを感じます。当時の構造を批判したいときに、出光さんはビデオや物語を必要としたんだなって。時間が経てばなかったことになってしまうような個人の魂を残そうとするときに、アート的な映像作品を呼び寄せるような、そういう作家なんだなって思いました。
──出光さんは映像を撮る側でもありますが、いくつかの作品には自分も出演しています。ゆっきゅんさんも作品をつくる人であると同時に、ご自身も人前に出たり、映像に映ったりされています。出光さんの映像のなかの身体をどう捉えましたか?
ゆっきゅん 出光さんは複数の作品にご自身で出演されていたけど、あまり顔の印象を覚えていなくて。メイクしている作品《Make Up》(1978)もありましたが、顔が映ることによる自我の主張のようなものが感じられませんでした。むしろ《おんなのさくひん》のようなご本人の顔は出てこない作品のほうが、出光さんの自我を感じるというか。ご本人が出ている作品は、自分というより、自分のように「抑圧を受けている女」の役割を演じている印象で。それこそ、周りに頼める人がいたら被写体は出光さんじゃなくても良かったのではないかと思えるぐらいの匿名性を感じました。つくりたい作品や表現したいことのために自分が出ることもある、という感じなのかなと。
























