【今月の1冊】近代的思考の硬直を解きほぐす『近代の〈物神事実〉崇拝について─ならびに「聖像衝突」』

『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート&カルチャー本の中から毎月、注目の図録やエッセイ、写真集など、様々な書籍を紹介。2017年12月号の「今月の1冊」は、ブリュノ・ラトゥールの著書『近代の〈物神事実〉崇拝について─ならびに「聖像衝突」』を取り上げた。

文=中島水緒

ブリュノ・ラトゥール著『近代の〈物神事実〉崇拝について─ならびに「聖像衝突」』の表紙

近代的思考を解きほぐすための方法論

 ある彫刻家が前日に自分で彫り上げた彫像を、明くる朝に見て怯える。全面的な自由をもって制作していたはずの制作者が、自分の制作物に支配されてしまう転倒現象。自分が手掛けた女神像に恋をしたピュグマリオンのように「物神崇拝」に陥らないためには、彫刻家は作品を破壊すること=「聖像破壊」によって理性を取り戻すしかないのだろうか?

 フランスの哲学者ブリュノ・ラトゥールの論考を収めた本書は、ラ・フォンテーヌの寓話を変奏しながら近代的思考の告発から始まる。収録される2つの論文のうち第1論文「近代の〈物神事実〉崇拝について」は、近代人による物神崇拝批判の脱構築をもくろむテクストだ。他方、第2論文「聖像衝突」は、2002年にドイツで開催された「聖像破壊」をめぐる展覧会のためのテクストである。「物神崇拝」と「聖像破壊」。相反するかのような2つの概念の間の循環構造を暴き出し、硬直した近代的思考を解きほぐすのが本書の狙いだ。

 石や粘土でできた偶像を崇拝する未開部族に対し、近代人は「あなたたちが自分の手で物神をつくったということと、その物神が本物の神々であることを同時に言うことはできない」と批判し、どちらかいっぽうの選択を迫る。近代人は「物神」と「事実」を区別する。「事実」という語は外部の実在を、「物神」という語は主体による信仰を指し示すわけなのだが、ラトゥールはどちらの概念もラテン語の語源のなかに同じ曖昧さがあると言う。そして、2つの概念に差異をもうけず実践を行動に移すとき、「物神事実」なる新概念が誕生し、二者択一を迫る態度が克服される。

 2論文ともに難解だが、作品制作の現場に即して考えれば想像を広げやすいだろう。芸術家は自分の行為が完全に制御できると思わないまま、主体/客体、能動/受動の間を移行しながら制作し、小説家は「自分の登場人物に突き動かされて」書く。「我々の活動の一つひとつにおいて、我々が制作するものは我々を超える」(59頁)。制作者たちがアトリエや書斎で日々体験するこの感覚は、ラトゥールの難解な議論を動的な制作論のモデルで読み替える助けとなるはずだ。

 もうひとつ、本書が示唆するのは「信仰」についての柔軟な構えの要請ではないか。不寛容さが蔓延るこの世界では、他者の「信仰」への接し方がますます難しくなってきている。ラトゥールが指摘した「信仰者」を批判する近代人の自己矛盾を思い出すとき、新たな視座が得られるかもしれない。多方面に思索を促す知的興奮に満ちた1冊である。

『美術手帖』2017年12月号「BOOK」より)