制作活動は、自分自身の「魂をつくる」こと
田坂博子(以下、田坂) 出光真子さんは日本における実験映画、ビデオアートのパイオニア的な存在として1960年代後半から活動されています。1940年に出光興産の創業者の四女として裕福な家庭に生まれ育ったものの、非常に家父長制の強い家だったこともあり、その後渡米し、サム・フランシスという抽象画家と結婚されました。2人のお子さんを産んでから、独学で作品をつくり始め、現在開催している「出光真子 おんなのさくひん──ある映像作家の自伝」では、2004年の最終作までを展示しています。
遠藤みゆき(以下、遠藤) 家庭環境への反発や、日本の伝統的な社会から逃れたいという思いが渡米の背景にあったようです。夫のサムは、「どんな人間であれ、創作の意欲を消すことはできない」と制作活動を後押ししてくれたものの、「妻や母の役目をしっかり果たすこと」という条件も提示していました。出光さんが人生を通して抱え、作品にしてきた個人の問題は、同時代の普遍的な問題とつながっていくんです。いま観ても、「こういうことってあるよね」と共感できる部分があります。
田坂 出光さんは英語での不慣れな生活のなかで、2人のお子さんを連れてカメラを買いに行き、フィルムで映像を撮り始めました。「自分にできることは人間の動作を観察すること。自分の目で見たものを視覚的に表現したい」と考え、フィルムカメラを買ったと語っています。
遠藤 あるトークイベントのなかで出光さんは、「制作活動は大袈裟に言うと、自分自身の魂をつくることのようなものだ」と話していました。「作品をつくり続けていないと死んでしまう」というような気持ちを持っていたようです。創作自体が自分の慰めにもなるし、人間性をつくり変えていくような営みでもあったのだと思います。出光さんがつくる手を止めなかった理由には、生きることとの結びつきがあったからだと感じます。

田坂 ちょうど出光さんが創作活動を始めた頃に、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを掲げた第二波フェミニズムの流れがありました。《Woman’s House》(1972)という作品は、女性制作者たちによる企画「ウーマン・ハウス」を出光さんが初めて16ミリフィルムで記録したものです。いっぽうで出光さん自身は、アメリカの白人中心のウーマン・リブの運動とは距離を感じるところもあったようです。当時、アジア人の女性であることを理由に、フィルムの現像機材を使わせてもらえなかったこともあったそうで。それが自身で現像を学ぶことにつながるのですが、そういった複層的な状況で作品をつくられていたわけです。

























