時代を記述する美学者の視線
ベルクソン研究を原点とする時間論、バロック・マニエリスム論、アメリカにおけるシュルレアリスムの展開、さらには日本文化への関心を含み込む肉体表象論まで。芸術をめぐる思索をいくつもの書物に著してきた美学者の谷川渥が、約30年にわたる批評活動の軌跡を1冊にまとめた。ただし本書は上記のような理論書の類ではなく、現代日本美術の状況に即して雑誌や展覧会カタログに発表してきた比較的短い文章の集成である。時評的文章を中心に集めているために言及対象もジャンルも様々だが、通読したところ各文章の印象はさほどバラついていなかった。全体を「物語」として読ませる主旨のもと組み立てられた、谷川の理論的関心に沿う章立てが功を奏しているのだろう。
第1章「前衛の透層」では、瀧口修造、宮川淳、加納光於といった戦後日本を代表する批評家、作家を取り上げ、彼らの追求した問題系と自身の美学的関心を共鳴させている。続く第2章「表層の冒険」は、抽象画家について論じた文章を集め、「鏡」「窓」に例えられてきた絵画の伝統的メタファーの超克を試みる。取り上げられる作家は松本陽子、山田正亮、中村一美など。フォーマリスティックな問題意識を持つ画家たちの仕事が中心だが、欧米の文脈とは異なる彼らの「日本的」側面への目配りも忘れられてはいない。
第3章「現代美術のトポグラフィ」になると話題は一転して抽象以外の絵画、彫刻作品へ。この章に皮膚論的想像力を宿した作品群についての文章が集められたことにより、とりわけ1990年代の日本の美術シーンにおける「スキン・スケープ」が描出される。第4章「〈版〉のコスモロジー」では棟方志功をはじめとする版画作品が論じられるが、言うまでもなくこれは皮膚論的想像力のひとつの発展形だ。そして最終章「肉体と眼差し」では、荒木経惟、寺山修司、三島由紀夫といった個性豊かな表現者たちの鮮烈な肉体観にメスが入れられ、本書の前半では理論的側面への傾きによって硬質だった批評の手触りも、より闊達(かったつ)なものへと変質する。
「物語」の運びが自然に流れるような構成だが、谷川自身が述べるように、時評的文章には「アクチュアルにしていささかきなくさい」側面も付きまとう。「きなくささ」は「物語」をはみ出す要素として歓迎すべきものと言えるだろう。時評が映し出す時代の空気、理論と実践の生々しい接触の界面が垣間見える本書は、谷川の著作のこれまでにない側面を確かに示している。
(『美術手帖』2018年2月号「BOOK」より)